香読の武士(かよみのぶし)

香読の武士(かよみのぶし)

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第一章 雨上がりの偽香

城下の土塀に、夕闇が墨を垂らしたように滲み始めていた。斎藤勘助は、持ち場である西の櫓門(やぐらもん)の上から、家路を急ぐ人々の流れを無感動に眺めていた。彼にとって、この世は様々な「香り」で満ちていた。それは鼻で嗅ぐ匂いとは違う。人の感情が、勘助の内で具体的な香りとして立ち上るのだ。怒りは鉄錆の臭い、喜びは蜜柑の甘酸っぱい香り、そして嘘や偽りは、淀んだ水溜まりのような腐臭として感じられた。

この特異な才のせいで、勘助は二十五にして友もなく、女も知らなかった。世辞や追従が渦巻く武家社会は、彼にとって耐え難い悪臭の源でしかなかった。剣の腕はそこそこに立つが、出世への野心も持てず、ただ息を潜めるように日々を送っていた。

そんな勘助の日常に、予期せぬ変化が訪れたのは半月前のことだ。藩主・松平忠親(まつだいらただちか)の最も寵愛する側室、お琴の方の警護役を命じられたのだ。藩の重役たちから漂う嫉妬と猜疑の入り混じった悪臭に辟易しながらも、勘助はその任を引き受けた。

初めてお琴の方に拝謁した時、勘助は息を呑んだ。鈴の音のように可憐な女だった。だが、彼を驚かせたのはその容姿ではない。彼女から漂ってくる香りだった。それは、まるで激しい夕立の後に立ち上る、濡れた土と若草が混じり合ったような、どこまでも清らかで静謐な香りだった。喜びも、悲しみも、怒りもない。ただ、無垢な静けさだけがそこにあった。このような感情の香りは、勘助がこれまで嗅いだことのないものだった。

以来、勘助はお琴の方の住まう奥御殿の庭先で、昼夜を問わず警護にあたった。障子の向こうから漂う「雨上がりの土の香り」は、勘助にとって唯一の安らぎだった。この香りだけが、彼の鼻を、心を苛む世の悪臭から守ってくれる聖域のように思えた。

その夜も、勘助は庭の松の木に背を預け、静寂に耳を澄ませていた。虫の音が涼やかに響き、風が篠竹を揺らす。いつもと変わらぬ、穏やかな夜。そう思った矢先だった。

ふ、と。

障子の向こうから、これまでとは全く異なる香りが、糸を引くように微かに漂ってきたのだ。それは、焦げ付いた砂糖のような、噎せ返るほどに甘く、それでいて胸が張り裂けそうなほどに悲しい香りだった。喜びと絶望が、炎の上で溶け合い、ねじくれて固まったような、矛盾した香り。

「……何だ、今の香りは」

勘助が思わず身じろぎした、その瞬間。香りはぷつりと途絶え、再びいつもの「雨上がりの土の香り」に戻った。しかし、勘助の胸は激しく波打っていた。あれは、お琴の方の香りだ。間違いなく。あの静謐な仮面の下に、あれほどの激情が隠されていたというのか。

胸騒ぎを覚え、勘助はそっと障子に近づいた。中の気配を探る。静かすぎる。いつもなら聞こえるはずの、侍女たちの衣擦れの音さえしない。嫌な予感が背筋を駆け上った。

「お琴様! ご無事でおられますか!」

声を張り上げ、返事を待った。だが、答えはない。意を決して障子を乱暴に開け放つ。中はもぬけの殻だった。灯された燭台の火が虚しく揺らめき、整えられた寝具の上には、誰の姿もなかった。

お琴の方が、煙のように消えていた。そして、部屋に残されていたのは、あの焦げ付いた砂糖のような甘く悲しい香りの、微かな残滓だけだった。

第二章 錆びた鉄の追跡

お琴の方の失踪は、城内に大きな波紋を広げた。翌朝には、藩の家老である黒田監物が直々に勘助を呼び出し、厳しい詰問が始まった。書院に充満する、黒田から発せられる野心と欺瞞の香り――錆びた鉄のような冷たい悪臭に、勘助は眩暈を覚えた。

