***第一章 珍客は半透明***
佐伯健太、二十六歳。人生は、味のしないガムを延々と噛み続けているようなものだと思っていた。フリーのグラフィックデザイナーという聞こえの良い肩書きは、実質、大手デザイン会社の下請けの下請け作業をこなすだけの空虚な響きを持っていた。六畳一間のワンルーム。コンビニ弁当のプラスチックの匂い。モニターの無機質な光。それが俺の世界のすべてだった。
その日も、俺は三日連続で同じ鮭弁当をデスクにかき込んでいた。鮭の塩気だけが、唯一舌に感じられる現実の味だった。その時だ。
「かーっ、渋いねぇ、兄ちゃん。そんな塩っぱいもんばかり食ってっと、血圧上がるぜ」
声変わりしたてのカラスが喉に詰まったような、ひどいしゃがれ声だった。振り向いても誰もいない。空耳か。疲れが溜まっている。そう結論づけて、再び箸を動かそうとした瞬間、俺の目の前、液晶モニターをすり抜けるようにして、半透明のオッサンがぬるりと姿を現した。
ヨレヨレのジャンパーに、色褪せたチノパン。脇には、なぜか競馬新聞が挟まっている。頭は薄く、無精髭がうっすらと肌を覆っていた。全体的に昭和の匂いがするその男は、俺の鮭弁当を覗き込み、満足げに頷いた。
「驚いたか? 無理もない。俺、今日からお前の守護霊になったスズキだ。よろしくな!」
ニカッと笑った歯は、一本欠けていた。
守護霊。シュゴレイ? 脳がその単語の処理を拒否した。俺はゆっくりと立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を取り出して一気に煽る。夢だ。これは疲労が見せる悪夢に違いない。
「おいおい、無視はねえだろ。こう見えても、俺ぁ天界じゃ結構なエリートでな。お前みたいに、人生のどん底で淀んでる奴を救済しに来てやったんだぜ」
スズキと名乗る半透明は、俺のベッドにどっかりと腰を下ろした。ギシ、とマットレスが軋む。触れるのかよ。
「…なんで競馬新聞?」
我ながら、最初に口から出たのがそれか、と呆れた。
「おう、これか? これは俺の魂(ソウル)よ。生前はこれ一枚で泣いたり笑ったりしたもんさ」
スズキは得意げに新聞を広げた。もちろん、俺にはただの半透明の紙にしか見えない。
これが、俺とポンコツ守護霊・スズキとの、奇妙で迷惑千万な共同生活の幕開けだった。スズキの「守護」は、ことごとく裏目に出た。大事なコンペの朝、俺を起こすために耳元で大音量の演歌を熱唱し、アパート中に響き渡らせて大家さんから大目玉を食らった。気になる取引先の女性との会話を盛り上げようと、「ここは男らしく壁ドンだ!」と囁き、実行した俺がセクハラで訴えられかけたこともあった。
俺の人生は、味のしないガムから、罰ゲームで食わされる激辛ガムに変わった。だが、不思議なことに、その刺激的な辛さは、死んだように生きていた俺の舌を、少しずつ痺れさせていくのだった。
***第二章 奇妙な同居生活***
スズキが住み着いて一ヶ月が過ぎた。俺はもう、彼の存在を諦念と共に受け入れていた。半透明のオッサンが部屋の中をうろつき、テレビのクイズ番組に「答えは坂本龍馬だ!」と本気で叫び、外れた悔しさに俺のポテトチップスを勝手に(念力で袋を揺らして)食べる。そんな非日常が、すっかり日常の風景に溶け込んでいた。
「ケン坊、このデザインはダメだ。色が地味すぎる。もっとこう、情熱の赤とか、希望の黄色とか、そういうのをだな…」
「うるさいな。クライアントの要望は『落ち着いたトーンで』なんだよ」
モニターを覗き込むスズキの頭を、俺は(すり抜けるのを承知で)手で払いのけた。スズキは「若者はこれだから…」とブツブツ言いながら、定位置のベッドの隅に寝転がって競馬新聞を眺め始めた。
最初は鬱陶しいだけだったスズキの口出しが、時々、奇跡的な化学反応を起こすことがあった。例の「情熱の赤」を、ほんのワンポイント、遊び心で入れてみたデザイン案が、「斬新で力強い」とクライアントに絶賛されたのだ。もちろん、スズキには内緒だったが。
一人で食べていたコンビニ弁当は、いつの間にか二人で食べるのが当たり前になっていた。俺が弁当を、スズキはカップの安酒を。彼は「匂いだけで酔える。エコだろ?」と笑った。その安酒の、ツンと鼻につくアルコールの匂いが、俺は嫌いではなかった。
