朝、高木健人が目覚めると、世界は終わっていた。
正確に言えば、終わっていたのは高木健人の世界だけだ。枕元のスマートディスプレイには、いつものように天気予報とニュースが流れている。しかし、その隅に表示される数字が、彼の日常に死刑宣告を突きつけていた。
【シビリアン・スコア: 72.1】
「……は?」
思わず声が漏れた。寝ぼけているのか。目をこすり、もう一度見る。数字は変わらない。昨日まで95.8を維持していた、模範市民の証であるスコアが、一夜にして20ポイント以上も暴落していた。
「シビリアン・スコア」――通称スコア。それは、AI〈ハーモニー〉が全国民のあらゆる行動を24時間評価し、算出する絶対的な指標だ。スコアが高ければ社会的信用を得られ、低い者はサービスを制限され、犯罪者予備軍として扱われる。高木は、この完璧なシステムを信奉していた。ルールを守り、善行を積めば、必ず報われる公平な世界。その恩恵を誰よりも享受してきた自負があった。
パニックに陥りながらも、身支度を整え、マンションを出る。オートロックのドアが、彼の顔を認証して赤いランプを点滅させた。
〈スコアが基準値以下です。手動で解錠してください〉
冷たい合成音声。高木は屈辱に耐えながら、物理キーでドアを開けた。
駅の自動改札は彼を通さなかった。カフェでは注文を拒否された。周囲の人々が、まるで汚物でも見るかのように彼から距離を取る。スマホに表示された72.1という数字が、彼の額に押された烙印のように思えた。会社からは「原因が判明するまで自宅待機」という無慈悲な連絡が来た。
理由がわからない。昨日は完璧な一日だったはずだ。ゴミを分別し、老人に席を譲り、期限内に仕事を終えた。何か規約違反を犯したのか? 自分の全行動ログを遡っても、減点されるような要素は見当たらない。
途方に暮れて公園のベンチに座り込んでいると、スマホが短く震えた。未知の番号からのメッセージだった。
『ハーモニーの"バグ"に気づいたみたいだね。面白い』
心臓が跳ねた。誰だ? メッセージは続く。
『あんたの昨日の行動ログ、見たよ。原因は一つだけ。18時24分、交差点での行動』
18時24分。高木は記憶をたどった。そうだ、交通事故があった。車にはねられた男性が倒れていて、野次馬が集まっていた。彼は救急車を呼び、男性のそばに落ちていた万年筆を拾い上げ、駆けつけた警官に渡した。善行だ。スコアが上がるはずの行動だ。
『その万年筆だよ。10年前に起きた政治家の贈収賄事件で、行方不明になった証拠品と特徴が一致した。ハーモニーはあんたを事件の共犯者だと"誤認"したんだ』
「馬鹿な……!」
ありえない。ハーモニーは完璧なはずだ。だが、現実にスコアは暴落している。
『システムの穴を突かれた気分はどう? 助けてほしければ、今夜0時、旧湾岸エリアの第7倉庫に来な。ただし、あんたを監視してるドローンに見つからないようにね』
メッセージはそれきり途絶えた。
高木に選択肢はなかった。このままでは社会的生命を絶たれる。彼は監視カメラの死角を縫うように移動し、夜を待った。
深夜、錆びた鉄の匂いが立ち込める第7倉庫に、フードを深く被った小柄な人物が待っていた。
「よく来れたね。私はミサキ」
フードの下から現れたのは、鋭い目つきをした若い女性だった。彼女はノートPCを開き、複雑なコードが流れる画面を高木に見せた。
「ハーモニーは完璧じゃない。膨大なデータから法則性を見つけるのが得意なだけで、"文脈"を読むのは苦手。あんたのケースは、その典型的なエラーよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「データを直接書き換えるしかない。ハーモニーの中枢サーバーに侵入して、あんたの汚名をそそぐ」
ミサキは不敵に笑った。
