第一章 祖母の遺品、未完の手紙
漆黒の夜の帳が降りる頃、小さなアパートの一室で、綾野はぼんやりと過去の残骸と向き合っていた。九十を過ぎて大往生を遂げた祖母が遺した、膨大なガラクタと呼ぶにはあまりにも愛おしい品々。その中に、ひときわ異彩を放つ一箱があった。使い古された桐の箱で、埃を被り、表面には判読不能な文字が薄く墨で書かれている。触れると指先に古い木材のざらつきが伝わり、仄かに古書の匂いが漂った。
綾野は歴史学者として、特に幕末期の資料研究を生業としている。彼女の専門は、新選組の中でも異端とされる、謎多き隊士「篠塚誠」についてだった。公式記録には「慶応三年、病死」と記されているが、その死に至る経緯や最期に関する記述は驚くほど少なく、まるで歴史の巨大な流れにぽっかりと空いた空白のようだった。綾野はその空白に魅せられ、生涯をかけて埋めようと努めていた。
桐の箱を開けると、まず目に飛び込んできたのは、黄色く変色した一枚の紙だった。それは手紙であり、達筆な崩し字で書かれている。震える指先で広げると、墨の匂いと、古い紙特有の酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。冒頭の一文を読み、綾野は息を呑んだ。
「拝啓、未来を生きる者へ。我、生きて、この世の理を書き換える。」
日付は「明治五年」。慶応三年、病死したはずの篠塚誠が、その数年後に書いたとしか思えない内容。しかも、手紙の隅には、篠塚誠が隊士時代に愛用していたとされる、あの特徴的な家紋――波に三つ葉の紋――が描かれていた。綾野の心臓が不規則なリズムを刻む。まるで、これまで自分が信じてきた歴史の常識が、脆くも崩れ去る音を聞いたかのようだった。
手紙の下には、掌にすっぽりと収まる小さな木片が収まっていた。黒檀だろうか、硬質な木肌には、波紋のような、それでいて古代文字のような複雑な文様が彫り込まれている。それは、どこかで見たことがあるような、しかし決定的に思い出せないデジャヴュを綾野に感じさせた。祖母は生前、歴史の話をほとんどしなかった。だが時折、夕焼け空を見つめながら「歴史は、語られぬ声の集合体。真実は、いつもその余白に潜むものだ」と呟くことがあった。その言葉が、今、不意に綾野の頭の中で響き渡った。この手紙と木片が、祖母の過去と、そして綾野の研究対象である篠塚誠と、一体どのように繋がっているというのだろうか。綾野は、これまで抱いてきた歴史に対する確固たる信念が、根底から揺らぐのを感じた。
第二章 疑惑の残響、京都への旅路
手紙と木片は、綾野の日常を一変させた。夜が明けても、彼女の頭の中は篠塚誠と祖母の謎で満たされていた。手紙の筆跡鑑定を依頼すると、専門家は「幕末から明治初期にかけての書体としては自然だが、紙の経年劣化が不自然に思える点もある。贋作の可能性も排除できない」と曖昧な見解を示す。しかし、綾野の直感は叫んでいた。これは本物だ、と。これまで膨大な資料を読み解き、死者の息吹を感じ取ってきた彼女の第六感が、そう告げていた。
木片の文様についても、古文書研究の友人に協力を求めたが、特定の家紋や宗教的シンボルに該当するものは見つからなかった。ただ、「これは、何かを『封印』あるいは『継承』する意図を持って作られた可能性が高い」という意見が、綾野の胸に深く刺さった。封印? 継承? 一体何を?
