第一章 嘘の色彩
私の世界は、他人の吐く嘘によって、絶えずけばけばしい色彩に汚染されていた。
真田啓介(さなだ けいすけ)、32歳。職業は、NPO法人「セカンド・ステップ」のケースワーカー。そして、他人の嘘が「色」として見える、一種の共感覚の持ち主だ。この能力は生まれつきで、誰にも明かしたことはない。
誠実な言葉は無色透明だが、嘘には色がつく。些細な見栄は淡い黄色、保身のためのごまかしは濁った緑、そして悪意に満ちた完全な捏造は、どす黒い紫となって相手の口元から滲み出す。東京の雑踏は、様々な色の嘘が入り乱れる万華鏡のようで、啓介にとっては耐え難いノイズの洪水だった。だから、彼は感情を押し殺し、常に冷静で、人との間に壁を作って生きてきた。
その日、啓介が担当することになったのは、一件の生活困窮者支援だった。男の名は、伊藤誠。45歳。リストラがきっかけで全てを失い、今はネットカフェを転々としているという。面談室に入ってきた伊藤は、痩せこけ、着古したスーツの肩にはフケが積もっていた。
「必ず、真面目に働いて、社会復帰します。どんな仕事でもやります。チャンスをください」
伊藤は深々と頭を下げた。彼の言葉は、どこまでも無色透明だった。啓介の目には、一点の曇りもない純粋な意志として映る。これまで何人もの支援対象者を見てきたが、彼らの口からは大抵、過去を糊塗するための黄色や緑の嘘が漏れ出たものだ。しかし、伊藤は違った。その透明な言葉に、啓介は久しぶりに「本物」を見た気がした。
啓介はすぐに行動を開始した。提携している企業に掛け合い、住居支援の手続きを進め、伊藤のために奔走した。伊藤もまた、啓介の期待に応えるように、紹介された清掃の仕事を黙々とこなし、その真面目な働きぶりはすぐに評判となった。
「真田さんのおかげです。本当に、ありがとうございます」
感謝を述べる伊藤の言葉も、やはり透明だった。啓介の心に、凍てついていた何かが、じんわりと溶けていくような感覚があった。嘘が蔓延るこの灰色のような世界で、ようやく一つの確かな真実を見つけ出した。そんな達成感と、ささやかな希望が彼を包んでいた。この男なら、きっと立ち直れる。いや、自分が立ち直らせてみせる。啓介の支援は、いつしか個人的な情熱を帯び始めていた。
第二章 透明な亀裂
伊藤の社会復帰は順調に進んでいるように見えた。彼は新しいアパートで暮らし始め、職場での評価も上々だった。啓介は定期的に彼を訪ね、生活の様子を気遣った。そのたびに、伊藤は実直な言葉で感謝を口にした。彼の周りには、嘘の色が一切存在しなかった。
しかし、ある時から、啓介は微かな違和感を覚え始めていた。伊藤は完璧すぎたのだ。弱音を吐かず、不平を言わず、常に前向きで、感謝を忘れない。まるで、模範的な更生者のプログラムを寸分違わず実行しているかのようだった。
啓介の能力は、あくまで「発せられた言葉」が嘘かどうかを判定するだけだ。人が胸の内に秘めた感情や、口に出さない本心までは見通せない。啓介は、自分が伊藤の「透明な言葉」に安堵し、それ以外の部分から目を逸らしていたことに気づき始めた。
ある雨の日の午後、啓介はアパートに伊藤を訪ねた。
「伊藤さん、最近どうですか。何か困っていることは?」
「いえ、何も。おかげさまで、毎日が充実しています。本当に、感謝しかありません」
その言葉も、もちろん透明だった。だがその時、啓介の目は、テーブルの隅に置かれた一枚のハガキを捉えた。風景写真の、何の変哲もないハガキだ。しかし、その宛名面に書かれたボールペンのインクが、雨の湿気のせいか、わずかに滲んでいるように見えた。
その瞬間、啓介の脳裏に、今まで無視してきた些細な事柄が繋ぎ合わさっていく。伊藤がいつも、家族の話を避けてきたこと。故郷について尋ねると、決まって窓の外に視線を逸らしていたこと。そして、彼の無色透明な言葉には、喜びや悲しみといった「感情の温度」が全く感じられないこと。
啓介は、自身の能力に対する絶対的な信頼が、少しずつ揺らいでいくのを感じていた。色は嘘を教えてくれる。だが、色がないからといって、それが真実の全てを語っているわけではないのではないか。透明な言葉の裏側に、もっと深く、重い何かが隠されているのではないか。その疑念は、啓介の心に小さな、しかし消えない亀裂を入れた。
第三章 どす黒い沈黙
決定的な出来事は、突然訪れた。伊藤が職場で倒れ、病院に救急搬送されたという連絡が入ったのだ。啓介が慌てて駆けつけると、医師から告げられたのは衝撃的な事実だった。末期の膵臓癌。余命は、もって三ヶ月。
「なぜ、もっと早く…」
呆然とする啓介に、医師は言った。
「伊藤さん、ご自分でわかっていたはずです。ですが、治療を頑なに拒否されて…」
