「信頼スコア、98.5。天野蓮様。本日も、あなた様の一日が輝かしいものでありますように」
手首のデバイスが発する合成音声に、天野蓮は軽く頷いた。カフェのゲートが静かに開き、芳醇なコーヒーの香りが彼を迎える。スコア90以上のエグゼクティブ専用フロア。窓の外には、鈍色の空の下に広がる区画都市がジオラマのように見えた。
この国では、統合AI「アストライア」が全国民の行動を24時間評価し、「信頼スコア」として数値化していた。スコアは就職、住居、金融、人間関係まで、人生の全てを決定づける絶対的な指標だ。検事である蓮は、この公正で透明なシステムの信奉者であり、最大の受益者だった。アストライアがもたらす秩序は完璧で、犯罪は激減し、社会は効率の極みに達していた。
その日、蓮が担当していたのは、政府高官が絡む大規模な汚職事件だった。核心に迫る決定的な証拠を手に入れた、その夜。事件は起きた。
『警告。天野蓮氏の不正アクセスを確認。機密情報の漏洩、及び証拠隠滅の形跡を検知。スコアを再計算します』
デバイスがけたたましい警告音を立てた。網膜に投影されたスコアが、滝のように流れ落ちていく。98.5、74.2、45.1、そして――12.3。
「な……なんだ、これは!誤作動だ!」
しかし、アストライアは間違えない。それがこの社会の絶対法則だ。翌朝、彼は職務を解かれ、住居を追われ、婚約者からは一方的な別れのメッセージが届いた。銀行口座は凍結され、昨日まで賞賛の目を向けていた人々は、汚物でも見るかのように彼を避けた。
全てを失った蓮が流れ着いたのは、スコア30以下の人間が吹き溜まる隔離区画「エリア・グレイ」だった。そこはアストライアの恩寵が届かない、法の外の土地。生ゴミの臭いと、人々の淀んだ瞳が蓮を刺す。完璧な世界の、完璧なシミ。
絶望に打ちひしがれていた蓮の前に、一人の女が現れた。「ゼロ」と名乗るその女は、ノイズの走る古いゴーグルで顔を隠していた。
「エリート検事さん、無様なもんだね。アストライアの正義とやらは、どうした?」
「……君は誰だ」
「あんたをハメた奴らに、一泡吹かせたいと思わないかい?」
ゼロは、アストライアの監視を逃れる地下組織のハッカーだった。彼女によれば、蓮が追っていた汚職の黒幕こそが、アストライアのシステムに干渉できる特権階級なのだという。
「奴らはAIを私物化し、都合の悪い人間を社会的に抹殺する。あんたみたいにね。奴らが作った見えない檻の中で、私たちは踊らされているだけさ」
ゼロは取引を持ちかけた。蓮の捜査能力と、彼女たちのハッキング技術。それで、黒幕の不正を暴くのだ。
「奴らの牙は、アストライアそのものだ。だが、心臓もまたそこにある」
蓮に選択肢はなかった。彼は、自分が信じてきた完璧なシステムの欺瞞を暴くため、法の外の人間と手を組んだ。
追跡は熾烈を極めた。街中の監視ドローン、顔認証システム、交通網、あらゆるインフラがアストライアの目となり、彼らを追い詰める。蓮は検事として培った知識で監視網の裏をかき、ゼロは神業のようなコーディングでデジタルな壁を突破していく。
ついに彼らは、黒幕――国家公安委員長の梶原が、アストライアの評価アルゴリズムに不正な「バックドア」を仕掛け、政敵やジャーナリストのスコアを不正に操作していた決定的な証拠を掴んだ。
「これをどうやって公表する? 全てのメディアはアストライアの検閲下だ」
「一つだけある。非常災害時用の全国一斉放送システム。物理的にサーバーを叩けば、アストライアも介入できない」ゼロが、中央放送タワーを指さした。「最後の花火を上げようぜ、検事さん」
梶原は彼らの動きを察知し、アストライアを通じて蓮たちを「国家転覆を目論むテロリスト」として全国に指名手配した。エリア・グレイに武装した治安ドローン部隊が突入する。銃弾と爆音が飛び交う中、蓮とゼロは仲間たちの援護を受け、放送タワーへと向かった。それは、スコアに支配された世界への、たった数人による反逆だった。
タワーの最上階、サーバー室。ゼロがキーボードを叩く指が火花を散らす。カウントダウンが始まった。その背後で、蓮は迫りくるドローン部隊に応戦する。
「天野蓮! お前のようなシステムの落伍者が、秩序を乱すことなど許さん!」モニター越しに梶原が叫ぶ。
「秩序だと? お前が歪めたそのシステムは、ただの独裁者の道具だ! 人間は、数字じゃない!」
蓮が最後のドローンを破壊した瞬間、ゼロが叫んだ。
「繋がった! 3、2、1……今!」
日本中のスクリーンが、ジャックされた。映し出されたのは、梶原の不正を証明する、揺るぎないデータだった。スコアが金で買われ、気に入らない人間が社会から消されていく様が、赤裸々に暴露されていく。
完璧なはずのシステムに刻まれた、醜い傷跡。人々は絶句し、自分の手首のデバイスを見つめた。絶対だったはずの数字が、色褪せて見えた。
梶原は失脚し、アストライアの「絶対性」という神話は崩壊した。社会は一時的な混乱に陥ったが、人々は初めて、AIに委ねていた己の価値基準を、その手で問い直す機会を得た。
蓮のスコアは回復したが、彼は検事の職には戻らなかった。彼はエリア・グレイに残った。スコアという名の烙印が消えた街で、人々が自らの足で立ち上がろうとする、その始まりを見届けるために。
「いいのかい? あんたなら、またエリートに戻れる」夕暮れの廃ビルで、ゼロが尋ねた。
「スコアのない世界も、悪くない」蓮は穏やかに笑った。「それに、まだやるべきことがある。本当の公正とは何かを、この目で見つけるまで」
蓮の視線の先で、人々が瓦礫を片付け、新しい街の土台を築き始めていた。彼の手首で、スコア表示の消えたデバイスが、ただ静かに時を刻んでいた。それは、誰にも評価されない、彼自身の時間だった。
スコアレス・レクイエム
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