虚構のプリズム

虚構のプリズム

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蛍光灯の白い光が、六畳一間の壁紙の染みを冷たく照らし出していた。倉田和也は、コンビニ弁当のプラスチック容器を膝に乗せ、スマートフォンの画面を無心でなぞっていた。画面の中では、シャンパンの泡がきらめき、磨き上げられた大理石の床が光を反射している。

「REN」と名乗るインフルエンサーのアカウント。それが、工場のライン作業とアパートの往復で摩耗する、倉田の唯一の慰めだった。都心のタワーマンションからの夜景。限定モデルの腕時計。まるで映画のワンシーンのような恋人とのディナー。スクロールする指先に、自分とは決して交わることのない世界の匂いがした。ため息が、食べ終えた弁当の空虚な匂いと混じり合う。羨望はいつしか黒い澱となり、心の底にじっとりと溜まっていた。なぜ、俺はここにいて、あいつはそこにいるんだ。その問いは、答えのないまま夜の静寂に溶けていく。

変化は、些細な違和感から始まった。RENが投稿した、ブランチを楽しむカフェの写真。その窓の外に映り込んでいた風景に、倉田は見覚えがあった。錆びついたシャッターが目立つ、寂れた商店街のアーケード。それは、倉田が住むアパートのすぐ近くだった。

なぜ、RENのような男が、こんな掃き溜めのような場所に?

その日から、倉田の日常は目的を得た。それは、RENの「嘘」を暴くという、暗い情熱に火をつけられた目的だった。彼は仕事以外の時間のすべてを、RENの過去の投稿の分析に費やした。何百枚もの写真を拡大し、背景を調べ、矛盾点を探す。高級レストランの写真に写り込む食器が、別の投稿では違う店のものとして登場している。海外旅行の写真も、よく見れば不自然な光の当たり方をしているものがあった。

パズルのピースが一つ、また一つとはまっていく。快感にも似た興奮が、倉田の乾いた心を潤していく。これは正義の鉄槌だ。人々を欺く偽りの偶像を、俺が引きずり下ろしてやる。執念の調査の末、倉田はついにRENの現実の姿に辿り着いた。そして、その事実に愕然とすることになる。

RENの正体は、蓮見という名字の、自分と同じ工場で働く派遣社員だった。いつも黙々と作業をこなし、誰ともほとんど口を利かない、影の薄い男。まさか、あの華やかな世界の主が、油と埃にまみれたこの場所にいたとは。

ある雨の夜、倉田は蓮見のアパートを突き止めた。自分の住処と寸分違わぬ、古びた木造アパート。ドアの隙間から漏れる光を目指し、彼は衝動的にドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。

「……誰だ」

部屋の奥から、か細い声が響く。そこにいたのは、SNSの中の洗練されたRENではなく、疲れ切った表情の蓮見だった。部屋の中は、倉田の想像通りだった。撮影用のリングライト、背景に使うためのタペストリー、安物の小物が雑然と置かれている。壁に貼られた夜景のポスターの前で、蓮見は俯いていた。

「どうして……どうしてこんな嘘を」

絞り出した倉田の声に、蓮見はゆっくりと顔を上げた。その目は、諦めと、それでも消えない切実な光を宿していた。

「嘘?」蓮見は力なく笑った。「これは嘘じゃない。俺の夢だ。俺がこうありたいと願う、本当の姿だ」
彼は続けた。
「毎日毎日、同じことの繰り返し。誰にも認められず、ただ機械の部品みたいに消費されていくだけ。……息が詰まるんだ。この灰色の現実から、一瞬でもいい、抜け出したかった。画面の向こうで『いいね』を押してくれる人たちがいる。その時だけ、俺はここにいていいんだって思えるんだ。……あんたには、わからないだろうな」

蓮見の言葉が、鋭い刃となって倉田の胸に突き刺さった。わからない?いや、痛いほどわかる。自分も同じだ。この息苦しさから逃れたくて、虚構の世界に救いを求めていた。ただ、自分は他人の作った虚構を消費する側で、彼は虚構を自ら作り出す側だった。その違いしかない。憎んでいたはずの偶像は、目の前で自分と同じ不安と孤独に震える、ただの人間になっていた。

翌日、工場の休憩室で、倉田は蓮見と視線が合った。蓮見は気まずそうに目を逸らそうとしたが、倉田は小さく頷いてみせた。言葉はなかった。だが、その一瞬の交錯に、昨日までとは違う何かが通い合った気がした。それは同情でも、軽蔑でもない。同じ現実を生きる者同士の、奇妙な連帯感のようなものだった。

アパートに帰り、倉田はスマートフォンを手に取った。そして、迷うことなくRENのアカウントを開き、「ブロック」のボタンを押した。きらびやかな虚構が、画面から消える。

窓を開けると、湿った夜風が吹き込んできた。見慣れたはずの、灰色の街並み。だが、それはもう、ただの絶望の色には見えなかった。この場所から、始めなければならない。嘘ではない、自分自身の足で。倉田は、冷たいアスファルトの匂いを、深く、深く吸い込んだ。

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