墨染の慈悲
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墨染の慈悲

第一章 狐憑きと桜の幻

槐(えんじゅ)の右手が、老中の一人の袖に触れた。刹那、どろりとした煤色の影が立ち上るのが見えた。それは粘つく沼のような色合いで、私欲と恐怖が混じり合った、見慣れた裏切りの色だった。槐は無感動に目を伏せ、一礼するとその場を辞した。

「人心を覗く狐憑きめ」

背後で囁かれた言葉は、肌を刺す冬の風のように、もはや彼の心を揺さぶることはない。槐には、生まれつき人の「忠義」が色として視える。真の忠義は夜明けの空のような清らかな光を放ち、偽りは濁った影となる。この江戸城で彼が目にするのは、大抵が後者だった。あまりに多くの濁りを見過ぎたせいか、近頃、彼の心そのものが鈍色の霧に覆われ、かつて憧れた清冽な光の色を思い出せなくなりつつあった。

その日、江戸の町は異変に包まれていた。季節外れの桜吹雪が、乾いた土埃の舞う通りを白く染め上げたのだ。人々は天変地異かと空を仰いだが、花びらは実体を持たず、手を伸ばせば陽炎のように消える。幻だった。だが、その幻は次第に輪郭を帯び、鬨(とき)の声や刃鳴りの音を伴い始めた。歴史の記録にない「桜吹雪の乱」と名付けられた幻の反乱が、町を脅かし始めたのだ。

これは「嘘」の具現化だ。この世界では、人のつく嘘が力を持つ。小さな嘘は取るに足らない幻影だが、国を揺るがすほどの巨大な嘘は、現実を歪め、歴史さえも喰らい尽くす「穢れ」となる。

幕府の中枢は混乱していた。誰が、これほどの嘘を? 槐は、城内の人間すべての忠義の色を洗うよう命じられた。誰もが口を噤み、互いを疑う。槐が彼らの肌に触れるたび、視えるのは一様に濁った影ばかり。だが、その濁りは奇妙だった。単なる裏切りではない。深い悲しみと、何かを守ろうとする悲壮な覚悟が混じった、複雑な色合いをしていた。まるで、忠義を誓った相手のために、己を偽り続けているかのような……。

槐は廊下の軋む音を聞きながら、一つの疑念を抱いていた。この巨大な嘘の中心は、もっと深い、この城の最も清らかなるべき場所に巣食っているのではないか。そして、その嘘は、あまりにも多くの忠義ある者たちを、裏切り者へと変えてしまったのではないか。彼の指先が、冷たい汗でじっとりと湿っていた。

第二章 滲む歴史、乾かぬ墨

嘘の源流を求め、槐が辿り着いたのは、城の地下深く、黴と古紙の匂いが満ちる禁書庫だった。蝋燭の灯りが、蜘蛛の巣のかかった書架を頼りなく照らす。その最奥に、それはあった。「墨の乾かない古文書」。黒漆の箱に収められたそれは、この国の正史を記した唯一無二の記録。

槐が震える手で古文書を開くと、そこには驚くべき光景が広がっていた。墨で書かれた文字が、まるで生きているかのように蠢き、滲んでいく。

『天明三年、大飢饉。餓死者百万を超える』

その一文が、目の前でじわりと黒く塗り潰されていく。そして、その上に新たな文字が、まるで傷が癒えるように浮かび上がってきた。

『同年、将軍暁月公の善政により、豊穣続く』

歴史が、書き換えられている。桜吹雪の乱も、本来の歴史には存在しない。それは、悲惨な飢饉の真実を覆い隠すために生まれた、巨大な嘘の断片なのだ。槐は息を呑んだ。これほどの嘘を、一体誰が。

ふと、ページの下の余白に、かろうじて読めるかすれた一文が残っていることに気づいた。『——暁月公、天に誓う。この民、必ず救わんと』。その文字だけは、どれほど上の歴史が塗り替えられようと、決して消えることはなかった。

「真実が、常に民を救うとは限りませぬ」

静かな声に振り返ると、闇の中に一人の男が立っていた。将軍側近の葛葉(くずのは)。その男に触れたことはないが、纏う気配からは何も読み取れない。彼は静かに続けた。

「殿は、この国の誰よりも民を想う御方。その忠義は、かつて夜空を照らす月光にも等しいものでした」

「ならばなぜ」槐は問い詰める。「なぜ、これほどの穢れが生まれる?」

葛葉は答えず、ただ古文書を指差した。「その書だけが、この世界の真実を知っております。そして、殿の本当の忠義も」

彼の言葉は、槐の心の霧をさらに深くした。月光にも等しい忠義が、なぜ歴史を歪めるほどの嘘を生むのか。矛盾した問いが、彼の頭の中で渦を巻いていた。

第三章 玉座の慈悲

嘘の侵食は加速した。一夜にして、江戸城に存在しないはずの天守閣が、月光を浴びて壮麗に聳え立った。民衆は吉兆だと沸いたが、槐にはそれが巨大な嘘が築き上げた、虚ろな楼閣にしか見えなかった。もはや一刻の猶予もない。槐は、すべての禁を破り、将軍・暁月公の御前へと進んだ。