「斎藤勘助。貴様、警護の任にありながら、お琴様の失踪に気づかぬとは何事か。さては、手引きをしたのではあるまいな」

黒田の言葉には、棘があった。藩の上層部は早々に結論を出していた。お琴の方は、隣国の間者と密通し、藩の機密を持って逃亡したのだ、と。警護役であった勘助は、その第一容疑者として疑いの目を向けられていた。

「滅相もございません。某、持ち場を離れてはおりませぬ」

「では、なぜ気づかなんだ! 貴様の怠慢が、我が藩を危機に陥れたのだぞ!」

黒田の怒声と共に、錆びた鉄の香りが一層濃くなる。だが、勘助には分かっていた。この男の怒りは、藩を憂う怒りではない。己の計画が狂ったことへの苛立ちと、この機に乗じて何かを成さんとする狡猾な思惑の香りだ。そして何より、勘助は信じられなかった。あのお琴の方が、間者などであるはずがない。あの「雨上がりの土の香り」が、嘘であるはずがないのだ。

勘助は自らの潔白を証明するため、そしてお琴の方の真実を突き止めるため、独断で調査を始めた。謹慎を言い渡された身ではあったが、夜陰に紛れて城を抜け出し、彼女の足跡を追った。

唯一の手がかりは、あの夜に感じた「焦げ付いた砂糖の香り」だった。勘助は、自らの特異な鼻を頼りに、城下に残る微かな香りの痕跡を辿った。それは、常人には決して感知できない、感情の残滓だった。

香りは、城下のはずれにある薬師堂で一度強く香り、そして北の山道へと続いていた。追跡の途中、勘助は幾度となく黒田が差し向けたであろう追っ手に襲われた。彼らからは、ただ命令に従うだけの、思考のない鉛のような鈍い香りがした。勘助は剣を振るい、彼らを退けながら、必死で香りを追った。

なぜ、お琴の方は逃げねばならなかったのか。あの香りは、何を意味するのか。勘助の脳裏には、彼女の静謐な佇まいと、あの激情の香りが交互に浮かび上がった。自分の信じていた「雨上がりの土の香り」は、偽りだったのだろうか。だとしたら、自分のこの能力は、一体何を見ているというのだろう。疑念が心を蝕み始めた。

山道は険しくなり、獣道へと変わっていった。香りは、藩の禁足地とされている『忘れられた谷』へと向かっていた。そこは、かつて流行病で多くの民が死に、瘴気が立ち込めていると噂される場所だった。

勘助は躊躇わなかった。谷の入り口に立つと、これまでよりも強く、あの甘く悲しい香りが風に乗って運ばれてくるのを感じた。覚悟を決め、鬱蒼とした木々の闇へと足を踏み入れた。

第三章 焦げ付いた砂糖の真実

谷の奥深く、朽ちかけた古い寺が闇の中に浮かび上がっていた。月明かりが、崩れた屋根や苔むした石段を青白く照らし出している。勘助が探し求めていた香りは、間違いなくこの寺の本堂から漂ってきていた。

息を殺し、そっと本堂に近づく。障子の隙間から漏れる灯りを頼りに中を覗き込み、勘助は我が目を疑った。そこにいたのは、探し求めていたお琴の方だった。そして、その隣には、病で城の奥深くに隠居しているはずの、先代藩主の弟君・松平宗継(まつだいらむねつぐ)の姿があった。

宗継は、穏やかな笑みをお琴の方に向けていた。そして彼から、あの「焦げ付いた砂糖のような、甘くも悲しい香り」が、強く、はっきりと立ち上っていたのだ。いや、違う。香りの源は、宗継だけではなかった。寄り添うお琴の方からも、同じ香りが発せられ、二人の間で共鳴し合うように混じり合っていた。

勘助が呆然としていると、背後から静かな声がした。

「そこまでだ、武士」

振り返ると、老いた僧が立っていた。勘助は刀に手をかけたが、僧から漂うのは、澄み切った冬の空気のような、敵意のない香りだけだった。

勘助は本堂に招き入れられた。宗継は、驚くほど落ち着いた様子で全てを語り始めた。

お琴の方と宗継は、幼い頃に将来を誓い合った仲だった。しかし、藩の実権を狙う黒田監物が、現藩主を傀儡とするために、お琴の方を無理やり側室として召し上げたのだ。宗継は黒田の暴政を止めようとしたが、逆に病を理由に城の奥に幽閉されてしまった。

