***第一章 デジタルな救済***
結城翔太は、神になった気分でいた。
彼の指先から生まれたスマートフォンアプリ『めぐみシェア』は、現代社会の歪みを鮮やかに解決する奇跡の杖だった。リリースから二年、ユーザー数は五十万人を突破。廃棄される運命にあったコンビニの弁当やベーカリーのパンが、アプリを通じて日々の食事にも事欠く人々の元へと届けられる。食品ロス削減と貧困支援。二つの社会課題を同時に解決するこのシステムは、メディアに「デジタル時代の新たな救済」とまで称賛された。翔太自身、その評価に酔っていた。モニターに映し出される無数の感謝のレビューと、右肩上がりに伸びるアクティブユーザー数。それらは彼にとって、自らの正しさを証明する心地よい交響曲だった。
彼はオフィスの窓から、ミニチュアのような東京の夜景を見下ろす。無数の光の点が、それぞれに人生を営んでいる。その中の何人が、今夜、自分のアプリのおかげで温かい食事にありつけたのだろう。その想像は、彼の胸を優越感で満たした。効率。合理性。データ。それが翔太の世界を構成する全てだった。感情や同情といったウェットな要素は、システムの最適化を妨げるノイズでしかない。
その日、事件はノイズのように彼の世界に侵入してきた。いつものように管理画面でユーザーデータの推移をチェックしていた時、ふと奇妙なパターンに気がついたのだ。特定の行政区、それも古い木造アパートが密集するエリアで、高齢者ユーザーの利用が、ある周期でぷつりと途絶えるケースが散見される。まるで申し合わせたかのように、彼らのアカウントは最後の利用を境に、二度とオンラインになることはなかった。
「サーバーの接続不良か? あるいは、競合アプリへの乗り換えか」
翔太は眉をひそめ、様々な可能性をシミュレートする。だが、どの仮説も、この奇妙な沈黙を説明するには弱すぎた。それはまるで、デジタルな地図の上にぽっかりと空いた、静かで、不気味なブラックホールだった。彼はまだ知らなかった。そのブラックホールの向こう側に、データでは決して掬い取ることのできない、人間の痛みと尊厳が横たわっていることを。
***第二章 アナログな足跡***
データの海をいくら泳いでも、答えは見つからなかった。翔太は苛立ちを覚えながら、ついに自ら「現場」へ向かうことを決意した。合理主義者の彼にとって、それは非効率の極みであり、一種の敗北宣言にも等しかった。
彼が最初に訪れたのは、最後に利用が確認されてから三週間が経過した「サトウ」というユーザーの住所だった。ナビが示したのは、ひび割れたコンクリートの壁と、錆びた鉄の階段が印象的な、陽光さえも拒むかのような古い木造アパートだった。ドアをノックしても、返事はない。郵便受けには、チラシが溢れかえっていた。
「……何か、ご用ですか」
背後からかけられた声に、翔太はびくりと振り返った。そこに立っていたのは、古びたワンピースを着た、穏やかだが芯の強そうな瞳を持つ女性だった。胸には「民生委員 鈴木美咲」と書かれた名札が下がっている。
翔太はアプリ開発者であることを名乗り、サトウさんの安否を気にかけていると説明した。美咲と名乗った女性は、静かな声で言った。
「佐藤さんは、一週間前に亡くなりました。誰にも看取られずに、この部屋で」
その言葉は、冷たい釘のように翔太の胸に打ち込まれた。美咲は、彼の動揺を見透かすように続けた。
「あなたのアプリ、知っていますよ。佐藤さんも、本当に助かると、嬉しそうに話していました。最後の頃は、それが唯一の食事だったようですから」
唯一の食事。その言葉の重みに、翔太は息を呑んだ。美咲は、彼をアパートの近くにある小さな公園へと誘った。古びたベンチに腰を下ろすと、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。この地区に住む高齢者たちのこと。誇りを高く持ち、人に迷惑をかけることを何よりも嫌う彼らが、いかに公的な支援を拒むか。そして、社会との最後の繋がりとして、翔太のアプリにどれほど頼っていたか。
「あなたは、数字の裏にある人の顔を見ようとしたことがありますか?」美咲は、ブランコを揺らす子供たちに目を向けながら、静かに問いかけた。「あなたのアプリは素晴らしい。でも、それはあくまでシステムです。人の心までは、救えない」
翔太は反発を覚えた。自分のシステムは、現に何十万人を救っているではないか。だが、彼の目の前には、システムから静かに消えていった一人の人間の「死」という、動かせない事実があった。美咲と共に、彼はさらに数人の「消えたユーザー」の痕跡を辿った。どの家も、持ち主がいた頃の気配を微かに残しながら、今はただ空虚な沈黙に満たされていた。埃をかぶった写真立て。読みかけで閉じられた文庫本。使い古された湯呑み。それらは全て、データには決して現れない、ささやかで、しかし尊い人生の断片だった。翔太の足元で、乾いた落ち葉がカサリと音を立てた。それはまるで、声なき人々の最後の囁きのように聞こえた。
***第三章 沈黙の境界線***
翔太は、自らが築き上げた完璧な世界の土台が、ガラガラと崩れ落ちる音を聞いていた。美咲と共に地域の支援センターを訪れ、過去のケースと照合していくうちに、彼は戦慄すべき事実に突き当たったのだ。
