男の名は雨宮透。三十年にわたる人生で、彼が「ツイてる」と感じた瞬間は一度たりともない。道を歩けば鳥にフンを落とされ、買ったばかりの傘は突風にひっくり返され、両面テープは必ず粘着面が指にくっつく。そんな彼が、今日ばかりはと一縷の望みをかけて、オープンしたばかりの超高層タワー「スカイプリズム東京」に来ていた。目的はただ一つ、本日限定発売の「幸運を呼ぶゴールデンにゃんこキーホルダー」を手に入れるためだ。
「申し訳ございませんお客様、ただいま整理券の配布が終了いたしました」
無表情なスタッフの言葉が、雨宮の淡い期待を粉々に砕いた。開始時刻の二時間前に着いたというのに、だ。まあ、いつものことか。雨宮は深いため息をつき、とぼとぼと帰りのエレベーターホールへ向かった。
その頃、タワー最上階では、世界征服を目論む秘密結社「クロノス・ファング」が、最終計画の準備を完了させていた。
「フハハハハ!見ろ、同志たちよ!この『絶対時間停止装置《クロノ・ゼロ》』が作動すれば、全世界の時間は停止する!我々だけが、時が止まった世界で優雅に紅茶を嗜むのだ!」
総統ドクター・カオスが高らかに笑う。完璧な計画、寸分の狂いもないシミュレーション。成功は約束されていた。
「さて、帰るか…」雨宮がエレベーターのボタンを押そうとした、その時。
【点検中】
無慈悲な赤いランプが灯った。
「嘘だろ…」
仕方なく非常階段の重い扉を押す。薄暗く、ひんやりとしたコンクリートの空間に、彼の革靴の音だけが虚しく響いた。その時だった。ポケットに突っ込んでいた小銭入れが何かに引っかかり、中身が派手にぶちまけられた。
「ああもう!」
チャリン、コロン、カランカラン!百円玉や十円玉が、まるで意思を持ったかのように階段を転がり落ちていく。
「総統!第3セクターに異常発生!正体不明の物体が赤外線セキュリティを突破!」
「なにぃ!?もうヒーローどもが嗅ぎつけたとでもいうのか!?」
モニターに映し出されたのは、猛スピードで転がる数枚の硬貨だった。工作員の一人がそれを避けようとして派手に転び、近くにあった制御盤に頭をぶつけた。火花が散り、フロアの一部が停電する。
「落ち着け!計画に支障はない!」ドクター・カオスが叫ぶ。
一方、小銭を追いかけて数階分駆け下りた雨宮は、喉の渇きを覚えて自販機で買ったジュースを飲んでいた。暗くなったフロアに不安を覚え、足早に先を急ごうとした瞬間、彼は何もないところで盛大につまずいた。
「うわっ!」
手からすっぽ抜けたジュースの缶は、美しい放物線を描いて宙を舞い、換気口の中に吸い込まれていった。
「……まあ、いつものことか」
彼は服についたホコリを払い、再び歩き始めた。
その数秒後、ドクター・カオスの司令室にけたたましい警告音が鳴り響いた。
「総統!大変です!《クロノ・ゼロ》のメインシステムが!冷却液と誤認したオレンジジュースの流入により、ショートしました!」
「オレンジジュースだと!?馬鹿な!この完璧な要塞に、どうやってジュースが入り込むというのだ!」
モニターには、基盤の上をオレンジ色の液体が楽しそうに流れていく映像が映し出されていた。
「予備電源に切り替えろ!まだだ、まだ終わらんよ!」
雨宮は、ようやく地上への出口が見えそうな階までたどり着いていた。相変わらず薄暗い。彼は壁に手をつきながら慎重に進んでいたが、不意に足元で太いケーブルのようなものに足を取られた。
「おっとっと…」
全体重がかかり、ブチッ!という鈍い音と共に、ケーブルはあっけなく断線した。その瞬間、タワー全体の非常灯までもがフッと消え、完全な闇が訪れた。
「総、統……非常用バックアップ電源ケーブルが、物理的に、切断されました……」
部下の絶望的な声が、闇に響く。
「……なぜだ。なぜ我々の行動が、こうも的確に読まれるのだ……。まさか、未来予知能力者か!?いや、時間を操る能力者か!?我々と同じ能力を持つ、正義の使者がいたというのか!」
ドクター・カオスはワナワナと震え、最後の切り札を取り出した。
「だが!私にはこの手動起爆スイッチがある!ええい、ままよ!」
彼が赤いボタンに指をかけようとした、その刹那。
ピシャーーーン!ゴロゴロゴロ!
空気を引き裂くような雷鳴が轟いた。雨宮は雷を呼ぶ男でもあったのだ。凄まじい振動で、司令室の天井パネルが一枚、ドクター・カオスの頭上めがけて落下した。
ゴツン!という小気味よい音を立てて、稀代の天才悪党は白目を剥いて床に崩れ落ちた。その手には、押されることのなかったスイッチが、虚しく握られていた。
数分後、電力は復旧した。
「はぁ……とんだ一日だった。キーホルダーは買えないし、停電はするし、階段で足はガクガクだし。やっぱり俺には幸運なんて訪れないんだな」
雨宮は、ようやく動き出したエレベ-ターに乗り込み、ぐったりと壁に寄りかかった。
彼の背後で、気絶したドクター・カオスが「おのれ、謎のヒーロー…その名は…アンラッキー……マン…」とうわ言のようにつぶやいていたことなど、知る由もなかった。
後日、テレビでは「謎のヒーローの活躍でテロリスト集団が壊滅!」というニュースが大々的に報じられたが、雨宮透は「へえ、物騒な世の中だなあ」と他人事のようにつぶやきながら、テレビのリモコンを落として電池をぶちまけていた。
アンラッキー・ヒーローと完璧すぎた計画
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