影踏みの鎮魂歌

影踏みの鎮魂歌

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第一章 影の依頼人

煤けた長屋の隅で、玄(げん)は息を潜めるように生きていた。陽の光が障子を黄色く染める昼間も、彼の部屋はまるで夜の底のように薄暗い。彼は光を好まない。光あるところ、必ず影が生まれるからだ。そして玄にとって、影は呪いであった。

玄は、影を操る『影師』の一族の末裔だった。しかし、その力は華々しいものではない。他人の影に触れ、意のままに操る時、その影の持ち主の記憶や感情が奔流となって流れ込んでくる。喜び、悲しみ、憎悪、そして、決して触れたくはない心の闇まで。他人の人生を追体験する苦痛は、玄の心を少しずつ削り、乾いた砂のようにしてしまった。だから彼は、人との関わりを絶ち、己の影の中だけで完結する世界に閉じこもっていた。

その静寂を破るように、戸を叩く音がした。乾いた、遠慮がちな音。玄は無視を決め込んだが、音は辛抱強く続く。やがて諦めたように立ち上がり、重い戸を少しだけ開けた。

そこに立っていたのは、上等な縮緬の着物を纏った若い娘だった。歳の頃は十六か七。不安げに揺れる瞳は、濁った水たまりに落ちた椿の花のように、この薄汚い長屋には不釣り合いなほど清らかだった。

「あの、こちらに影の理を解する方がおられると伺い……」

娘は小夜(さよ)と名乗った。江戸でも名の知れた薬種問屋『伊勢屋』の主の娘だという。彼女の依頼は、常軌を逸していた。

「許嫁(いいなずけ)の、影を探していただきたいのです」

玄の眉がぴくりと動いた。「人違いだ。人探しの依頼なら、然るべき所へ行くがいい」

「いえ、人ではございません。探してほしいのは、影なのです」小夜はか細い声で続けた。「許嫁の松次郎様は、十日前に忽然と姿を消しました。ですが……その、彼の影だけが、屋敷に残っているのです」

あり得ないことだった。影は光が生む虚像。本体なくして存在するはずがない。しかし、小夜の目は狂人のそれではなく、切実なものだった。

「夜になると、松次郎様の影が土蔵の白壁に現れ、まるで何かを探すように動き回るのです。誰もいないはずの庭を横切り、池のほとりで佇むこともございます。あれは、間違いなく松次郎様の影。けれど、そこにお姿はない……。お願いでございます。このままでは、私は……」

言葉を詰まらせ、俯く小夜の足元に、頼りなげな影が落ちている。玄はその影から目を逸らした。関わるべきではない。他人の深い事情に、ましてや人の形をした怪異に、足を踏み入れるなど愚の骨頂だ。

だが、玄は断れなかった。小夜の瞳の奥に、自分の孤独とよく似た、深い寂寥の色を見つけてしまったからだ。そして、何よりも彼の心を捉えたのは、本体を失った影が存在するという、影師の理すら覆す不可解な現象そのものだった。

「……分かった。引き受けよう」

その一言が、玄を再び他人の心の深淵へと引きずり込む扉を開けるとは、まだ知る由もなかった。

第二章 残影の囁き

伊勢屋の屋敷は、玄が住む長屋とは別世界だった。手入れの行き届いた庭には、剪定された松が美しい影を地面に落としている。だが、玄の関心はそこにはない。案内されたのは、屋敷の奥にある土蔵だった。白く塗られた壁は、夜になれば格好の舞台となるだろう。

「夜更けになりますと、この壁に……」

小夜の説明を聞きながら、玄は目を閉じた。意識を集中させると、昼間だというのに、壁に染み付いた微かな気配を感じる。それは確かに、人の想いが凝り固まった残滓だった。強い未練か、あるいは怨念か。

その夜、玄は再び伊勢屋を訪れた。月明かりが庭を青白く照らし、草木が作り出す影は黒い獣のように蠢いている。約束通り、小夜と二人きりで土蔵の前に座り、その時を待った。

丑三つ時を過ぎた頃、それは現れた。

何の予兆もなく、すぅっと白壁に人型の影が浮かび上がったのだ。月光が生む影ではない。それはまるで、墨を水に垂らしたように内側から滲み出し、くっきりと人の形を成した。細身の若い男の影。間違いなく、本体のない『残影』だ。

影はゆっくりと動き出した。壁の上を滑り、地面に降りると、ふらふらと庭の方へ歩き出す。まるで夢遊病者のように、目的もなく彷徨っているように見えた。

「松次郎様……」

隣で小夜が息を呑む。その声には、悲しみと恐れが入り混じっていた。

玄は覚悟を決めた。懐から黒い手袋を取り出し、ゆっくりと嵌める。素手で触れれば、情報の奔流に意識を奪われかねない。手袋越しならば、流れ込む感情をある程度制御できる。

