クリーン・スウィーパー

クリーン・スウィーパー

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神崎の仕事は「掃除」だ。ただし、彼が掃き清めるのは物理的なゴミではない。インターネットという無限の空間にこびりついた、企業にとって不都合な「汚れ」──すなわち、スキャンダル、悪評、内部告発といったデジタルの染みだ。彼は業界最大手のリスクコンサルティング会社「株式会社クリーンアップ・ソリューションズ」のエースであり、裏では「クリーン・スウィーパー」と呼ばれていた。

「今回のターゲットはこれだ」

上司がタブレットに表示したのは、大手製薬会社「アトラス製薬」のロゴだった。彼らが鳴り物入りで発売した万能抗うつ剤「セレスティア」。その副作用を訴える声が、SNSや匿名掲示板で散見され始めているという。
「頭痛、吐き気、そして深刻な記憶障害。そんな書き込みがいくつか。まだ小さな火種だが、燃え広がる前に鎮火させたい、と」
「報酬は?」
神崎の問いに、上司は満足げに口角を上げた。
「君の年収に匹敵する額だ。アトラスは本気だよ」
神崎は無感情に頷いた。彼にとって依頼主の善悪などどうでもいい。提示された対価に見合う完璧な仕事を遂行する。それが彼のプロフェッショナリズムだった。

作業はいつものように鮮やかだった。神崎は複数のペルソナを操り、セレスティアを絶賛する偽の体験談を拡散。AIボットを使って肯定的な世論を形成し、告発の書き込みを検索結果の下位に沈めていく。告発者のアカウントを特定し、過去の投稿から思想的な偏りや私生活の問題を暴き出し、「信頼できない人物」というレッテルを貼って無力化する。デジタル空間の染みは、より大きな嘘で塗り潰され、見る見るうちに薄れていった。

作業開始から三日目の深夜。最後の告発者のアカウントを処理していた時、神崎の指が止まった。アカウント名は「@yuki_sister」。その女性は、セレスティアを服用して記憶障害を患い、自ら命を絶った妹への想いを綴っていた。そこには、加工されていない、生の悲痛と怒りがあった。
『妹の人生を返して。アトラス製薬は人殺しだ』
その一文が、神崎の築き上げたプロフェッショナリズムの壁に、小さなひびを入れた。彼は無意識のうちに、依頼の範疇を超えた調査を開始していた。

アトラス製薬の社内サーバーの脆弱性を突き、深く潜っていく。暗号化された治験データの海を泳ぎ、隠蔽されたフォルダの鍵をこじ開けた時、神崎は戦慄した。そこには、公式発表とは全く異なる、おぞましいデータが眠っていた。セレスティアは、被験者の三割に深刻な脳機能障害を引き起こすという、致命的な欠陥を抱えていたのだ。会社はそれを知りながら、莫大な利益のために隠蔽し、販売を続けている。
「……人殺し、か」
モニターに映る無数の被害者データと、「@yuki_sister」の悲痛な叫びが重なる。神崎の中で、何かが決定的に変わった。

翌日、アトラス製薬の顧問弁護士から警告の電話が入った。「余計な詮索は身を滅ぼす」。上司からも呼び出され、「君は掃除屋だ。ゴミの分別までするな」と釘を刺される。彼らは神崎の逸脱に気づいていた。システムが、彼という異物を排除しようと動き始めている。

神崎は自嘲気味に笑った。ずっと汚れを塗り潰す側だった自分が、今やシステムにとっての「汚れ」そのものになろうとしている。
彼は決断した。
「掃除の時間だ。ただし、今回はやり方が違う」
彼はこれまで培ってきた情報操作、ハッキング、世論誘導のスキルを、すべて逆の目的のために解放する。
アトラス製薬という巨大な「汚れ」を、決して消せない形で社会に焼き付けるための、史上最大の「炎上」を仕掛けるのだ。

神崎はまず、匿名で「@yuki_sister」をはじめとする被害者家族たちに接触し、協力を仰いだ。彼らが持つ、診断書や生々しい証言という「弾丸」を、最も効果的なタイミングで撃ち込むためだ。
次に、彼はアトラス製薬の株価操作システムの内部に潜り込み、時限式のプログラムを仕掛けた。不正の証拠が公表されるタイミングと同時に、株価を暴落させるためのデジタル爆弾だ。
そして、彼は自分の古巣である「クリーンアップ・ソリューションズ」の追跡を欺くため、世界中のプロキシサーバーを経由する迷路を作り上げた。かつての同僚たちが、今や最大の敵となった。

深夜、作戦は決行された。
神崎はまず、暴露系インフルエンサーに匿名でリークする形で、改竄前の治験データを投下した。瞬く間に情報は拡散する。
アトラス製薬とクリーンアップ社は即座に火消しに動いた。偽情報だという声明を出し、ボットで鎮静化を図る。
「甘いな」
神崎は、彼らの動きを読んでいた。火消しの声明が出た直後、被害者家族たちが一斉に、動画で実名と顔を晒して証言を始めた。「@yuki_sister」は、涙ながらに妹の遺影を抱きしめ、薬の恐ろしさを訴えた。生の感情が込められた告発は、企業の作った空虚な声明を打ち破る。
世論の風向きが変わった。
そこへ、神崎は最後の切り札を投じる。アトラス製薬の役員たちが、副作用を認識しながら販売継続を決定した会議の、録音データだ。
「多少の犠牲は、企業の成長に必要だ」
会長の冷酷な声がネットの海に響き渡った瞬間、社会の怒りは沸点に達した。神崎が仕掛けたプログラムが作動し、アトラス製薬の株価は垂直に落下していく。サーバーはダウンし、企業の公式ウェブサイトは、神崎が用意した「我々は人々の命を奪いました」という謝罪文に書き換えられていた。
ネット上の攻防は、神崎の完全勝利に終わった。

数日後、テレビのニュースはアトラス製薬経営陣の逮捕を大々的に報じていた。神崎は、安アパートの一室でその光景を静かに見ていた。会社を追われ、当局からも追われる身となった彼に、安住の地はない。しかし、彼の心は奇妙なほど晴れやかだった。
その時、暗号化された通信アプリに新しいメッセージが届いた。
『助けてください。自動車メーカーの欠陥隠しを告発したいんです』
神崎はノートパソコンを開き、黒い画面に指を走らせた。キーボードの打鍵音が、薄暗い部屋に響く。

「次の『掃除』の時間だ」

彼はもはや、汚れを隠す「スイーパー」ではない。社会の暗部に光を当て、真の汚れを掃き清める者へと生まれ変わったのだ。彼の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだった。

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