「なあ、高嶺君。旧校舎の噂、知ってる?」
放課後の気だるい空気の中、夏川陽菜は目をキラキラさせながら俺の机に身を乗り出してきた。風に揺れるポニーテールが、窓から差し込む西陽を弾いている。
「またその話か。どうせ『出る』ってやつだろ」
「ちっがーう! もっとロマンチックなやつ!」
来週から取り壊しが始まる旧校舎。そこに、かつて存在したという『幻の映写部』が隠した『宝のフィルム』があるらしい。なんでも、それを見つけて上映すれば、どんな願いも一つだけ叶う、と。
「くだらない。都市伝説だろ」
俺、高嶺翔は、そういう非科学的なものが大嫌いだった。退屈な日常は、退屈なまま静かに過ぎていくのが一番いい。
「でも、もし本当だったら? 高嶺君には叶えたい願い、ないの?」
「別に」
「じゃあ、私のに付き合ってよ! 面白そうじゃん!」
強引に腕を引かれ、俺たちは立ち入り禁止のテープをくぐって、埃っぽい旧校舎へと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を撫でる。床の軋む音だけがやけに大きく響いた。
「手がかりは、初代部長が残したっていうメモだけ。『始まりは、学び舎の心臓にて、時の声を聴け』だって」
陽菜がスマホの画面を見せる。オカルト好きの友人から送られてきた画像らしい。
「学び舎の心臓…校長室とか?」
「いや、違う」俺は無意識に口を開いていた。「旧校舎の時計は、昔、放送室から制御してたって親父に聞いたことがある。時の声ってのは、時報のことじゃないか?」
面倒だと思っていたはずなのに、頭が勝手にパズルを解き始めていた。
放送室の古びた棚から、錆びたブリキ缶を見つけ出した。中には一枚の紙切れ。
『星は北を示し、賢者は東から来た。だが我らの道は、最も低い場所より始まる』
「なぞなぞみたい!」
陽菜は楽しそうだ。だが、廊下の向こうから別の生徒たちの話し声が聞こえてきた。どうやら宝の噂を聞きつけた連中は、俺たちだけじゃないらしい。学年トップの優等生グループに、いかにもなオカルト研究会。一気に宝探しが、競争の様相を呈してきた。
「急ごう、夏川!」
「うん!」
『最も低い場所』は、湿っぽい地下のボイラー室だった。蜘蛛の巣を払いながら進むと、壁にチョークで書かれた文字があった。
『光なき舞台で、千の物語が生まれた場所へ』
「光なき舞台…」陽菜が首を捻る。
「体育館のステージ裏だ」俺は即答していた。「昔はそこで映写会をやってたらしい」
息を切らして体育館へ走る。ステージ裏の物置は、カビと汗の匂いが混じり合っていた。優等生グループがちょうど物置から出てくるところで、悔しそうな顔で俺たちを睨みつけて去っていった。どうやら彼らは何も見つけられなかったらしい。
「やった! 私たちの方が早い!」
陽菜がガッツポーズをする。その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。
物置の奥、積み上げられた跳び箱の最も下の段。そこに、古びた8ミリフィルムの缶がひっそりと置かれていた。缶には、震えるような字で『青瞬』とだけ書かれている。
「これだ…! でも、映写機は?」
「心当たりがある」
俺たちは最後の場所、理科準備室へと向かった。そこには、今は誰も使わない機材が眠っているはずだ。果たして、棚の奥で埃を被った8ミリ映写機が見つかった。
暗幕を引いた理科準備室。カタカタ、と乾いた音を立てて映写機が回り始める。壁に、光の粒子が映し出された。
願い事は何にしよう。くだらないと思っていたはずなのに、心臓が早鐘を打っていた。
だが、フィルムに映し出されたのは、神秘的な映像ではなかった。
そこにいたのは、制服を着た見知らぬ高校生たちだった。ぎこちなくカメラに向かって笑い、はしゃぎ、時には喧嘩している。文化祭の準備、夏の日の屋上、夕暮れの帰り道。そして、映像の最後に、一人の男子生徒が照れくさそうにカメラに向かって語りかけた。
『これを未来で見る君へ。僕たちの時代には、願いが叶う魔法なんてなかった。でも、このどうしようもなく眩しくて、バカみたいに全力だった毎日が、僕たちの宝物だ。君の青春も、いつか誰かの宝物になるような、最高の時間でありますように』
フィルムはそこで途切れた。エンドロールのように、若き日の校長先生の名前が映し出される。初代部長だったのだろう。
静寂が落ちる。願いは、叶わなかった。でも、なぜだろう。胸の中は、得体のしれない温かいもので満たされていた。
「そっか…宝物って、そういうことだったんだ」
陽菜がぽつりと呟いた。その横顔は、夕陽よりも綺麗に見えた。
旧校舎の解体作業が始まった日、俺と陽菜は少し離れた丘の上からそれを見ていた。轟音と共に、俺たちの小さな冒険の舞台が姿を消していく。
「なあ、夏川」
「ん?」
「俺たちの青春も、案外、悪くないかもな」
そう言うと、彼女は「でしょ?」と笑った。
手元に宝のフィルムはない。でも、あの埃っぽい旧校舎で過ごした数時間は、間違いなく俺たちの『青瞬』であり、輝く宝物になった。退屈だったはずの世界が、今は少しだけ違って見えていた。
青瞬フィルムの在り処
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