彼は残影に近づき、その足元に伸びる影の先端に、そっと指を触れた。

瞬間、冷たい奔流が玄の脳を貫いた。

―――桜の花びらが舞う縁側。優しい笑みを浮かべる小夜の横顔。甘い葛餅の味。

次の瞬間、場面は暗い部屋に変わる。帳簿を睨みつける険しい顔。金の工面について誰かと密談する声。焦りと、微かな恐怖。

そして最後に、肌を刺すような冷気と、水面に映る歪んだ月が見えた。ごぽり、と水が鳴る音。それきり、記憶は途絶えた。

「うっ……!」

玄は思わず手を引いた。手袋をしていても、感情の波は強烈だった。松次郎という男の、幸福と苦悩がごちゃ混ぜになって流れ込んでくる。

「何か、お分かりに?」

「……彼は、何かに追われていたようだ。金の問題か……。そして、最期は水のある場所で……」

残影は、玄が触れたことに気づいたかのように動きを止め、じっと玄の方を向いた。そして、まるで道を示すかのように、屋敷の裏手にある古い井戸の方へとおぼつかない足取りで向かい始めた。

玄と小夜は、その後を追った。井戸の周りは苔むし、昼でも薄暗い場所だった。残影は井戸の縁に立つと、おもむろにその中を指差した。そして、まるで役目を終えたかのように、すっと掻き消えた。

「この、中に……?」

小夜の声が震える。玄は井戸の底を覗き込んだ。暗くて何も見えない。だが、腐臭に混じって、微かに鉄錆の匂いがした。血の匂いだ。

玄は確信した。松次郎は失踪したのではない。この井戸の底で、誰かに殺されたのだ。

第三章 心の闇、愛の影

井戸の底から引き上げられたのは、紛れもなく松次郎の亡骸だった。その身体には数カ所の刺し傷があり、無残な姿となっていた。奉行所の役人たちが駆けつけ、伊勢屋は騒然となった。下手人捜しが始まる。疑いの目は、松次郎と金銭的な揉め事を起こしていたという数人の商人に向けられた。

玄は、役人たちの喧騒から離れ、一人縁側に座っていた。彼の仕事は終わったはずだった。亡骸の場所を示し、事件は白日の下に晒された。だが、彼の心には奇妙な違和感が澱のように溜まっていた。

残影から流れ込んできた記憶。そこには確かに焦りや恐怖はあったが、誰かに対する強い怨みは感じられなかった。むしろ、強く残っていたのは、小夜への愛おしい記憶と、何かを守ろうとする切ない想いだった。殺された者の残影にしては、あまりに静かで、悲しすぎる。

それに、あの残影が示した場所。本当に井戸で良かったのだろうか。残影の指先は、井戸そのものというより、その少し脇にある古い石灯籠を指していたようにも思えた。

考え込んでいると、小夜が静かにお茶を運んできた。彼女の顔は青ざめていたが、その瞳は不思議なほど落ち着いて見えた。

「玄様。この度は、まことにありがとうございました。これで、松次郎様も浮かばれましょう」

その言葉に、玄は顔を上げた。

「……小夜殿。一つ、尋ねたいことがある」

玄は、残影に触れた時に感じたもう一つの違和感を口にした。

「松次郎殿の記憶には、桜と葛餅の思い出があった。それはあなたとの記憶だろう。だが、彼の恐怖や焦りの中には、あなたの姿は一切なかった。まるで、あなたをその闇から遠ざけようとするかのように」

小夜の肩が、微かに震えた。

「それは……」

「そして、あの残影。あれは怨念ではなかった。あれは、あなたに何かを伝えたがっていた。井戸の場所ではない。もっと別の何かを」

玄は立ち上がると、小夜を伴って再び井戸の元へ向かった。そして、あの石灯籠に近づく。苔むした石灯籠の台座に、不自然な隙間があることに気づいた。玄がそこに指をかけると、石の一部がずれて、小さな空洞が現れた。

中には、油紙に包まれた一通の文と、小さな紅色の巾着袋が入っていた。

玄が文を手に取ると、小夜は堰を切ったように泣き崩れた。それは安堵の涙ではなく、罪の意識から解放された者の、慟哭だった。

「私が……私が、松次郎様を……あやめたのです」

その告白は、雷鳴のように玄の心を打った。

文には、松次郎の苦悩が綴られていた。彼は店の経営のために悪辣な金貸しから多額の借金をし、返済のために伊勢屋の財産を狙っていた。だが、それは小夜を、伊勢屋を、金貸しの魔の手から守るための苦肉の策だった。彼は、自分が悪人になることで、全てを終わらせようとしていたのだ。

