サイレント・ブレッド

サイレント・ブレッド

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***第一章 影のパン職人***

高梨翔太のジャーナリストとしての魂は、とうの昔に死んだと思っていた。かつて大手新聞社で社会正義を追い求めた情熱は、クリック数という無機質な数字の前で摩耗し尽くし、今ではウェブメディアの片隅で、炎上しかけたタレントの火に油を注ぐような記事を流れ作業で生産する日々。燻った煙草の匂いが染みついた安アパートの部屋で、翔太は飼い殺しの獣のように息を潜めていた。

「次のネタだ、高梨。これ、バズってるらしいぞ」

編集長の甲高い声が、スマートフォンのスピーカーから響く。送られてきたURLをタップすると、『奇跡のパン屋』と銘打たれたブログ記事が現れた。都心から少し離れた、古びた商店街の一角にある小さなパン屋『ル・コワン・トランキル(静かな片隅)』。そこで焼かれるパンが、美食家たちの間で絶賛されているという。しかし、記事には不可解な一文があった。

『この店のパンを焼くのは、決してメディアに顔を出さない〝影のパン職人〟。その正体は誰も知らない』

「顔出しNGの職人? フックとしては面白いな」翔太は気のない返事をした。どうせ、気難しいだけの頑固親父だろう。
「何かわくわくするだろ? 秘密、謎、カリスマ。数字の匂いがプンプンする。なんとしても、この職人の顔と過去を暴いてこい。独占スクープだ」

編集長の欲望に満ちた声に、翔太は鈍い頭痛を覚えた。またか。誰かの平穏を土足で踏み荒らし、切り刻んでコンテンツにする仕事。だが、断る選択肢はない。家賃を払うためには、獣は主の命じるままに獲物を狩るしかないのだ。

翌日、翔太が訪れた『ル・コワン・トランキル』は、想像以上に質素な店だった。木の扉を開けると、小麦の焼ける甘く香ばしい匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。それは、翔太が忘れていた、誠実で温かい労働の香りだった。ガラスケースには、艶やかな光を放つクロワッサンや、素朴だが力強い見た目のカンパーニュが並んでいる。

店に立っていたのは、快活な笑顔が印象的な若い女性だった。「いらっしゃいませ!」
「取材を……」と翔太が名刺を差し出すと、彼女は少しだけ表情を曇らせた。「すみません。うち、取材は全部お断りしてるんです。特に、先生のことは……」

先生、と彼女は呼んだ。それが〝影のパン職人〟のことらしい。
「少しお話だけでも。なぜ、顔を出されないんですか?」
「先生は、ただ静かにパンを焼きたいだけなんです。それが全てです」
彼女――名札には『美咲』とあった――の目は、ただひたすらに真摯だった。翔太は仕方なく、一番人気だというクリームパンを一つ買って店を出た。一口食べると、驚きに目を見張った。ありふれたパンのはずなのに、カスタードクリームは卵の味が濃く、どこまでも優しく、パン生地は赤子の肌のように柔らかい。こんなパンを焼く人間が、ただの頑固者であるはずがない。

翔太の心に、死んだはずの何かが、微かに疼いた。このパンの裏にある物語を知りたい。それは、編集長の命令とは少しだけ質の違う、純粋な好奇心だった。

***第二章 捏ねる音、焼ける香り***

それから一週間、翔太はパン屋に通い詰めた。客としてパンを買い、店先のベンチでそれを食べながら、店の様子を観察した。職人の姿は見えない。しかし、彼の存在は店の隅々にまで満ちていた。

開店前、まだ薄暗い早朝。店の裏手からは、リズミカルに生地を叩きつける音が聞こえてくる。タン、タン、という力強くも優しい音。それはまるで心臓の鼓動のようだった。やがて、オーブンに火が入ると、甘い香りが風に乗って商店街に流れ出し、眠っていた街を穏やかに目覚めさせていく。

翔太は、その音と香りに、不思議な安らぎを覚えていた。PV数やコメント欄の罵詈雑言とは無縁の世界。そこには、ただひたすらにパンと向き合う、静かで確かな営みがあった。

