ゴースト・ライダーズ

ゴースト・ライダーズ

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アスファルトは冷たい硝子(ガラス)の板だった。師走の雨を吸い込み、煌(きら)めくネオンを歪(ゆが)めて映し出す。神崎隼人(かんざきはやと)は、その硝子の上を滑るように電動自転車を走らせていた。背負った黒い配達バッグには、大手フードデリバリー『Eats-Quick』のロゴが鈍く光っている。

『次の配達先まで、推奨ルートで8分です。急いでください』

ヘルメットに仕込んだイヤホンから、AIアシスタント『ゼウス』の合成音声が響く。感情のない、最適化だけを求める声。隼人は舌打ちし、ゼウスが示した大通りを無視して、細い裏路地へと自転車をねじ込んだ。こっちの方が1分早い。だが、ゼウスの評価は下がるだろう。AIは、従順な駒(コマ)を好むのだ。

かつてはITエンジニアだった。しかし、零細企業はあっけなく潰れ、気づけば隼人はこの街を徘徊する「ギグワーカー」の一人になっていた。社会の歯車ですらない。必要な時だけ呼び出され、使い潰される、都市の幽霊(ゴースト)。

変化のきっかけは、あまりに些細で、そして残酷な出来事だった。

「なんでだよ……。俺が何したってんだよ……!」

行きつけの安酒場で、ベテラン配達員の轟(とどろき)さんが突っ伏して泣いていた。50代の元トラック運転手。この仕事に誇りを持ち、誰よりも丁寧に荷物を運ぶ男だった。その彼が、アカウントを永久に停止されたのだ。いわゆる「垢(アカ)バン」だ。原因は、AIによる低評価の累積。客の理不尽なクレームが数件続いただけ。人間が見ればわかる誤解も、ゼウスは「データ」として冷徹に処理した。Eats-Quick日本支社に何度問い合わせても、返ってくるのは定型文のメールだけ。轟さんの生活は、アルゴリズムひとつで破壊された。

「あいつらにとって、俺たちは数字でしかないんだ」

誰かが諦めたように呟いた。そうだ。俺たちは名前のないゴーストだ。だが、本当にそれでいいのか。隼人の胸の奥で、消えかけていたエンジニアとしてのプライドと、人間としての怒りが、青い炎のように燃え上がった。

「戦いませんか、轟さんのために。俺たち自身のために」

隼人の言葉に、最初は誰もが懐疑的だった。巨大プラットフォーム企業に、一個人が何ができる。だが、隼人は諦めなかった。彼はシステムの脆弱性を知っていた。完璧に見えるゼウスにも、人間が作った以上、必ず穴がある。

SNSでの発信力がある元劇団員の玲奈が、隼人の「檄文」を配達員たちの裏コミュニティに拡散した。轟さんの悲劇と、隼人の緻密な計画は、同じように搾取されてきたゴーストたちの心を少しずつ動かしていく。抜け道を知り尽くした古参の配達員、法律に詳しい元司法浪人、そして、正体不明の伝説的ハッカー『K』も、隼人の計画に興味を示した。

「面白い。君のプランに乗ろう。ゼウスの心臓部に、最高のプレゼントを仕掛けてやろうじゃないか」

Kからの暗号化されたメッセージが届いた時、隼人は勝利を確信した。

決行は、クリスマスイブ。一年で最も注文が殺到する夜。
午後7時。Eats-Quick日本支社の巨大モニターに映し出された都心部のマップから、配達員を示す緑色の光点が、ひとつ、またひとつと消えていく。まるで示し合わせたかのように。

「どういうことだ! なぜ誰も配達を受けない!」

CEOの怒号がオフィスに響く。システムが、周辺の配達員に一斉に緊急ボーナスを提示する。だが、緑の光は戻らない。ゴーストたちは、その夜、一斉に姿を消したのだ。注文アプリには「配達員が見つかりません」のエラーが溢れ、SNSは悲鳴で埋め尽くされた。

その静かなストライキの裏で、隼人とKは本丸に迫っていた。
「今だ、隼人。ゲートは開いた」
隼人は、ネットカフェの薄暗いブースで、ノートパソコンに最後のコマンドを打ち込んだ。エンターキーを押す。世界は何も変わらない。ただ、Eats-Quickのサーバーの奥深くで、小さなプログラムが静かに起動しただけだ。

「爆弾は……起動しました」
隼人は、イヤホンの向こうのKに告げた。

翌朝、世界は変わっていた。
大手新聞の一面、テレビのトップニュース、ネットの話題。そのすべてを『Eats-Quick』が独占していた。だが、それはクリスマス商戦の成功を伝えるものではない。

隼人たちが仕掛けた「爆弾」は、サーバーを破壊するウイルスではなかった。それは、これまでEats-Quickが不正に搾取してきた配達員の報酬データ、AIによる不当な評価ログ、隠蔽(いんぺい)されてきた顧客とのトラブルの詳細、経営陣の脱法的な会話記録――そのすべてを暴露する、『真実の爆弾』だったのだ。データは、複数の大手メディアと告発サイトに同時に送信されていた。

世論は沸騰した。Eats-Quickの株価は暴落し、CEOは辞任に追い込まれた。そして、小さな奇跡が起きた。轟さんのスマートフォンが震え、Eats-Quickからの通知が表示された。

『アカウントが復旧しました。未払い分の報酬、18万4500円を振り込みました』

それは、彼が本来受け取るべきだった、正当な報酬の額だった。

数日後。何事もなかったかのように、隼人は再び黒いバッグを背負い、東京の街を走っていた。彼をヒーローと呼ぶ者はいない。誰も、あのサイバーテロの首謀者が、今この瞬間、隣を走るごく普通の配達員だとは知らない。

冷たい風が頬を撫でる。イヤホンからは、新しいAIの声が聞こえる。『次の配達先まで、安全運転でお願いします』。ゼウスではない、どこか温かみのある声。プラットフォームは変わった。社会は少しだけ、動いたのだ。

信号待ちで、隣に同じバッグを背負った玲奈が並んだ。彼女はヘルメットのシールドを上げ、悪戯っぽく笑いかける。
「今日も稼ぎますか、ゴースト・ライダー」
「ああ」と隼人は短く応え、笑みを返した。

青信号が灯る。二台の自転車が、名前のない幽霊のように、しかし確かな意志を持って、光の海へと溶けていった。彼らはもう、ただのゴーストではない。アスファルトの上で世界を書き換えた、誇り高きライダーズなのだ。

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