遺されたカケラたち

遺されたカケラたち

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第一章 万年筆の告白

父が死んだという知らせは、まるで他人事のように俺の耳を通り過ぎていった。柏木湊、二十八歳。父、柏木剛(つよし)との最後の会話は、三年前の正月に交わした「ああ」とか「そうか」という、相槌とも呼べない音の羅列だった。以来、電話の一本もかけていない。だから、母からの嗚咽混じりの電話を受けた時も、俺の心は凪いだ湖面のように静まり返っていた。涙は一滴も流れなかった。

通夜と葬儀が機械的に終わり、埃っぽい実家に戻った俺は、母に促されるまま父の書斎の整理を始めた。そこは、俺にとって鬼門のような場所だった。幼い頃、ここでどれだけ父に叱責されたことか。インクと古い紙の匂いが、忘れかけていた息苦しい記憶を呼び覚ます。父は無口で、厳格な家具職人だった。その背中はいつも、俺に対して拒絶の壁のようにそびえ立っていた。

「湊、少し休んだら?」

心配そうに母が顔を覗かせるが、俺は曖昧に首を振った。感傷に浸る資格など、俺にはない。早くこの家から、父の呪縛から解放されたかった。

本棚に並んだ専門書を段ボールに詰めていく。その無味乾燥な作業の途中、ふと、机の上に置かれた一本の万年筆が目に入った。黒檀の軸に、鈍い銀色のペン先。父がいつも胸ポケットに挿していたものだ。なぜだろう、吸い寄せられるように、俺はその万年筆に手を伸ばしていた。

指先が冷たい軸に触れた、その瞬間。

世界がぐにゃりと歪んだ。

視界が真っ白に染まり、インクの匂いが奔流のように鼻腔を突き抜ける。知らないはずの光景が、脳内に直接映写された。それは、ランプの灯りが揺れる、今よりも少し若い父の姿だった。彼は目の前のノートを睨みつけ、手にした万年筆を握りしめている。その指先が、微かに震えていた。

『――湊(みなと)。海のように、広い心を持つ男になれ』

声ではない。思考の奔流だ。父の、熱く、切実な願いが、万年筆を媒体にして俺の魂に直接流れ込んでくる。彼はノートに、いくつもの名前の候補を書き連ねていた。「大地」「健」「昇」。そして、何度も、何度も、「湊」という文字を練習するように綴っていた。その一文字一文字に込められた、これから生まれてくる息子への途方もない期待と愛情。それは、俺が知っている父の姿とは、あまりにもかけ離れていた。

俺は思わず万年筆を取り落とした。カラン、と乾いた音が床に響く。ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、自分の手のひらを見つめた。幼い頃から、俺にはこの奇妙な力があった。物に触れると、そこに込められた持ち主の強い感情や記憶の断片を追体験してしまうのだ。他人の感情の渦に飲み込まれるのが怖くて、いつしか俺は、何事にも深く触れないよう、心を閉ざして生きてきた。この力は呪いだと思っていた。だが、今、この呪いが初めて、俺の知らない真実の欠片を突きつけてきたのだ。

俺が知る父は、冷たく、厳格なだけの男ではなかったのかもしれない。その可能性が、俺の心の湖面に、小さな波紋を広げていた。

第二章 記憶の蒐集

あの日以来、俺はまるで憑かれたように父の遺品に触れ続けた。それは、父という巨大な謎を解き明かしたいという渇望であり、失われた時間を取り戻そうとする、虚しい贖罪の行為でもあった。俺は、記憶の蒐集家になったのだ。

工房の隅に置かれた、使い古された工具箱。錆びついた留め金を外し、鑿(のみ)の柄にそっと触れる。途端に、硬い木を削るリズミカルな音と、立ち上る木の香りが五感を支配した。額に汗を浮かべ、黙々と木材に向かう父の背中が見える。その背中から伝わってくるのは、仕事への揺るぎない誇りと、家族を一人で支えるという、鋼のような責任感だった。だが、その鋼の内側には、疲労と孤独が澱のように溜まっていた。

書斎の棚にあった色褪せたアルバム。ページをめくり、七五三の記念写真に指を滑らせる。紋付袴を着て、緊張で顔を引きつらせる五歳の俺。その隣で、相変わらず無表情にカメラを見つめる父。しかし、写真に触れた瞬間、俺の耳にはファインダーの向こうで笑う母の声と、父の胸の、早鐘のような鼓動が響いてきた。

『剛さん、もっと笑って!』

『……これでいい』

言葉はぶっきらぼうだが、彼の視線はレンズではなく、隣に立つ小さな俺に、ほんの一瞬だけ注がれていた。その眼差しは、驚くほど優しく、慈愛に満ちていた。それは、まるで壊れ物に触れるかのような、臆病な愛情だった。

「お母さん、親父ってさ、俺のこと、どう思ってたのかな」

夕食の席で、俺はぽつりと尋ねた。母は味噌汁の椀を持つ手を止め、遠い目をする。

「さあ……。あの人は、本当に不器用な人だったから。愛情表現なんて、できる人じゃなかったのよ。でもね、湊が生まれた日は、あんなに嬉しそうな顔、後にも先にも見たことがなかったわ」

母の言葉は、俺が集めた記憶のカケラと符合する。だが、それだけでは足りなかった。なぜ父は、その愛情を俺に示してくれなかったのか。なぜ、俺をただ厳しく叱り、突き放すことしかできなかったのか。カケラの数が増えるほど、父という人物像の輪郭は濃くなるのに、その核心にある最も知りたい部分だけが、深い霧に包まれたままだった。

