残香の証明

残香の証明

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第一章 呼ばれぬ客と奇妙な香り

梅雨の晴れ間、江戸の空は洗い流されたように青く澄んでいた。神田の裏通り、その一角に凜(りん)の仕事場兼住まいはあった。古い町屋の引き戸を開けると、鼻腔をくすぐるのは、白檀、沈香、丁子といった香木の、静かで複雑な香り。凜は「香守(こうもり)」を生業としていた。失われた香りを記憶から呼び覚まし、この世に再現する。それは、依頼主の思い出を形にする、儚くも美しい仕事のはずだった。

だが、凜にとってその能力は呪いに近かった。香りは、ただの匂いではない。それに纏わる情景、人の感情、時には痛みさえも、鮮明に彼の内に流れ込んでくる。その奔流に呑まれぬよう、凜は心を閉ざし、人との交わりを極力避けながら、ただ黙々と香木を削る日々を送っていた。

その静寂を破ったのは、無骨な足音だった。

「御免!」

現れたのは、南町奉行所の定町廻り同心、佐伯(さえき)と名乗る男だった。日に焼けた顔に刻まれた深い皺が、その苦労を物語っている。男が持ち込んだのは、事件の匂いだった。それも、ひどく血生臭い。

「日本橋の豪商、三国屋の主人が殺された。昨夜のことだ」

佐伯の声は、湿った土のように重い。

「現場は密室。荒らされた形跡はなく、おそらくは顔見知りの犯行だろう。だが、容疑者が多すぎて絞りきれん」

凜は眉をひそめた。なぜ、自分が。香守は、事件とは無縁の世界に生きているはずだ。

「私に、何をお望みで?」

「現場に、奇妙な香りが残っていた。嗅いだことのない、甘く、それでいてどこか物悲しいような香りだ。お主は江戸一番の鼻を持つと聞く。その香りの正体を突き止めてはくれまいか」

佐伯が懐から取り出したのは、小さな布片だった。現場に残されていた香りを吸わせたものだという。凜はそれを受け取るのを躊躇った。他人の強い感情が流れ込んでくるのは、いつも苦痛を伴う。

「お断りします。私は香守。事件の詮索は仕事ではありませぬ」

冷たく言い放つ凜に、佐伯は深く頭を下げた。

「頼む。このままでは、また無辜の民が疑われるやもしれん。手がかりは、この香りだけなのだ。亡骸のそばで、まるで弔うかのように漂っていた、この香りが」

弔うように。その言葉が、凜の心の壁に小さなひびを入れた。彼は覚悟を決め、布片に鼻を近づける。

ふわり、と舞い上がった香りは、彼の予想を裏切るものだった。麝香(じゃこう)の艶やかさ、伽羅(きゃら)の奥深さ、そして、露に濡れた朝顔のような、儚い甘さ。それは殺伐とした事件現場には似つかわしくない、あまりに気高く、洗練された香りだった。

そして、その香りを吸い込んだ瞬間、凜の脳裏に断片的な映像が流れ込む。揺れる燭台の炎。畳に落ちる、丸い涙の染み。そして、胸を締め付けるほどの、深い、深い悲しみ――。

同時に、奇妙な感覚が彼を襲った。この香りは、初めてではない。記憶の古びた箪笥、その奥深くにしまい忘れた何かを、不意に思い出したかのような、懐かしい胸騒ぎ。

「……分かりました。この香り、調べてみましょう」

凜は、自分が踏み入れてはならない領域に足を踏み入れたことを、まだ知らなかった。

第二章 追憶の調合

凜は仕事場の奥、無数の香料が収められた薬箪笥の前に座っていた。目の前には、佐伯から預かった布片と、香りを再現するための道具一式が並んでいる。彼は目を閉じ、意識を集中させた。鼻腔に残る微かな記憶を手繰り寄せ、香りの構成を分解していく。

(伽羅、麝香、安息香…いや、違う。もっと複雑だ。花の蜜のような甘みは、百合か? いや、もっと繊細で、夜にだけ咲く花のような…)