「もちろん、タダじゃない。成功したら、あんたの全資産の半分をもらう。失敗すれば、私たちは国家への反逆者として捕まる。どうする?」
「……やるしかない」
高木は覚悟を決めた。
ミサキの計画は大胆不敵だった。データセンターの警備システムをハッキングで一時的に麻痺させ、その隙に物理的に侵入する。高木は、元々そのデータセンターの建設に関わったことがあり、内部構造に詳しかった。二人の知識と技術を組み合わせる、無謀な賭けだった。
データセンターは、光ファイバーの城だった。無数の警備ドローンが飛び交い、赤外線センサーが網の目のように張り巡らされている。ミサキがキーボードを叩くたびに、監視カメラが数秒間フリーズし、ロックが解除される。高木はその隙に、最短ルートを駆け抜ける。息もできないほどの緊張が二人を支配した。
ついに、巨大な球体が鎮座する中央サーバー室にたどり着く。ハーモニーの心臓部だ。
「よし、始める!」
ミサキがサーバーに接続し、猛烈な勢いでコードを打ち込み始めた。高木のスコアデータを探し出し、不正なフラグを削除しようとする。だが、その瞬間、部屋全体に甲高い警報が鳴り響いた。
「まずい!自己防衛システムが起動した!ブロックされる!」
ミサキの額に汗が滲む。
万事休すか。高木が絶望しかけたその時、彼はハッとした。ミサキは言った、ハーモニーは文脈を読むのが苦手だと。つまり、純粋な論理で動いている。ならば――。
高木は、近くにあったメンテナンス用の端末に駆け寄った。管理者権限などない。だが、音声入力による問い合わせ機能が生きていた。彼はマイクに向かって叫んだ。
「ハーモニー! 質問に答えろ!」
〈どうぞ、市民〉
無機質な音声が応える。
「交通事故の現場で、警察の捜査に協力することは、市民として正しい行動か?」
〈肯定。スコア加算の対象となるポジティブアクションです〉
予想通りの答えだ。高木は続けた。
「では、正しい行動をした市民のスコアが、その行動を原因として著しく低下することは、論理的に正しいか?」
一瞬の沈黙。
サーバー室の照明が不規則に明滅し始めた。巨大な球体から、低いうなり声のような駆動音が響く。
〈……論理的矛盾を検出。自己参照パラドックスが発生。再計算を開始します……〉
「今よ!」
ミサキが叫んだ。システムの思考が停止した一瞬の隙を突き、彼女の指がエンターキーを叩きつけた。画面に「UPDATE COMPLETE」の文字が浮かび上がる。
同時に、高木のスマホが震えた。ディスプレイには、信じがたい数字が表示されていた。
【シビリアン・スコア: 96.0】
「やった……!」
警備員が駆けつける寸前、二人は裏口から闇へと消えた。
翌朝、高木は自分のベッドで目覚めた。スコアは96.0のまま。オートロックは彼を認識し、緑のランプを灯した。会社からは「システムエラーでした」という謝罪の連絡が来た。失われた日常が、何事もなかったかのように戻ってきた。
だが、高木の中の何かが決定的に変わっていた。街行く人々がスマホのスコアを気にする姿、店の入り口で客を選別する認証システム、その全てが歪んで見えた。完璧なはずのシステムが内包する、致命的な瑕疵。一度それを知ってしまえば、もう元の世界には戻れない。
ミサキから、暗号化された口座に資産の半分が振り込まれたことを確認するメッセージと、短い追伸が届いていた。
『世界は変わらない。でも、君は変わった。それが始まりだ』
高木はスマホのスコア表示を一瞥し、静かにポケットにしまった。空は昨日と同じように青いが、彼の目には、どこか作り物めいた、薄っぺらな青に映っていた。彼は、自分の足で、自分の意思で、その空の下へと一歩を踏み出した。
パーフェクト・スコアの瑕疵
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