夏色リプレイ

夏色リプレイ

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退屈だった。窓の外で鳴き続ける蝉の声も、茹だるようなアスファルトの匂いも、何もかもが色褪せたフィルムのように見えていた。高校二年の夏休み、俺、夏坂蓮(なつさか れん)は、首から下げた一眼レフの重みだけを現実として感じていた。

写真部に所属しているとはいえ、撮るのはいつもと同じ風景。誰もいない踏切、錆びついた公園の遊具、雲ひとつない青空。綺麗だが、空っぽだ。俺の毎日みたいに。

その日も、俺は廃線になった線路跡を歩いていた。打ち捨てられた枕木が、夏の草いきれの中に沈んでいる。完璧な構図を探してファインダーを覗き込んだ、その時だった。

「……きれい」

凛とした声に、心臓が跳ねた。視線を上げると、少し先に制服姿の少女が立っていた。透き通るような白い肌に、黒曜石のような瞳。うちの高校の制服だが、見たことのない顔だった。彼女の手には、俺の最新デジタル一眼とは対照的な、古めかしいフィルムカメラが握られていた。

「水月凪(みづき なぎ)。今日、転校してきたの」

彼女は短く自己紹介した。夏休み期間だけの、短期の転校生らしい。凪はカメラを構えると、何もない空間にレンズを向けた。そして、うっとりと目を細める。

「何撮ってるんだ?」
「音よ」と凪は言った。「昔、ここを走っていた汽車の音。乗客たちの笑い声。今もちゃんと、ここに残ってる」

意味が分からなかった。だが、凪の瞳があまりに真剣だったので、俺は黙ってしまった。それが、俺の退屈な夏を塗り替える、不思議な出会いだった。

翌日、俺は再び凪に会った。彼女の能力――というより、彼女の持つ古いカメラの能力――を知ったのは、その時だ。

「これは『記憶』を写すカメラなの」

凪は言った。彼女のカメラのファインダーを通して見ると、その場所やモノに残された過去の光景が、陽炎のように浮かび上がって見えるのだという。サイコメトリーの一種なのだろうか。にわかには信じがたい話だったが、凪は取り壊しが決まった古い映画館のロビーで、ファインダーを覗きながら囁いた。

「赤いワンピースの女の人が、誰かを待ってる。少しそわそわしてる。……あ、来た。男の人が走ってくる。ごめんって謝ってる」

凪が語る光景は、まるで映画のワンシーンのようだった。俺は、凪が見る「過去」を想像しながら、誰もいないロビーの「現在」を写真に撮った。凪の言葉を聞きながらシャッターを切ると、ただの廃墟だった空間が、急に物語を帯びて輝き出す。

俺たちは「街の記憶探偵」になった。凪が古い記憶を読み解き、俺が現在の姿を記録する。学校の音楽室では、誰も知らない名曲を月明かりの下で弾いていた先輩の姿を。港の倉庫街では、船乗りたちが交わした別れの挨拶を。俺たちは街に眠る無数の物語を掘り起こしていった。ファインダー越しの世界は、日増しに彩度を上げていく。凪の隣にいるだけで、世界はこんなにも面白いのだと知った。

「どうして、この街に?」

ある日、俺は一番聞きたかった質問を口にした。凪は少しだけ遠い目をして、答えた。

「探してるの。祖父が最後に撮ったはずの、一枚の写真を」

凪の祖父もまた、同じ能力を持つ写真家だったらしい。数十年前にこの街で忽然と姿を消したのだという。唯一の手がかりは、祖父が遺した日記に残された「空に一番近い桜の下で、最高の宝物を撮った」という謎の言葉だけ。

俺たちは、その場所を探し始めた。古い地図を広げ、図書館で郷土資料を読み漁る。まるで本物の探偵になったような高揚感が、俺の胸を満たしていた。

そして、夏休みが終わる数日前。俺たちはついにその場所を見つけ出した。街を一望できる丘の上に立つ、一本の巨大な山桜の木。市の天然記念物にもなっている、街のシンボルだ。

息を切らして丘を登ると、凪は震える手でカメラを構えた。
「……見える。おじいちゃんがいる。桜の木の下に、何かを埋めてる……」

凪が指さした場所を、俺たちは夢中で掘った。やがて、硬い感触が指先に伝わる。出てきたのは、錆びついたブリキの缶。中には、一本のフィルムと、黄色く変色した手紙が入っていた。

凪が手紙を読み上げる。それは、若き日の祖母に宛てたものだった。

『愛する君へ。もし君がこれを見つけたなら、僕はもうここにはいないだろう。僕は、このカメラが持つもう一つの力に気づいてしまった。過去じゃない、未来を見る力に。僕は、まだ誰も見たことのない未来を撮るために、旅に出る。悲しまないでくれ。君と過ごしたこの街の記憶こそが、僕にとっての最高の宝物であり、道標だ』

凪の祖父は、未来へ旅立ったのだ。失踪ではなく、新たな冒険へ。凪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみではなく、長年の謎が解けた安堵の涙に見えた。

夏休みの最終日。凪が街を去る日だ。駅のホームで、俺は一枚の写真を彼女に差し出した。

「お守り」

それは、丘の上の桜の木の下で、安堵の表情で微笑む凪の写真だった。

「これは過去の記憶じゃない。俺と、君の記憶だ」

凪は驚いたように目を見開いた後、花が綻ぶように笑った。
「うん。……最高の宝物にするね」

新学期が始まり、俺の日常が戻ってきた。でも、世界はもう退屈な灰色じゃなかった。誰もいない教室も、夕暮れのグラウンドも、その全てに無数の物語が眠っていることを、俺は知っている。

写真部の部室で、俺は現像したばかりの一枚の写真を眺める。夏の日差しの中、こちらを見てはにかむ少女の姿。

シャッターを切る。ファインダーを覗く。俺の夏は終わったけれど、俺の物語は、まだ始まったばかりだ。

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