一つ一つの香りを確かめ、乳鉢で砕き、慎重に調合していく。それは、失われた記憶の欠片を拾い集め、繋ぎ合わせる作業に似ていた。何度も失敗を繰り返し、日が西に傾き始めた頃、ようやく凜は納得のいく香りを練り上げることに成功した。

出来上がった練香を銀葉の上で温める。立ち上る一筋の煙。それは、現場に残されていた香りと寸分違わぬものだった。凜は深く、その香りを吸い込む。

途端に、視界がぐにゃりと歪んだ。

彼は見ていた。豪奢な寝所で、冷たくなった三国屋を見下ろす、誰かの視線を。その視線に憎しみはない。ただ、果たすべきことを果たしたという、静かな諦観と、底知れぬ哀しみが満ちていた。犯人は、泣いていた。声もなく、ただ大粒の涙をこぼしていた。その頬を伝う涙は、まるで夜露のように冷たい。

凜は喘ぎながら目を開けた。全身に冷や汗が滲んでいる。犯人の感情に同調しすぎたのだ。

「……これほどの悲しみを抱いて、人を殺めることができるのか?」

翌日、凜は佐伯と共に、容疑者たちの元を訪れた。三国屋の商売敵である越後屋は、派手な丁子の香りを纏っていた。借金のあった旗本は、汗と酒の匂いをさせた。どちらも、あの気高い香りとは無縁だった。

最後に訪れたのは、三国屋の後妻、お絹の屋敷だった。年の頃は二十代半ば。愁いを帯びた瞳を持つ、儚げな美人だった。部屋には、清らかな白檀の香りが満ちている。

「主人が…あのようなことになり、今は何も考えられませぬ」

か細い声で語るお絹に、佐伯は事件現場の香りを再現した練香を差し出した。

「この香りに、見覚えはございませんか」

お絹は香りを一瞥したが、静かに首を振った。「存じませぬ」。その表情に、揺らぎは一切見られなかった。

だが、彼女が席を立った瞬間、凜は気づいた。彼女が纏う白檀の香りの奥に、ほんの僅か、本当に僅かだが、事件の香りと同じ成分が隠されているのを。それは、洗い流そうとしても消えなかった、染み付いた記憶の残り香のようだった。

しかし、それは証拠にはなり得ない。あまりに微かで、曖昧な感覚。凜の心に、言いようのない疑念が芽生え始めていた。

第三章 残香の告白

仕事場に戻った凜は、再びあの香りと向き合っていた。お絹の纏っていた微かな残り香。そして、どうしても拭えない懐かしさの正体。彼は自分の記憶の海へと、深く潜っていった。

香守の一族は、代々香りを記憶する。父の書斎の匂い、母が焚いていた落ち着いた香り、幼い頃に駆け回った庭の草いきれ。その一つ一つを辿っていくうちに、凜ははっと息を呑んだ。

(まさか……)

事件現場の香りの調合。それは、彼が幼い頃、病床の母が父のために調合していた「安らぎの香り」の処方に、驚くほど似ていたのだ。母は言っていた。「この香りは、殿の荒ぶる魂を鎮め、安らかな眠りをもたらすためのものですよ」と。

凜の脳裏に、忌まわしい記憶が蘇る。十年前、公金横領という無実の罪を着せられ、家は取り潰し。父は、家の名誉を守るために切腹した。そして、その不正の取引で利益を得て、のし上がったのが、当時父の商売相手だった三国屋ではなかったか。

点と点が、線で結ばれていく。なぜ、母と父しか知らないはずの香りが、三国屋殺しの現場に?

もはや、他人の記憶ではない。これは、自分自身の過去と向き合うための香りなのだ。

凜は、母の記憶、父の無念、失われた家の面影、そのすべてを注ぎ込み、香りを練り直した。それはもはや、再現ではない。魂の再生だった。

完成した香を、彼は震える手で焚く。そして、覚悟を決めて、深く、深く吸い込んだ。

――奔流が、彼を呑み込んだ。

それは、犯人の記憶。お絹の記憶だった。

彼女は三国屋を殺めた後、懐から古い香袋を取り出した。それは、藍色に染め抜かれた布地に、凜の家の家紋である「立ち葵」が刺繍されたもの。幼い凜が、母から貰ったものを、いつかどこかで失くしたはずの香袋だった。

