「またか」
コンビニの深夜シフトを終えた高橋は、スマートフォンの画面に映るニュースの見出しに悪態をついた。『国民生活指数、微増。景気は緩やかに回復』。誰の生活指数だ。自分の時給はもう五年も変わっていない。冷凍食品の夕食をレンジで温めながら、彼は無力感に苛まれていた。
高橋のような人間は「サイレント・マジョリティ」と呼ばれていた。政治に不満はあっても声は上げない。選挙には行かない。ただ黙々と働き、消費し、静かに貧しくなっていく層。彼らの声なき声は、常に為政者にとって都合の良い「支持」として換算された。
変化の兆しは、匿名掲示板の小さなスレッドから生まれた。『見えざる税金シミュレーター』。スレッドの主〝ノイズ〟と名乗る人物が、あるウェブサイトへのリンクを貼った。サイトは簡素な作りで、自分の年収や家族構成、日々の買い物のレシート情報を入力する欄があるだけだった。
高橋は半信半疑で、ここ一ヶ月のデータを打ち込んでみた。レシートの山を崩し、給与明細とにらめっこすること一時間。結果を見て、息を呑んだ。
画面には、彼が支払った消費税、酒税、ガソリン税などの間接税の合計額が円グラフで表示され、その税金が国家予算のどこに、どれだけ使われたかがアニメーションで示されていく。彼の払った数万円が、海外への巨額援助の一部になり、誰も使わない地方の巨大な橋の建設費に消え、政治家の会食費に充てられていく。衝撃的だったのは、社会保障や教育に回されたのが、ほんの数パーセントだったことだ。まるで、自分の汗と時間が目の前で収奪されていく過程を見せつけられているようだった。
『見えざる税金シミュレーター』は、口コミで爆発的に拡散した。主婦が、学生が、非正規雇用の若者が、次々と自分の「収奪」を可視化し、その結果をSNSに投稿し始めた。ハッシュタグ「#私の税金どこいった」はトレンドのトップに躍り出た。これまで無関心だった人々が、初めて自分たちの問題として政治を語り始めたのだ。
政府と与党はパニックに陥った。当初は「事実無根のデマ」と切り捨てようとしたが、シミュレーターは政府が公開しているデータのみを使用しているため、反論ができない。支持率は日を追うごとに急落していく。
「〝ノイズ〟を特定しろ!なんとしてもサイトを閉鎖させろ!」
官邸の危機管理室で、首相が怒鳴り声を上げていた。だが、サイトは海外の複数のサーバーに分散されており、〝ノイズ〟の正体もまったく掴めなかった。
一方、高橋は変わった。彼はもう、無力な傍観者ではなかった。彼は地域のコミュニティでシミュレーターの使い方を教え、仲間たちと勉強会を開いた。彼らは気づいたのだ。自分たちは無力な「個人」だが、集まれば無視できない「多数派」なのだと。
次の総選挙まで、あと一ヶ月。
選挙戦が始まると、街の風景は一変していた。与党候補者の演説会場には、大勢の市民がスマートフォンを掲げて集まっていた。候補者が「我々は国民の生活を第一に考えています!」と叫ぶと、聴衆は一斉にシミュレーターの画面を見せつける。そこには、国民から吸い上げられた税金が、いかに彼らの生活からかけ離れた場所で浪費されているかが映し出されていた。声援はない。ただ、冷たく光る無数の画面が、静かな、しかし何よりも雄弁な抗議の意志を示していた。候補者たちは、その無言の圧に言葉を失った。
投票日当日。投票率は過去最高を記録した。
開票速報がテレビ画面を彩る。これまで盤石だった与党の大物議員たちが、次々と無名の新人候補に敗れていく。地殻変動。アナウンサーが興奮した声で叫んだ。サイレント・マジョリティが、ついに沈黙を破った瞬間だった。
数日後、高橋のアパートに一通の封筒が届いた。差出人はない。中には一枚のUSBメモリだけが入っていた。PCに差し込むと、テキストファイルが一つ。
『第一段階、完了。これは革命ではない。正常化の始まりだ。次の蜂起に備えよ。 ――ノイズ』
高橋は画面を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。窓の外では、新しい時代が産声を上げようとしていた。彼は立ち上がり、部屋の隅に積んであったレシートの束を手に取った。次の戦いは、もう始まっている。
サイレント・マジョリティの蜂起
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