「お琴の失踪は、我らが仕組んだものだ」と宗継は言った。「黒田の目を欺き、再会するための唯一の策だった」

お琴の方は、静かに頷いた。彼女から漂う香りは、もはや「雨上がりの土」ではなかった。

「私が城で発していた香りは、心を無にすることで作り出した、偽りの香りでした。感情を殺し、ただの器であろうと努めていたのです。そうでなければ、あの場所では生きていけませんでした」

勘助は衝撃を受けた。あの清らかな香りが、偽りだったというのか。では、あの失踪の夜に感じた「焦げ付いた砂糖の香り」こそが、彼女の真実の感情だったのだ。宗継と再会できるという焦がれるほどの喜びと、藩の未来を憂い、多くの者を欺かねばならないという深い悲しみ。二つの相反する激情が混じり合った、真実の香り。

「そなたの不思議な力については、お琴から聞いておる」宗継は勘助の目を見て言った。「そなたが感じた香りは、お琴の心の叫びだったのだ」

勘助は、自分の浅はかさを恥じた。彼はただ、香りを嗅ぎ分け、人を単純に分類していたに過ぎなかった。善と悪、真実と嘘。だが、人の心はそんなに単純なものではない。清らかな静寂の仮面の下には激情が渦巻き、甘い喜びの中には深い悲しみが溶け込んでいる。自分の能力は、人の心の表面を撫でていただけなのだ。

この瞬間、勘助の世界は根底から覆った。彼は初めて、人の心の複雑さと、その奥深さに触れた気がした。

第四章 春の若葉の旅立ち

勘助は、宗継とお琴の方に協力することを誓った。彼の能力は、もはや単なる嘘発見器ではなかった。敵の中から、密かに宗継に心を寄せる者たちを見つけ出すために使われた。彼らからは、恐怖に隠された「焚き火の灰のような、燻る忠誠の香り」がした。勘助は、その微かな香りを嗅ぎ分け、一人、また一人と味方を増やしていった。

宗継の決起は、迅速かつ鮮やかだった。勘助が見つけ出した仲間たちと共に、黒田監物の悪事を暴き、その一派を捕らえた。現藩主は自らの過ちを認め、宗継に藩政を委ねた。血を流すことなく、藩は新たな夜明けを迎えたのだ。

全てが終わり、穏やかな春の日差しが城の庭を照らしていた。勘助は、藩を去る決意を固めていた。新たな藩主となった宗継と、その傍らに寄り添うお琴の方に最後の挨拶をする。

「斎藤殿、そなたがいなければ、この日はなかった。心から感謝する」

宗継から漂うのは、大地にしっかりと根を張る大樹のような、力強く穏やかな香りだった。

勘助は、お琴の方に視線を移した。彼女は、幸せそうに微笑んでいた。そして、彼女から漂ってきたのは、これまで嗅いだことのない香りだった。それは、芽吹いたばかりの春の若葉のような、瑞々しく、希望に満ちた、どこまでも優しい香りだった。

「お達者で」

お琴の方の言葉と共に、その香りがふわりと勘助の心を包んだ。

もう、勘助は香りに惑わされるだけの男ではなかった。人の心には、幾重もの層があり、その時々で様々な香りを放つことを知った。そして、その香りの奥にある真実の心を見つめることの尊さを学んだのだ。

勘助は城門をくぐり、旅に出た。彼の内面的な成長は、剣の腕を上げることでも、出世することでもなかった。人の心の複雑さを受け入れ、その上でなお、人を信じようとすること。それこそが、彼の得た最大の宝だった。

風が吹き、街道沿いの町々から、無数の人々の感情の香りが運ばれてくる。喜び、悲しみ、怒り、そして愛。それらはもはや、勘助を苛む悪臭ではなかった。一つ一つが、誰かの人生の物語を紡ぐ、愛おしい香りに感じられた。

この力で、自分に何ができるのか。まだ答えは見つからない。だが、勘助の胸には、お琴の方からもらった春の若葉の香りが、確かな希望として息づいていた。彼は空を見上げ、遥かなる道の先を見つめると、静かに微笑みながら、新たな一歩を踏み出した。

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