お絹は、その香袋を三国屋の枕元に置き、母の記憶を頼りに調合した「安らぎの香り」を焚いた。それは、凜の父の魂を慰めるための、復讐の儀式だった。

そして、記憶はさらに遡る。凜の家が取り潰される前。屋敷の隅で、黙々と働く一人の少女がいた。名は、おみつ。ある日、庭で転んで膝をすりむいた彼女に、幼い凜が駆け寄り、自分の手ぬぐいをそっと巻いてやった。

「痛くないかい?」

その時の、凜の真っ直ぐな瞳。不器用な優しさ。

その少女こそ、苦界を生き抜き、名を変え、三国屋の後妻に収まったお絹の、かつての姿だった。彼女はずっと、凜の家の無念を晴らすことだけを胸に、生きてきたのだ。

「……そうか。君だったのか、おみつ」

凜の頬を、一筋の涙が伝った。それは、お絹が流した涙と、同じように冷たく、そして悲しい味がした。

第四章 偽りの証明

凜は、夜が明けるのも待たず、佐伯の元を訪れるべきか、深い葛藤に苛まれた。真相を明かせば、お絹は死罪を免れない。彼女は、自分のため、亡き父のために、その手を汚したのだ。だが、黙っていれば、香守としての己を裏切ることになる。香りは、常に真実を語るのだから。

夜明け前、霧が立ち込める中、凜は無意識にお絹の屋敷へと足を向けていた。彼女は、まるで訪れを予期していたかのように、縁側で静かに彼を待っていた。

「……すべて、お分かりになりましたのね」

お絹は、穏やかに微笑んだ。その顔には、罪人の影はなく、ただ長年の重荷を下ろしたような安堵が浮かんでいた。

「凜之助様。覚えてはおいででないでしょう。幼い頃、わたくしに手ぬぐいを…」

「覚えている」と、凜は遮った。「覚えているよ、おみつ」

その名で呼ばれた瞬間、お絹の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。彼女が守りたかったのは、家の名誉だけではない。あの日の、優しい少年の記憶そのものだったのかもしれない。

奉行所へ向かう凜の足取りは、鉛のように重かった。佐伯が、鋭い目で彼を待っている。

「どうだ、分かったか。香りの正体が」

凜は、懐から一つの包みを取り出した。それは、彼が夜通しかけて作り直した、偽りの香りだった。事件の香りの調合から、決定的な意味を持ついくつかの香料を抜き、別の無害な香りを加えたものだ。

「この香りは、古くから伝わる鎮魂のためのもの。おそらく犯人は、三国屋に恨みを持つ者でしょうが、その人物はとうにこの世を去っている。これは、故人を偲ぶ縁者が、弔いのために焚いたものかと。犯人には結びつきませぬ」

それは、完全な嘘だった。香守として、決して許されない「偽りの証明」。

佐伯は、じっと凜の瞳を見つめた。その揺るぎない、しかし深い悲しみを湛えた瞳の奥に、語られなかった真実を垣間見たのかもしれない。やがて彼は、ふっと息を吐き、視線を逸らした。

「……そうか。手掛かりなし、か。仕方あるまい」

事件は、迷宮入りとなった。

数日後、凜の仕事場に、差出人の名がない小包が届いた。中には、上質な白檀の香木と、一枚の紙片。そこには、ただ一言、こう書かれていた。

『どうか、安らぎの香りを』

お絹からの、最後の文だった。彼女は、どこか遠い場所へと旅立ったのだろう。

凜は、その白檀を使い、母が父のために作った、あの「安らぎの香り」を焚いた。立ち上る煙は、もう復讐の記憶を宿してはいない。母の慈愛、父の面影、そして、一人の女性の切ないまでに一途な想い。それらすべてを内包した、どこまでも深く、優しい香りが、部屋を満たしていく。

人との関わりを断ち、香りに宿る感情に苦しんできた凜は、初めて、その重い想いを受け止め、守り抜きたいと願った。彼の「香守」としての道は、この日、新たな意味を持ったのだ。

静かに揺れる香煙の向こうに、凜は幼い日の自分と、はにかんで微笑むおみつの幻を見たような気がした。

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