病室のベッドで、伊藤は以前よりもさらに痩せ細り、蒼白な顔で眠っていた。その傍らには、数枚の書き損じられたハガキが散らばっていた。啓介が面談室で見たのと同じ、風景写真のハガキだ。
しばらくして、伊藤が静かに目を開けた。
「…真田さん、来てくれたんですね」
か細い声。だが、やはりその言葉は透明だった。啓介は、込み上げてくる感情を抑えきれなかった。
「どうして言わなかったんですか!病気のことも、何もかも!あなたの言葉は、いつも透明だったじゃないか!」
それは、詰問であり、悲痛な叫びだった。なぜ嘘をつかなかったのか。なぜ、苦しい、辛いと、色付きの言葉で訴えてくれなかったのか。そうすれば、自分はもっと違う形で彼を救えたかもしれないのに。
伊藤は、ゆっくりと首を横に振った。そして、初めて、彼の物語を語り始めた。
「私は…嘘はついていませんよ、真田さん」
伊藤には、故郷に妻と高校生の娘がいた。彼は事業に失敗し、多額の借金を背負った。家族に迷惑はかけられないと、彼は失踪同然に家を出た。そして、自分が癌であることを知った。残された時間は少ない。彼は、自分の生命保険金だけが、家族に残せる最後の償いだと思った。
「私が治療を受ければ、保険金は治療費に消えてしまう。でも、私がこのまま死ねば、借金を返済しても、少しだけ家族にお金を残せる。だから…だから私は、ただ『社会復帰したい』とだけ願っていたんです」
彼の言葉は、一言一句が透明だった。「社会復帰したい」という願いは、嘘ではなかったのだ。ただし、その言葉の裏には、「人間らしい尊厳を持って死に、家族に最後の責任を果たしたい」という、あまりにも切実で、誰にも言えなかった「真実」が隠されていた。
彼は嘘をつけなかったのではない。嘘をつく必要がなかったのだ。自分の死という結末に向かって、ただひたすらに、誠実に歩みを進めていただけだった。
啓介は愕然とした。自分の能力は、「言葉の真偽」は判定できても、「沈黙の重み」は全く測定できなかった。伊藤が語らなかったこと、その沈黙こそが、彼の人生で最も重く、どす黒い紫色の絶望に満ちた「嘘」だったのだ。それは、自分自身を偽り、死へと向かわせる、究極の自己欺瞞。しかし、啓介の目には、その色は決して見えなかった。
彼の信じてきた世界が、根底から覆された。色が見える能力は、彼に真実を見せるどころか、むしろ表層的な言葉だけに囚われさせ、人の心の最も深い場所にある痛みから目を背けさせていた。自分は、伊藤という一人の人間の、魂の叫びを聞き逃していたのだ。
第四章 灰色の温もり
伊藤は、それから一月も経たずに息を引き取った。啓介は彼の遺言に従い、保険金の手続きを行い、匿名で伊藤の家族に送金した。伊藤の妻からの電話口での戸惑いと、やがて嗚咽に変わる声を聞きながら、啓介はただ、唇を噛みしめることしかできなかった。
あの日以来、啓介の世界は変わった。嘘の色は相変わらず見えたが、もはやそれに絶対的な意味を見出すことはなかった。彼は、色のない透明な言葉の向こう側にある、語られない物語に耳を澄ませるようになった。濁った緑色の嘘の裏にある見栄や弱さ、どす黒い紫の嘘の根底にある絶望や孤独を、想像しようと努めるようになった。
彼はケースワーカーの仕事を続けている。以前のように、機械的に、効率的に人を判断することはもうない。支援対象者の言葉に、たとえ嘘の色が混じっていても、その色の奥にある人間の脆さや痛みに寄り添おうとする。彼の周りには、今も様々な色の嘘が渦巻いている。世界は相変わらず、ノイズに満ちた灰色のままだった。
だが、その灰色は、もはや彼にとって冷たい絶望の色ではなかった。それは、無数の人々の語られない感情や、声にならない叫びが溶け合った、どこか温もりのある色に感じられた。
ある冬の日、啓介は新しい支援対象者の若い女性と向き合っていた。
「私、今度こそ大丈夫です。もう誰にも迷惑かけませんから」
彼女の口元から、淡い黄色の嘘が、湯気のように立ち上った。
以前の啓介なら、その嘘を指摘し、彼女を値踏みしていただろう。だが、彼はただ静かに頷き、温かいお茶を差し出した。
「ゆっくりでいいですよ。話したくなった時でいいので、あなたのことを聞かせてください」
その言葉は、啓介自身の口から、一点の曇りもなく、無色透明に放たれた。嘘の色が見える能力は、彼を孤独にした呪いだったのかもしれない。しかし、伊藤誠との出会いを経て、その呪いは、見えないものを信じるための、ささやかな祈りへと変わっていた。啓介は、この灰色の世界で、言葉にならないシンフォニアを聴きながら、これからも生きていくのだろう。完璧な真実などどこにもない。ただ、不器用な優しさがそこにあるだけだ。