綾野は祖母の生前の言動を必死で思い返した。祖母はよく、何もない空間をじっと見つめ、「あの時代は、本当に、多くのものが失われたねぇ」と寂しげに呟くことがあった。その度に綾野は、ありきたりな歴史への感傷だと片付けていたが、今となっては、それが深い意味を持つ言葉のように感じられた。
行き詰まりを感じた綾野は、祖母の実家があった京都の山奥にある廃屋を訪れることを決意した。祖母が幼い頃に住んでいたというその家は、数十年前に無人となり、荒れるに任されていたという。もしかしたら、そこにこそ、この謎を解く鍵が隠されているのかもしれない。
新幹線に乗り込み、窓外を流れる景色を眺めながら、綾野は自分の研究に対する情熱が、単なる学術的な探求だけでなく、もっと個人的で、血の繋がりに根差したものである可能性に震えていた。もし、篠塚誠が本当に生きていたとしたら? そして、その事実が祖母の秘密と繋がっていたとしたら? 歴史学者として、その真実を世に問うべきか、それとも、祖母が守り続けたように、自分もまた秘密を守り続けるべきか。葛藤が綾野の心を蝕んだ。しかし、彼女の探究心は、その葛藤をも乗り越えるほどに強く燃え上がっていた。荒れ果てた山道を進むにつれて、綾野の胸の奥底で、何かが目覚めるような感覚が芽生え始めていた。
第三章 地下の書庫、偽りの死の告白
京都の山奥に分け入り、鬱蒼とした木々の合間から姿を現したのは、まるで時代に取り残されたかのような、寂れた古民家だった。朽ちかけた木戸を押し開けると、畳の上には枯葉と埃が積もり、冷たい空気が綾野を包み込んだ。祖母が幼い頃を過ごした家。その事実が、この荒廃した空間に温かい命の息吹を与えているように感じられた。
手掛かりを求めて家中を隈なく探したが、めぼしいものは見つからない。諦めかけたその時、囲炉裏の傍に転がっていた煤けた木材が、わずかにずれていることに気が付いた。違和感を感じ、力を込めて持ち上げてみると、その下には隠し扉が姿を現した。震える手で扉を開けると、そこには暗闇へと続く、急な石段が伸びていた。
一段ずつ、慎重に石段を下りていくと、カビと墨の混じった独特の匂いが濃くなった。そこにあったのは、地下にひっそりと隠された書庫だった。土壁に囲まれた空間には、几帳面に整理された棚に、夥しい数の書物や巻物が並んでいた。そのどれもが、幕末から明治にかけての時代のもの。そして、その中心には、綾野が手紙で見た波に三つ葉の家紋が刻まれた大きな木箱が置かれていた。
木箱を開けると、そこには祖母が幼少期から書き綴っていたのであろう日記帳と、そして紛れもない篠塚誠の手記がぎっしりと収められていた。手記の冒頭には、綾野が受け取った手紙と同じ筆跡で、衝撃的な言葉が記されていた。「我、慶応三年、死を偽装す。新選組篠塚誠、未来に真実を託すため、表舞台より姿を消せり。」
綾野は膝から崩れ落ちた。長年研究してきた篠塚誠は、病死などしていなかった。彼は自らの死を偽装し、歴史の表舞台から姿を消していたのだ。手記には、彼がなぜ死を偽装したのか、その壮大な理由が綴られていた。彼は、幕末という激動の時代において、特定の勢力が歴史を自らに都合の良いように編纂し、多くの真実が闇に葬られることを憂慮していた。そして、その歴史の歪みが、未来に繰り返される過ちを生むことを危惧していたのだ。
篠塚誠は、自らの影響力を行使して歴史を修正するのではなく、あえて影に徹し、歴史の「裏側」から真実の記録を編纂することを選んだ。彼の目的は、特定の主義主張を広めることではなく、後世の人間が、多様な視点から歴史を読み解き、普遍的な教訓を見出すための「もう一つの史料」を残すことにあった。
さらに衝撃的だったのは、日記帳の最後の一ページ。そこには、綾野の祖母が、篠塚誠が残した「真の記録」を、代々受け継ぐ使命を背負っていたこと、そして、その使命が綾野自身へと繋がっていることが示唆されていた。木片の文様は、古代の言葉で「継承の証」を意味すると書かれていた。綾野の全身に、戦慄にも似た感情が走った。自分は、歴史の空白を埋める研究者であると同時に、その空白を作り、そして未来へと繋ぐ者の末裔だったのだ。自身の存在そのものが、歴史の大きなうねりの中に組み込まれていた事実に、綾野の価値観は根底から揺さぶられた。
第四章 歴史の編纂者、隠された意図
地下書庫で夜を明かし、綾野は篠塚誠の手記と祖母の日記を貪るように読み進めた。篠塚誠は、明治維新後の混乱期も生き延び、各地を転々としながら、歴史の陰で真実を記録し続けていた。彼は、ある事件の真相を、公式記録とは全く異なる形で書き記していた。それは、綾野が長年、新選組研究の中で最も謎めいていると感じていた、特定の隊士の処遇に関する事件だった。公式には「粛清」とされているその事件の裏には、仲間を救うための自己犠牲と、やむを得ない選択が隠されていたことが、彼の筆致から痛いほど伝わってきた。