美咲は、そんな翔太の姿に根負けしたのか、少しずつ口を開くようになった。
「先生は、魔法使いみたいなんです。どんな生地も、先生の手にかかれば、まるで命が吹き込まれたみたいに生き生きしてくる」
彼女は、厨房の奥を愛おしそうに見つめながら言った。

ある雨の日、翔太が店を訪れると、珍しく客がいなかった。美咲に促され、翔太は初めて店のバックヤードに足を踏み入れた。そこには、白髪混じりの初老の男性が、黙々とバゲットの成形をしていた。彼が〝影のパン職人〟の佐伯だった。

「いつも、ありがとうございます」
佐伯は、翔太の顔を見ることもなく、低い声で言った。その手は休むことなく動き続ける。しわくちゃだが、力強い指。その指先から、真っ白な生地が美しい紡錘形へと姿を変えていく様は、一種の芸術のようだった。
「あなたのパンは、本当に美味しい。なぜ、もっと多くの人に知ってもらおうとしないんですか?」
翔太の問いに、佐伯の手がぴたりと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、翔太をまっすぐに見た。その目は、深く澄んでいながら、底なしの憂いを湛えていた。
「私には……その資格がないんです」
「資格?」
「昔のことは、そっとしておいていただけませんか。ただ、こうしてパンを焼いて、誰かがそれを食べて、少しでも幸せな気持ちになってくれる。私には、それだけで十分すぎるんです」

彼の言葉には、抗いがたい説得力があった。翔太は、これ以上踏み込むべきではないと感じた。この人の静寂を壊してはならない。だが、その夜、編集長からの電話が、翔太のささやかな決意を打ち砕いた。
「おい、高梨! いつまで遊んでるんだ! 何かネタはあったのか? なければ過去を洗え! 人間誰しも、隠したい過去の一つや二つあるもんだ。それが飯のタネになるんだよ!」
電話を切った後、翔太は虚空を見つめた。佐伯の憂いを帯びた目と、編集長の欲望にぎらつく目が、頭の中で交錯する。自分は、どちらを向けばいいのか。

***第三章 赦しのパン***

罪悪感を抱えながらも、翔太は調査を開始した。佐伯という姓と年齢を手掛かりに、過去のデータベースを検索する。そして、翔太は息を呑んだ。画面に表示された名前に、血の気が引いていく。

佐伯誠一。十五年前、世間を震撼させた大型金融詐欺事件の主犯。巧みな話術で高齢者から多額の金をだまし取り、多くの被害者の人生を破綻させた男。懲役十二年の判決を受け、三年前に満期出所していた。

あの穏やかなパン職人が、冷酷な詐欺師だった。
翔太は愕然とした。あの優しい味のクリームパンと、被害者の絶望が結びつかない。だが、写真は間違いなく、若き日の佐伯だった。

これは大スクープだ。
『凶悪詐欺師、人気パン職人として潜伏!』
見出しが頭に浮かぶ。この記事を書けば、低迷するキャリアを立て直せるかもしれない。古巣の新聞社を見返すこともできる。正義感と功名心が、黒い炎のように胸の中で燃え上がった。

翌日、翔太は開店前の店を訪れ、一人で仕込みをしていた佐伯に、印刷した事件記事を突きつけた。
「あなたは、佐伯誠一ですね」
佐伯は記事を一瞥すると、全てを悟ったように、深く、長い溜息をついた。その顔からは、血の気が失せていた。
「……やはり、いつかはこうなると思っていました」
彼は、震える声で語り始めた。犯した罪の重さ。刑務所での日々。償いきれないと知りながら、何か、人の役に立つことで残りの人生を生きたいと願ったこと。パン作りだけが、無心になれる唯一の術だったこと。
「私の焼いたパンを『美味しい』と言ってくれる人がいる。その一言が、私のような人間が生きていてもいいのだと、そう思わせてくれたんです。……もう、それも終わりですね」
彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、絶望の色をしていた。翔太の胸が、鋭く痛んだ。

その時、店の扉が開き、美咲が入ってきた。彼女は、テーブルの上の記事と、打ちひしがれる佐伯の姿を見て、全てを察した。
「高梨さん……」
翔太は、彼女に同情を求めるように言った。「彼は……彼は、あなたのような善良な人を騙していたんだ! 彼は許されない罪を犯したんだぞ!」

