サイレンス・ウェイト

サイレンス・ウェイト

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第一章 零グラムの違和感

アスファルトに染み込んだ雨水が、ネオンの光を滲ませていた。言語調律師である私の仕事は、この都市に満ちる「言葉」の重さを測定し、社会基盤への影響を管理することだ。言葉が物理的な質量を持つようになって久しい。誹謗中傷や嘘、悪意に満ちた言葉は鉛のように重く、時に建物を傾かせ、橋を歪ませる。逆に、感謝や愛情、賞賛の言葉は羽のように軽く、大気中に舞い上がり、人々の心を穏やかにする。私の指先にある携帯端末「リブラ」は、それら全ての言葉の質量、すなわち「言量(げんりょう)」をリアルタイムで計測する。

その日、私は商業地区の広場で定点観測を行っていた。行き交う人々の口から放たれる無数の言葉たちが、カラフルな光の粒子となって私の網膜に映し出される。喧騒、雑談、営業トーク。そのほとんどは数グラムから数十グラム程度の、取るに足らない重さだ。社会の安定とは、こうした無数の「どうでもいい言葉」の総和によって、かろうじて保たれている。

不意に、リブラがけたたましい警告音を発した。ディスプレイに表示されたのは、一点に集中する異常な言量反応。発生源は広場の隅、噴水のそばに立つ小さな少女だった。彼女は俯き、汚れたワンピースの裾を握りしめている。その前に立つのは、パンを分け与えたのであろう初老の女性。少女はか細い声で、しかしはっきりと、こう言った。

「……ありがとう」

その瞬間、私のリブラが示した数値に、全身の血が凍る思いがした。

『言量:12.42キログラム』

ありえない。感謝の言葉は、どんなに心のこもったものでも数ミリグラムを超えることはない。それは物理法則であり、この世界の常識だ。12キログラム超。それは、コンクリートブロックに匹敵する重さだ。少女の足元のアスファルトが、目には見えない重圧で僅かに、本当に僅かに軋むのが分かった。しかし、周囲の誰もその異常に気づかない。ただ私だけが、この世界を支える天秤が狂い始めていることを、確かに感じ取っていた。

少女は老婆に一礼すると、人混みの中へ消えていく。私は呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。零グラムのはずの感謝が、なぜ鉛のような重さを持つのか。それは私の二十六年の人生で培ってきた知識と経験の全てを否定する、静かで、しかし途方もなく巨大な違和感だった。日常という薄氷に、初めて入った亀裂の音を、私は確かに聞いたのだ。

第二章 沈黙の街の響き

あの異常な言量を追って、私は都市の公的記録を漁った。少女の顔認証データから、彼女が「第七管区」、通称「無声地区」の住民であることを突き止める。そこは、重い言葉による破壊を恐れた人々や、高言量税を払えない貧困層が、自ら沈黙を選んで暮らす場所だった。灰色の高層住宅が墓石のように立ち並び、空気は淀み、人々の会話の代わりに風の音だけが響いている。ここでは、言葉は贅沢品であり、同時に凶器でもあった。

幾度かの訪問の末、私はついにあの少女、雫(しずく)を見つけ出した。彼女は地区の片隅にある小さな配給所で、母親の手伝いをしていた。雫は私を覚えていたのか、少し驚いたように目を見開いたが、何も言わずに俯いてしまう。

「こんにちは。少し、お話いいかな」

私が極力「軽い」言葉を選んで話しかけると、彼女の母親が警戒したように前に出た。

「調律師様が、このような場所に何の御用で」

その声は、感情を殺した無機質な響きを持っていた。重さを生まないよう、心を込めずに言葉を発する技術。それは、この地区で生きるための知恵だった。

私は正直に、先日観測した「重いありがとう」について尋ねた。すると、母親の顔からすっと表情が消えた。

「あの子は、少し特殊なのです。……感謝の気持ちが、人一倍強いのかもしれません」

それは答えになっていなかった。私は諦めずに雫と接触を試みた。菓子を差し入れたり、彼女が世話をする小さな花壇の雑草を抜いたりした。雫は言葉を発することはなかったが、少しずつ私に心を開いてくれているように見えた。