「私は、その文を偶然見つけてしまいました」小夜は嗚咽しながら語った。「彼が、私のために罪人になろうとしている。そんなこと、耐えられませんでした。彼がこれ以上道を踏み外す前に、私が終わらせるしかないと……。愛する人を、この手で汚してしまう前に……」

十日前の夜、小夜は松次郎を井戸の脇に呼び出した。そして、彼の罪と愛を全て受け止めた上で、懐剣で彼を刺したのだという。

「ごめんなさい、松次郎様。あなたを、悪人にはさせません……」

そう言って。

松次郎は抵抗しなかった。ただ、驚いたように目を見開き、最期に微笑んで、「ありがとう」と呟いたという。

読者の予想を裏切る真実。下手人は、最も被害者に見えた可憐な娘だった。彼女の犯行は、憎しみからではなく、歪んだ、しかしあまりにも純粋な愛から生まれたものだった。

第四章 解き放たれる光

全てを打ち明けた小夜は、憑き物が落ちたように静かだった。彼女の罪悪感と、松次郎への未練。その二つの強い想いが、本体を失った影をこの世に縛り付けていたのだ。残影が彷徨っていたのは、怨みからではない。小夜に、自分の本当の気持ちを綴った文を見つけてほしかったからだ。

「玄様。私は、これで役人に出頭いたします」

小夜の決意は固かった。

玄は、静かに首を横に振った。「その前に、やることがある」

彼は再び黒い手袋を外し、素手になった。そして、小夜に向かって手を差し出す。

「あなたの影に、触れさせてほしい」

小夜は驚いたが、こくりと頷いた。玄は覚悟を決め、彼女の足元に落ちるか細い影に、そっと指先を沈めた。

瞬間、嵐のような感情が玄を襲った。松次郎を刺した瞬間の、肌を裂く感触。彼の血の温かさ。愛する人を手にかける絶望と、彼を救えたという歪んだ安堵。後悔と、罪悪感と、それでも消えない深い愛情。あまりの激しさに、玄は膝から崩れ落ちそうになった。だが、彼は歯を食いしばって耐えた。これが、彼女が一人で抱えてきた闇の重さなのだ。

その時、ふっと背後に気配がした。振り返ると、あの松次郎の残影が、いつの間にか現れていた。しかし、その姿は以前よりもずっと淡く、陽炎のように揺らいでいる。

玄は立ち上がった。小夜の影に触れたまま、もう片方の手を松次郎の残影に向ける。

「松次郎殿。あなたの想いは、確かに伝わった」

玄は、自分の身体を器として、小夜の心を言葉に変えた。

「彼女は、あなたを救いたかった。あなたを愛するが故に、罪を犯した。そして、その後悔に苛まれている」

小夜の影から流れ込む「ごめんなさい」という想いを、玄は残影へと注ぎ込む。すると、残影はゆっくりと小夜の方へ歩み寄り、まるで彼女の頭を優しく撫でるかのように、その影の手を伸ばした。

そして、松次郎の残影から、最後の想いが玄に流れ込んできた。それは、言葉にならない、温かい光のような感情だった。「ありがとう」と「さようなら」、そして「愛している」という想いが一つになった、完全な赦しの光。

残影は、満足したように頷くと、その輪郭から金色の光の粒子を放ち始めた。影が光に還っていく。その幻想的な光景の中、影はゆっくりと天に昇り、月明かりに溶けるように消えていった。

全てが終わった時、夜の静寂だけが残された。小夜はただ、静かに涙を流していた。

翌日、小夜は自ら奉行所へ出頭した。事情が酌量され、彼女の罪は死罪ではなく、遠島という形で決着したという。

玄は、長屋に戻り、いつもの薄闇の中に座っていた。だが、彼の心は以前とは違っていた。あれほど呪わしいと思っていた自分の力が、引き裂かれた二つの魂を繋ぎ、僅かながらも救いをもたらした。他人の心に触れることは、苦痛だけではなかった。そこには、理解があり、赦しがあり、そして愛があった。

玄は、障子を少しだけ開けた。差し込んできた朝日が、畳の上に彼のくっきりとした影を落とす。彼は初めて、その自分の影を恐れることなく、じっと見つめた。

その黒い輪郭の中に、彼はもう孤独を見てはいなかった。そこには、小夜の涙と、松次郎の微笑みと、そしてこれから出会うであろう、数多の影たちの囁きが宿っているような気がした。影と共に生きる。それは呪いではなく、鎮魂の旅なのかもしれない。玄は、静かにそう思った。

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