玉座に座す将軍は、噂に違わぬ穏やかな顔をしていた。だが、その顔には深い疲労が刻まれている。槐は覚悟を決め、深々と頭を下げたまま、その衣の裾に指先を触れさせた。

その瞬間、槐の世界は光に焼かれた。

それは、濁った影ではなかった。彼が今まで見たどんな忠義の光とも違う。あまりにも強く、あまりにも純粋で、そしてあまりにも悲しい光。それは、自らの魂を薪として燃え上がらせる、自己犠牲の輝きだった。民を救うためならば、世界さえも欺くという、常軌を逸した「忠義」。その光はあまりに眩しく、槐の心を焼き、涙を溢れさせた。

「……視たか、狐憑きよ」

暁月公の声は、ひどく穏やかだった。

彼は語り始めた。本来の歴史。終わりのない飢饉、繰り返される戦乱、百万の民が死に絶え、国が滅びる寸前だった真実を。

「余は選んだのだ」将軍は、虚空を見つめながら言った。「神仏に祈るのではなく、歴史そのものを書き換えることを。民が飢えぬ世界、戦のない世界を創るための……大嘘をな」

彼は自らの命を削り、「この国は豊かで平和であった」という巨大な嘘を紡ぎ続けた。その慈悲深い嘘が、悲惨な真実を塗り潰し、偽りの泰平を築いたのだ。しかし、その嘘は世界を歪ませ、制御を失い、桜吹雪の乱のような新たな災厄を生み出し始めていた。

「民を救うための嘘が、新たな穢れを生むとは……皮肉なものだ」

自嘲する将軍の姿に、槐は言葉を失った。これが、忠臣たちの忠義が濁って見えた理由だった。彼らは、将軍の慈悲深い嘘を守るため、真実を隠すという「裏切り」を、その身に引き受けていたのだ。誰もが、民のために、己の心を濁らせていた。

第四章 白紙に描く未来

暁月公の命の灯火は、尽きかけていた。嘘を維持する力が失われれば、世界は瞬く間に本来の地獄へと回帰するだろう。真実を公表すれば、偽りの平和に生きてきた民は絶望し、今度こそ国は崩壊する。

槐は、究極の選択を迫られていた。真実を暴き、世界をあるべき姿に戻すか。それとも、この巨大な嘘を受け継ぎ、偽りの世界を守るのか。

将軍の私室で、槐は一冊の書を見つけた。それは、何も書かれていない真っ白な古文書だった。表紙には、ただ『未来史』とだけ記されている。将軍が、真実を記すことを放棄した証だった。彼は、未来を誰かに委ねようとしていたのだ。

槐は、決意した。

城の最も高い場所から、彼は眼下に広がる江戸の町を見下ろした。家々の灯り、人々の笑い声。すべてが嘘の上に成り立つ、儚い幻。だが、それは紛れもなく、人々が生きる「現実」だった。

(この嘘を、俺が継ごう)

将軍の嘘を、新たな「物語」として自分が紡ぎ続ける。それは、自らの心を永遠に濁らせ、孤独な「嘘つき」として生きる道。だが、それこそが、彼が初めて己の意志で見出した、民への「忠義」の形だった。

槐は、『未来史』と記された白紙の書を開き、硯の墨に筆を浸した。彼の指先が紙に触れる。その瞬間、彼の内から、淡く、しかし確かな光が放たれた。それは、暁月公が見せた自己犠牲の光でも、かつて彼が憧れた清らかな光でもない。嘘と真実、光と影の狭間で揺れる、悲しくも美しい、新たな忠義の色だった。

槐は、静かに筆を走らせる。

『将軍暁月公は、桜吹雪の乱を平定し、永世の泰平を築いた名君であった——』

彼の目にはもう、人の忠義の色ははっきりと映らないかもしれない。心は濁り、光は見えなくなった。だが、彼は自分が守るべきものを知っていた。

傍らに置かれた「墨の乾かない古文書」の、かすれた最後の一文だけが、まるで囁くように、この世界に隠された真実を、そして一人の男が背負った慈悲深い嘘の始まりを、永遠に語り継いでいくのだろう。

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