ある雨の日、私はずぶ濡れになりながら配給所を訪れた。雫は黙って乾いたタオルを差し出し、私をストーブのそばに座らせてくれた。その時、彼女はぽつりと、しかし確かな重さを持って呟いた。

「……ごめんなさい」

リブラが震える。『言量:8.91キログラム』。謝罪の言葉もまた、これほどの重さを持つはずがない。私は彼女の目を見た。その黒い瞳の奥には、単なる申し訳なさだけではない、もっと深く、複雑な感情が渦巻いていた。それは、自分の存在が他人に迷惑をかけることへの絶望、助けたいのに何もできない無力感、そして、それでも目の前の私を気遣おうとする、痛々しいほどの優しさ。

その時、私は悟った。彼女の言葉が重いのは、その一言に、彼女が普段飲み込んでいる無数の言葉、声にならない想いの全てが凝縮されているからだ。この沈黙の街で、人々は心を殺して生きている。しかし雫は、殺しきれない心を、たった一言に込めてしまうのだ。

私の胸を、冷たい風が吹き抜けた。私が守っていると信じていた社会の「調和」とは、果たして何だったのだろう。それは、こうした声にならない声を無視し、踏み潰すことで成り立つ、脆い砂上の楼閣ではないのか。

第三章 偽りの天秤

雫との出会いは、私の内なる天秤を大きく揺さぶった。私は中央管理局に戻り、過去の異常言量データを洗い直した。すると、不可解なデータがいくつも見つかった。無声地区のような貧困層が住むエリアで、感謝や謝罪といったポジティブな言葉が、稀に異常な重さで記録されている。その全ては「エラー」として処理され、誰にも省みられることはなかった。

私は、長年私を指導してくれた師であり、管理局の幹部でもある相良(さがら)に、この事実を報告した。私の興奮とは裏腹に、相良の表情は静まり返っていた。彼は私を執務室の奥にある、窓のない部屋へと招き入れた。

「音葉君、君は優秀な調律師だ。だが、知りすぎたようだ」

重々しい扉が閉まる。部屋の中央には、巨大なサーバー群が青白い光を放ちながら鎮座していた。壁一面に広がるモニターには、都市中の言量がリアルタイムで表示されている。それは、私が普段使うリブラなど比較にならない、この世界の神経網そのものだった。

「君が『物理法則』だと思っていたものは、これだよ」

相良はモニターの一つを指さした。そこには複雑な数式とプログラムコードが並んでいる。「言霊変換システム」と銘打たれたそのシステムこそが、この世界の真実だった。

「言葉の重さは、自然現象などではない。我々が、このシステムで『定義』しているのだ」

全身から力が抜けていくのが分かった。立っているのがやっとだった。

「どういう……ことですか?」

「社会の安定のためだ」と相良は淡々と言った。「人々を扇動するような過激な思想、体制を批判する言葉、それらに『重さ』という物理的な枷をはめる。逆に、消費を促す言葉、従順な感謝の言葉は『軽く』して流通しやすくする。これは究極の言論統制であり、究極の社会福祉なのだよ」

私が信じてきた正義が、音を立てて崩れ落ちていく。私の仕事は、世界の調和を守ることではなかった。巨大な欺瞞を維持するための、歯車の一つに過ぎなかったのだ。

「では、雫の言葉は……?」

「システムのバグ、あるいは規格外の感情が生んだエラーだ」相良は忌々しげに舌打ちした。「貧困層の人間が抱く、歪で複雑な感情……犠牲、絶望、諦観、その中にある僅かな希望。そういった混ぜ物は、我々のシステムが想定していない『重さ』を生み出してしまう。放っておけば、システムの根幹を揺るがしかねないノイズだ」

彼は私に命令した。雫を「調整」しろ、と。それは彼女から感情を奪い、二度と規格外の言葉を生み出せないようにすることを意味していた。拒否すれば、私も「調整」の対象となるだろう。