すると、美咲は静かに首を振った。そして、翔太の予想を根底から覆す、驚くべき事実を告げた。
「知っています。先生が、佐伯誠一だということは」
「……え?」
「私の父は、この事件の被害者でした。全財産を失い、絶望して……病気で亡くなりました。私はずっと、佐伯誠一を憎んでいました」
翔太は言葉を失った。では、なぜ。なぜ彼女は、仇であるはずの男のもとで働いているのか。
「出所した先生を偶然見かけた時、殺してやろうとさえ思いました。でも、できなかった。先生は、公園のベンチで、鳩にパン屑を分け与えながら、ただ静かに泣いていたんです。その姿を見て、気づいたんです。この人も、罪の重さに潰されそうになりながら生きているんだって」

美咲は、佐伯がパン屋を始めるのを、一番近くで支えてきたのだという。
「憎しみからは、何も生まれません。でも、先生の焼くパンは、たくさんの人を笑顔にする。父を亡くした私の心も、何度も救ってくれました。これが、私なりの〝赦し〟なんです」

赦し。
その言葉が、雷のように翔太の脳天を貫いた。正義とは、罪を暴き、断罪することだけなのか。人の再生に寄り添う道はないのか。スクープ、PV数、名声。そんなもののために、自分はこの二人の静かな世界を破壊しようとしていたのか。

翔太は、自分の手の中にある記事が、恐ろしく汚れたものに見えた。

***第四章 再生の香り***

翔太は記事を書いた。しかし、それは編集長が期待したセンセーショナルな暴露記事ではなかった。

タイトルは、『サイレント・ブレッド』。
彼は、佐伯が犯した罪を隠すことなく記した。そして、彼のパンに込められた贖罪の念、彼の再生を支える美咲という女性の存在、そして彼女が選んだ「赦し」という道のりについて、静かな筆致で綴った。記事の最後に、彼はこう問いかけた。

『我々は、一度罪を犯した人間が、静かにパンを焼くことさえ許さない社会に生きるべきなのだろうか』

この記事は、ウェブメディアの記事としては異例なほど、爆発的なPVを稼ぐことはなかった。しかし、読んだ人々の心に深く、静かに染み渡り、コメント欄には誹謗中傷ではなく、人の罪と赦しをめぐる真摯な議論が交わされた。

案の定、編集長は激怒した。「お前はジャーナリスト失格だ!」と。
「ええ、そうかもしれません」翔太は静かに答えた。「でも、僕は、人として失格にはなりたくなかった。これが、僕が書きたかった記事です」
その日、翔太は会社に辞表を提出した。

数ヶ月後。春の柔らかな日差しが降り注ぐ午後、翔太はあの商店街を歩いていた。彼は今、小さなNPO法人で、社会からの孤立に苦しむ人々を支援する活動をしながら、フリーのライターとして、彼らの小さな声を拾い上げる記事を書いている。

『ル・コワン・トランキル』の店先には、以前と変わらない穏やかな空気が流れていた。記事が出た直後は、好奇の目に晒されることもあったと聞く。だが、佐伯のパンの味と、美咲の笑顔が、やがて野次馬を退け、地元の常連客の輪をさらに強くした。

翔太は店には入らず、少し離れた場所から、ガラス窓の向こうを眺めた。黙々と生地を捏ねる佐伯。客に笑顔でパンを渡す美咲。その光景は、一枚の美しい絵画のようだった。
ふと、風が吹き、あの甘く香ばしい匂いが翔太の鼻先をかすめた。それは、罪と、贖罪と、そして赦しが溶け合った、再生の香りだった。

人の罪は、決して消えることはない。デジタルタトゥーのように、社会の記憶に刻まれ続ける。だが、それでも人は、もう一度立ち上がろうともがくことができる。その静かで尊い営みを、見守る誰かがいる。

翔太は、空を見上げた。どこまでも青く澄み渡った空。彼は、自分が進むべき道が、ようやく見えた気がした。そして、ゆっくりと、確かな足取りで歩き出した。その背中にはもう、飼い殺しの獣の卑屈な影はなかった。

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