北辰の羅針盤と、終わらない夏休み

北辰の羅針盤と、終わらない夏休み

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「なあ、これ、見てくれよ」

高山陸(たかやま りく)が旧校舎の図書室で差し出したのは、古びた卒業アルバムに挟まっていた一枚の羊皮紙だった。埃とカビの匂いが混じった空気の中、幼なじみの水野楓(みずの かえで)と佐伯健太(さえき けんた)が顔を寄せる。

そこにはインクで描かれた、僕らの海星(かいせい)高校の旧校舎らしき地図と、震えるような文字が記されていた。

『北辰の羅針盤を探せ。七つの星が道を示す』

「北辰の羅針盤……あの学校の伝説の?」

健太が目を輝かせる。創立百年を超えるこの高校には、創設者が隠したというお宝伝説があった。見つけた者は、未来永劫の幸運を手にする、という陳腐な言い伝えだ。

「ただの噂だって。でも、この地図は面白そうね」

科学部エースの楓は、スマホのライトで地図を照らしながら冷静に分析する。取り壊しが決まった旧校舎の最後の写真を撮りに来ただけだったのに、僕らの夏休みは、この瞬間、全く違う色に輝き始めた。

「最初の星は、きっとあそこだ」

僕が指さしたのは、地図に描かれたドーム状の建物。旧校舎の屋上に錆びついている、天体観測ドームだ。

固く閉ざされた扉を、運動部で鍛えた健太がこじ開ける。軋む蝶番の悲鳴が、冒険の始まりを告げるファンファーレのようだった。ドームの中央には、巨大な天体望遠鏡が鎮座していた。レンズを覗き込むと、ガラスに小さな文字が彫られていることに気づく。

『二番目の星は、時の流れを見つめる場所』

「時の流れ……」楓が呟き、はっと顔を上げた。「大時計よ!」

旧校舎のシンボルである大時計は、もう何十年も前に止まっていた。僕らは時計塔の裏にある機械室に忍び込む。しかし、中は錆びた歯車が絡み合っているだけで、手がかりはない。

「だめか……」僕が諦めかけたその時、楓がリュックから手のひらサイズのドローンを取り出した。

「こういう時のための、私特製『トンボ一号』よ!」

プロペラの軽快な音とともに、ドローンが窓から飛び立ち、時計の文字盤へと急上昇していく。楓が手元のモニターを覗き込み、やがて歓声を上げた。

「あった! 長針と短針が指す数字のところに、傷がついてる! 4と8!」

「図書室の分類番号だ!」

僕らは図書室へ駆け戻り、四番の棚の八列目を探す。そこにあったのは、『星の王子さま』だった。ページをめくると、ある一文にだけ、鉛筆で薄く下線が引かれていた。

『大切なものは、目に見えない』

それからの僕らは、まるで何かに導かれるように、旧校舎中を駆け巡った。音楽室のピアノの特定の鍵盤に隠された次のヒント、理科室の人体模型が抱えていた暗号のメモ、体育館倉庫の床に描かれた星座の図。一つ謎を解くたびに、僕らの心臓は高鳴り、夏の日差しよりも熱く燃え上がった。

陸が古い伝承からヒントを読み解き、楓が科学の知識とガジェットで道を切り拓き、健太が持ち前の行動力で物理的な障害を突破する。一人では決して見つけられなかった答えに、三人だからこそ辿り着ける。その事実が、たまらなく誇らしかった。

そして、六つの星を巡った僕らが手にした最後のメッセージは、こうだった。

『始まりの場所に戻れ』

「始まりの場所……」

三人の視線が、自然と交わった。僕らが最初に地図を見つけた、この旧校舎の図書室だ。

全てのヒントをテーブルに並べる。望遠鏡の言葉、時計の数字、本の文章……。バラバラだったピースが、僕の頭の中で一つの形を結んでいく。

「わかった! ヒントは全部、この図書室のある一点を示してるんだ!」

僕が指さしたのは、創設者の肖像画が掲げられた壁に埋め込まれた、一冊だけ装丁の違う本だった。誰にも読まれることなく、飾りとしてそこにあった本だ。健太が椅子を持ってきて、僕がその本に手を伸ばす。

本を引き抜くと、ずしりとした重みがあった。表紙を開くと、中身はくり抜かれ、そこに掌サイズの真鍮製の羅針盤が嵌め込まれていた。ガラスの中の針が、ゆっくりと北を指して静止する。これだ。これが「北辰の羅針盤」だ。

「やった……!」

三人の声が重なる。金銀財宝が出てきたわけじゃない。でも、僕らの胸は、どんな宝物よりも眩しい達成感で満たされていた。羅針盤を裏返すと、そこには小さな文字が刻まれていた。

『友と共に道を拓け。君たちの未来こそが宝物だ』

創設者が僕らに伝えたかったのは、幸運のありかではなく、幸運を掴むための方法だったのかもしれない。

夏休みが終わり、けたたましい重機の音とともに、旧校舎は姿を消した。僕らの冒険の舞台は、もうない。けれど、僕の胸ポケットには、あの羅針盤が静かに熱を帯びている。

楓は新しいドローンの設計図を描き、健太は次の大会に向けて走り出す。そして僕は、この忘れられない夏を一枚の写真に閉じ込めるために、ファインダーを覗く。

羅針盤の針が指し示す未来は、まだ誰にもわからない。でも、確かなことが一つだけある。隣にこいつらがいる限り、僕らの冒険は、決して終わらない。そう思うと、どうしようもなく胸がワクワクするのだ。

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