部屋を出た私の足は、鉛のように重かった。それは比喩ではなかった。私の内側で生まれた絶望と怒りが、システムによって定義された「重さ」となり、私の身体にのしかかっていた。偽りの天秤の上で、私の魂は悲鳴を上げていた。

第四章 言の葉の降る日

私は相良の命令に背いた。管理局を抜け出し、真っ直ぐに無声地区へ向かった。私の頭の中には、一つの計画があった。危険で、無謀で、世界を混沌に陥れる可能性のある計画。だが、偽りの調和の中で心を殺し続けるよりは、ずっといい。

配給所で雫と彼女の母親に全てを話した。二人は驚き、怯えた。しかし、私がシステムの制御を奪い、人々が本来の「言葉の重さ」を取り戻す方法を語ると、雫の瞳に強い光が宿った。それは、諦めの中から立ち上がる者の光だった。

「やるわ」

雫の母親が、初めて感情のこもった声で言った。その声には、長年抑圧してきた怒りと悲しみの重さが滲んでいた。

「私たちから、これ以上何を奪うというの」

計画は単純だった。私が持つ調律師の権限を使い、無声地区に設置された言量の中継アンテナに不正アクセスする。そして、雫の「言葉」を増幅器として利用し、システムの中枢サーバーに、制御不能なほどの高言量データを送り込むのだ。それは、システムの過負荷による破壊を狙った、いわば言葉によるテロ行為だった。

地区の住民たちが集まってきた。噂を聞きつけたのだろう。彼らの顔には不安と、そして微かな期待が浮かんでいた。

アンテナの真下で、私は雫の手を握った。

「雫ちゃん。君が、君たちがずっと言えなかったこと、感じてきたこと、その全てを、今、言葉にしてほしい」

雫はこくりと頷いた。彼女はマイクの前に立ち、深く息を吸う。そして、静かに、しかし魂の底から絞り出すように、語り始めた。

「悔しい……。どうして、私たちは声を殺さなきゃいけなかったの。悲しい……。お父さんが重い病気になっても、助けてって言えなかった。嬉しい……。それでも、パンをくれたお婆さんや、ここに来てくれた音葉さんがいた。ありがとう。ごめんなさい。……愛してる」

一つ一つの言葉が、システムが定義した重さを遥かに超え、凄まじいエネルギーの奔流となってアンテナに流れ込んでいく。私のリブラはとっくに計測限界を超え、火花を散らして沈黙した。集まった住民たちも、堰を切ったように叫び始めた。怒り、悲しみ、喜び、希望。声にならないはずだった無数の声が、一つの巨大な響きとなって都市の中心へと向かっていく。

次の瞬間、世界が変わった。

空から、何かが降ってきた。それは光の粒子だった。重い言葉は黒や灰色、軽い言葉は白や虹色に輝いている。制御を失ったシステムが、全ての言葉をありのままの「重さ」で解放したのだ。

都市の中心部で、轟音と共に高層ビルが傾いだ。長年の欺瞞と虚飾で塗り固められた経営者たちの「嘘」が、本来の重さを取り戻し、自らの城を破壊したのだ。道が裂け、橋が落ちる。しかし、それは破壊だけではなかった。

親が子を想う「愛してる」という言葉が、ふわりと舞い上がり、瓦礫の下の子供を優しく包み込む光のドームになった。誰かが誰かを励ます「大丈夫」という言葉が、傷ついた人々の傍らで温かい光を放っている。

混沌と破壊。そして、その中にある確かな再生の兆し。

私は、雫の隣で、空から降り注ぐ無数の言の葉を見上げていた。管理された静寂は終わった。これからは、言葉の本当の重さと向き合い、傷つけ合い、それでも赦し合いながら生きていく時代が始まるのだ。

私の頬を、一粒の光が伝った。それは、誰かが発した「希望」という言葉だった。とても軽くて、けれど、何よりも温かい重さを持っていた。世界は壊れ、そして、今まさに生まれ変わろうとしていた。

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