彼が発見した、高齢者ユーザーが「消える」周期。それは、年金の支給日と恐ろしいほどに符合していた。彼らは、二ヶ月に一度の年金支給日を頼りに、なんとか日々を食いつないでいた。だが、物価高や不意の出費で生活費が底をつくと、次の支給日まで生き延びることができない。その時、彼らは誰にも助けを求めず、静かに社会との繋がりを断つのだ。
翔太が誇っていた『めぐみシェア』は、彼らにとって最後の命綱であると同時に、残酷な境界線でもあった。アプリの利用には、最低限のスマートフォン操作と、時には数百円の配送手数料が必要になる。その僅かなハードルが越えられなくなった時、あるいは、それすらも「他人の情け」と感じてしまうほどの誇りが、彼らをアプリから遠ざけた。そして、その先にあるのは、緩やかで、誰にも気づかれない「死」だった。
「私のアプリが……彼らを追い詰めたのか?」
オフィスに戻った翔太は、モニターに映る無数のアクティブユーザーの光を見つめながら、自問した。この光の輪の外側で、一体何人の人々が、声も上げられずに消えていったのだろう。彼が救済と信じていたものは、実は冷酷な選別機ではなかったのか。効率と合理性を追求するあまり、こぼれ落ちる命に気づかないふりをしていただけではないのか。
罪悪感が、冷たい霧のように彼の全身を包み込む。彼がこれまで信じてきたもの全てが、意味を失っていく。壁一面に貼られたメディアの賞賛記事が、今は彼の無神経さを嘲笑う告発状のように見えた。彼は、自分の作ったシステムが持つ光と、その光が生み出す濃い影を、初めて直視したのだ。
その夜、翔太は一人、サトウさんのアパートがあった場所を訪れた。部屋の灯りはもう点くことはない。見上げると、都会の光害で霞んだ空に、かろうじて星が一つ、瞬いていた。それはまるで、消えていった命の最後の輝きのようだった。翔太は、頬を伝う冷たいものに気づいた。それは、彼がノイズとして切り捨ててきたはずの、生々しい感情の雫だった。
***第四章 人間のアルゴリズム***
絶望の淵で、翔太の脳裏に響いたのは、美咲の言葉だった。「システムだけでは、人の心までは救えない」。その言葉は今、彼にとっての唯一の道標となっていた。彼はただ打ちひしがれているわけにはいかなかった。消えていった命に報いる方法は一つしかない。行動することだ。
数日後、翔太は会社の役員全員を会議室に集めた。そして、これまでの経緯と、自らが目にした厳しい現実を、ありのままに語った。利益や効率を度外視した彼の提案に、役員たちは難色を示した。だが、彼の瞳に宿る、これまでとは全く違う強い光と、言葉に込められた魂の叫びに、誰もが沈黙するしかなかった。
翔太は、開発チームの仲間たちと共に、何日も徹夜で『めぐみシェア』の改修に取り組んだ。彼が実装しようとしていたのは、単なる機能追加ではなかった。それは、システムに「心」を埋め込む試みだった。
新しいシステムは『サイレント・フィード・アラート』と名付けられた。特定の条件下で利用が途絶えそうなユーザー――例えば、年金支給日前に利用頻度が極端に落ちる高齢者――をAIが検知し、自動的に地域の民生委員や支援団体に、個人情報を伏せた形でアラートを送信する。それは、介入ではなく、そっと寄り添うための「見守り」の仕組みだった。さらに、彼は自らスポンサー企業を駆け回り、配送手数料を完全に無料化するための協賛金を取り付けた。
ビジネスとしては、非合理の極みだった。しかし、翔太はもう、数字の増減に一喜一憂する自分ではなかった。
数週間後、新しいシステムが稼働を開始した。翔太は、固唾を飲んで管理画面を見つめていた。すると、一件のアラートが作動した。それは、都心から少し離れた地区に住む、一人の高齢者ユーザーだった。システムは、即座に管轄の民生委員へと情報を連携する。翔太は、祈るような気持ちで画面を睨んだ。
翌日、彼の元に、連携した民生委員から一本の電話が入った。
「結城さんですか。昨日、アラートをいただいたお宅に伺いました。もう少し遅かったら、危なかったかもしれません。本当に、ありがとうございました」
そしてその日の夕方。翔太のPCに、一通の通知が届いた。あのお年寄りから、食品のリクエストが入ったのだ。そして、そのリクエストには、短いメッセージが添えられていた。
「ありがとう」
たった五文字。しかし、その言葉は、翔太がこれまで手にしてきたどんな賞賛や利益よりも、温かく、そして重く、彼の心に染み渡った。
完璧なシステムなど、この世には存在しない。社会の歪みを、アプリ一つで完全に無くすことなどできはしない。だが、不完全だからこそ、人は手を差し伸べ合うことができる。システムが拾いきれない声に、人が耳を澄ませることができる。
翔太はオフィスの窓から、茜色に染まる空を見上げた。その空の色は、彼岸にいる名も知らぬ人々への鎮魂歌のようであり、同時に、これから始まる新しい一日への、ささやかな希望の光にも見えた。彼の戦いは、まだ始まったばかりだった。
サイレント・フィード
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