篠塚誠は、歴史を「単なる事実の羅列」としてではなく、「未来に活かすべき物語」として捉えていた。彼は、人々が特定の英雄や悪役に単純化しがちな歴史の潮流に対し、個々の人間の複雑な感情や行動原理、そして時代の制約を深く理解させることを意図していた。そのため、彼の記述は時に曖昧であり、読者に解釈の余地を残すよう綿密に計算されていた。それは、真実をただ暴き出すことではなく、未来を生きる人々が、自らの手で真実に辿り着くための道標だった。
綾野は、祖母がなぜこの秘密を守り続けたのかを痛感した。それは、真実を暴くことが、必ずしも正義ではないと知っていたからだ。歴史の真実には、時に、受け止める側の準備が必要となる。祖母は、篠塚誠の遺志を継ぎ、その「真の記録」が最も必要とされる時代、最も理解できる者に継承されることを待っていたのだ。そして今、その時が来たことを、綾野は確信した。
綾野は、篠塚誠の手記から、新選組のもう一つの顔を見た。それは、決して理想化されたものではなく、人間的弱さや葛藤を抱えながらも、それぞれの信念に従って生きた人々の姿だった。彼らの行動の裏には、現代の常識では測り知れない、当時の社会背景や個人の倫理観が深く関わっていた。綾野は、これまで自身の研究において、客観性という名のフィルターを通してしか歴史を見ていなかったことに気づかされた。しかし、篠塚誠の残した記録は、そのフィルターを剥がし、生身の人間として彼らの声を聞くことを綾野に求めていた。
夜明けが近づく頃、地下書庫のわずかな窓から差し込む光が、埃の舞う空間を照らし出した。その光の中で、綾野は自身の使命を悟った。歴史学者として、この「編纂された真実」をどのように世に問うべきか。それは、ただ事実を公表すること以上の、重い意味を持つ行為だった。
第五章 繋がれる未来、真実の響き
綾野は、地下書庫で見つけた資料を携えて、東京に戻った。彼女の頭の中には、篠塚誠が意図的に編纂した歴史と、彼が残した真の記録が、複雑に絡み合っていた。数ヶ月後、歴史学会の定例発表会で、綾野は壇上に立っていた。彼女が発表するテーマは、自身の研究分野である「篠塚誠の謎」についてだった。
聴衆は皆、綾野がこれまで公にしていた篠塚誠に関する研究内容を想像していたことだろう。しかし、綾野の口から語られたのは、誰も予想しなかった「編纂された真実」だった。彼女は、篠塚誠の「死の偽装」と、彼が残した「もう一つの記録」の存在を、慎重かつ説得力のある言葉で語り始めた。
「歴史は、語り部によって、その姿を変えます。それは、意図的な改ざんだけでなく、語り部の信念、そして時代の要請によっても、その輪郭は揺らぎます。篠塚誠は、その『揺らぎ』の中に、未来への教訓を見出そうとしたのではないでしょうか。」
綾野は、篠塚誠が残した手記の中から、新選組のある事件の真実を引用し、それが公式記録といかに異なるかを鮮やかに提示した。彼の記述は、特定の個人を貶めるものではなく、むしろ、当時の人々が置かれていた状況の複雑さ、そして、いかなる選択もまた、避けがたい悲劇を生む可能性を秘めていることを浮き彫りにした。彼の意図は、過去の過ちを裁くことではなく、未来の世代が同様の過ちを繰り返さないよう、深く考えるための素材を提供することだったのだ。
発表会場は、静寂に包まれた後、ざわめきに満たされた。疑念の声も上がったが、綾野は毅然として応じた。彼女は、篠塚誠が遺した木片を手に取り、「これは、単なる『証拠』ではありません。これは、歴史の真実が、世代を超えて『継承』されてきた証なのです」と述べた。
発表は学会に大きな衝撃を与えた。歴史の「空白」に新たな光が当てられ、それまで定説とされてきた事柄に対し、再考を促す大きな問いかけとなった。綾野自身もまた、この経験を通じて大きく成長した。彼女はもはや、客観的な事実のみを追求する歴史学者ではなかった。過去の出来事を、生きた人々の感情や意図と結びつけ、未来へと繋ぐ「語り部」としての意識が芽生えたのだ。
発表後、綾野は地下書庫で祖母が残した日記を読み直した。祖母は、綾野がその真実に辿り着くことを予見していたかのように、「真実は、時に深く埋もれ、熟成を待つもの。汝、その時が来たら、恐れず未来へ語り継げ」と記していた。綾野は、祖母の想いと、篠塚誠の壮大な計画が、自らの手によって繋がったことに、深い感動を覚えた。
彼女は、木片をそっと握りしめた。その硬質な感触は、重くも温かい、歴史のバトンを握っていることを綾野に教えてくれた。歴史は決して、過ぎ去った過去の出来事ではない。それは、常に今を生きる私たちに語りかけ、未来を形作るための物語なのだ。綾野は、新たな研究テーマを見据えていた。それは、篠塚誠が残した「編纂された真実」を、さらに深く読み解き、現代社会が抱える問題に光を当てること。彼女は、歴史の空白を埋めるだけでなく、その空白から未来へと続く道筋を描き出す、新しい歴史の語り部として歩み始めたのだった。