俺は、家族でありながら、父の心のたった一欠片さえも、本当の意味では知らなかったのだ。その事実が、鉛のように重く俺の胸にのしかかった。

第三章 木彫りの船

父の書斎の整理も、終わりに近づいていた。重厚な机の、一番下の引き出しだけが、どうしても開かなかった。鍵がかかっているのだ。母も鍵の在処は知らないという。半ば諦めかけた時、机の裏側にテープで無造作に貼り付けられた、小さな鍵を見つけた。

錆びた鍵が、軋むような音を立てて回る。ゆっくりと引き出しを開けると、そこには桐の箱が一つ、静かに鎮座していた。年代物なのだろう、表面は滑らかに摩耗している。蓋を開けると、ふわりと樟脳の匂いがした。中に入っていたのは、一体の木彫りの人形――ではなく、掌に乗るほどの、小さな船だった。

それは、お世辞にも上手いとは言えない、歪な形をしていた。まるで子供が作ったような、不格好な船。俺には全く見覚えがなかった。こんなものが、なぜ父の机の奥深くに、鍵をかけてまで仕舞われていたのだろう。

俺はゴクリと唾を飲み込み、震える指先で、その木彫りの船に触れた。

瞬間、これまで経験したことのないほどの、激しい記憶の奔流が俺を襲った。それは嵐だった。視界は白と黒の火花を散らし、耳の奥で赤ん坊の泣き声と、心電図の無機質な電子音が鳴り響く。

――これは、俺の記憶じゃない。俺が生まれる前の、記憶だ。

光景が像を結ぶ。病院の、白い廊下。そこに、今よりもずっと若い父が、茫然と立ち尽くしている。彼の腕には、小さな、小さな木彫りの船が握られていた。医者の、感情のこもらない声が響く。

「残念ですが……奥様は助かりましたが、お子さんは……」

父の全身から、色が抜け落ちていくのが分かった。世界から音が消え、ただ絶望だけが満ちていく。父には、息子がいたのだ。俺が生まれる一年前に、死産で失った、最初の息子が。

『――海(かい)』

父の唇が、声にならずに動く。それが、生まれてくるはずだった息子の名前。父は、海と名付けるはずだった子に、広い海を旅してほしくて、拙い手つきでこの木彫りの船を彫っていたのだ。しかし、その船が旅立つことは、永遠になかった。

次の瞬間、場面は一年後に飛ぶ。同じ病院。今度は、元気な産声が響き渡っている。俺が生まれた日だ。ガラス越しに、保育器の中で眠る俺を見つめる父の姿。その表情は、母が言っていたような喜びだけではなかった。そこにあったのは、歓喜と、そしてあまりにも深い、喪失への恐怖だった。

彼は、腕の中の木彫りの船と、保育器の中の俺を、何度も何度も見比べている。

『今度こそ、失うわけにはいかない』

その祈りにも似た決意が、痛いほど伝わってくる。

『強く、育てなければ。どんな荒波にも負けないように。俺のように、弱くては駄目だ』

――ああ、そうか。

俺はようやく、全てを理解した。

父は、俺の中に、亡くした息子「海」の幻影を見ていたのだ。そして、二度と失うまいとするあまり、愛し方が分からなくなってしまったのだ。彼の厳しさは、愛情の欠如ではなかった。それは、喪失の恐怖から生まれた、あまりにも不器用で、歪で、そして悲しいほどの愛情の形だったのだ。

俺は、その場に崩れ落ちた。木彫りの船を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。父がたった一人で抱え込み、誰にも語ることのなかった秘密。その重さと痛みが、三十年近い時を超えて、俺の心を激しく揺さぶっていた。

第四章 届かない手紙

俺はもう、自分の持つ力を呪いだとは思わなかった。この力があったからこそ、言葉では決して伝えられることのなかった、父の魂の叫びに触れることができたのだ。父への長年のわだかまりは、春の雪のように静かに溶け、その下からは、温かい感謝と、どうしようもないほどの愛しさが顔を覗かせていた。

その夜、俺は母に全てを話した。父が一人で抱えていた秘密、俺の知らなかった兄「海」のこと、そして木彫りの船に込められた想いを。母は驚き、静かに涙を流した。そして、初めて、俺たちは本当の意味で「家族」として、父の死に向き合うことができた気がした。

実家での整理を終え、俺は自分のアパートに戻った。持ち帰った荷物は少ない。父の万年筆と、あの木彫りの船だけだ。船は、本棚の一番よく見える場所に飾った。それは、父と、会うことのなかった兄と、そして俺自身を繋ぐ、小さくて、しかし何よりも確かな錨だった。

数日後、静かな夜だった。俺は机に向かい、父の万年筆を手に取った。滑らかな黒檀の軸が、しっくりと手に馴染む。新しいノートを開き、ペン先にインクを浸す。そして、最初のページに、ゆっくりと文字を綴り始めた。

『父さんへ』

それは、決して届くことのない手紙。返事の来るはずもない、一方的な対話。

それでも、俺は書き続けた。伝えられなかった感謝を。理解できなかったことを詫びる言葉を。そして、これからの自分のことを。

サラサラとペン先が紙を滑る感触が、心地よかった。万年筆を通じて、父の温もりが指先に伝わってくるような気がした。もう、父の記憶が流れ込んでくることはない。けれど、確かに感じられるのだ。父が、すぐそばで見守ってくれているような、穏やかで、温かい感覚が。

物に宿る記憶は、時に人を縛る呪いとなる。だが、それは同時に、言葉を失った人々の想いを未来へ繋ぐ、奇跡の架け橋にもなるのだ。

俺は、父が遺してくれたカケラたちを集め、一つの物語を紡ぎ終えた。そして今、自分の足で、新しい物語を紡ぎ始める。父が「湊」という名に込めてくれた願いのように、広く、深く、そして優しい海へと漕ぎ出すために。

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