ある夜、珍しく静かに月を見ていたスズキに、俺は尋ねた。
「スズキさんって、生前は何してたんだ?」
「んー…」スズキは少し考える素振りを見せた後、いつものようにはぐらかした。「酒と競馬と…あと、なんだっけかな。美人のお姉ちゃんが好きだったことしか思い出せん。大事なことは全部忘れちまった」
その横顔は、いつものおどけた表情とは違い、どこか遠くを見ているようで、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。俺はそれ以上、何も聞けなかった。
彼との生活は、確実に俺を変えつつあった。モノクロームだった部屋に、スズキという厄介だが温かい原色が、無理やり差し色を加えていくようだった。彼のけたたましいイビキが聞こえない夜は、なぜか部屋が広すぎて、落ち着かなくなった。味のしないガムは、いつの間にか、噛めば噛むほど味の出るスルメのような、不思議な味わいに変わっていた。俺は、守られているというより、誰かと人生を共有する、そのむず痒いような温かさを、知ってしまったのだ。
***第三章 守るべき人***
平穏な(?)日々は、スズキの一言で唐突に終わりを告げた。
ある雨の午後、スズキは部屋の隅で、どこから取り出したのか古びた巻物のようなものを広げ、唸っていた。守護霊のマニュアルだという。
「やべえ…」
深刻な声だった。俺がモニターから顔を上げると、スズキは見たこともないほど青ざめていた。半透明のくせに、顔色がわかるのがおかしかった。
「ケン坊、大変だ。俺、とんでもないミスを犯していたかもしれん」
「また何かやらかしたのかよ。今度は何? 俺の貯金で馬券でも買ったとか?」
「そんなことより、もっと根本的な問題だ!」
スズキは巻物の一点を、震える指で示した。そこには、墨で書かれたであろう名前が並んでいる。
「俺が守るべき対象…『スズキ ハナエ』様…」
「…は?」
「お前の名前は『サエキ ケンタ』。…サエキとスズキ、聞き間違えたというか、登録ミスというか…」
つまり、こういうことだった。彼が守るべきだったのは、俺じゃない。このアパートの隣の部屋に住む、足の悪い一人暮らしの老婆、鈴木ハナエさんだったのだ。ポンコツは、守護対象を間違えるという、守護霊としてあるまじき大失態を犯していたのだった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。勝手に思い込んでいたのだ。俺が、あまりにも惨めな人生を送っているから、不憫に思った天が、特別に守護霊を遣わしてくれたのだと。だが、違った。俺はただの「間違い」だった。守られる価値がある人間ですらなく、名前を間違えられる程度の、取るに足らない存在。腹の底から、冷たい何かがせり上がってきた。
「…そうかよ」
俺は、それだけ言うのが精一杯だった。
「ケン坊、悪かった! でも、お前といるのが楽しくて、つい…」
「出てけよ」
俺の口から、自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「俺は、あんたの間違いのおかげで、余計な恥かいてきたんだ。もううんざりだ。本来の仕事に戻れよ」
スズキは悲しそうな顔で何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。俺たちの間に、修復不可能な亀裂が入った瞬間だった。
その翌日、事件は起きた。
アパートの前の細い道で、よろよろと歩いていたハナエさんが、猛スピードで角を曲がってきた自転車に轢かれそうになったのだ。俺は窓からその光景を見て、息を呑んだ。俺の隣で、スズキも蒼白になって固まっている。彼が本来守るべき人。しかし、彼は咄嗟に動けなかった。
「危ない!」
ハナエさんを突き飛ばすようにして助けたのは、通りがかりの若い男だった。ハナエさんは尻餅をついただけで済んだが、一歩間違えれば大惨事だった。
スズキは、自分の無力さと、犯した間違いの大きさを突きつけられ、がっくりと肩を落とした。彼の半透明の体が、さらに薄く、まるで陽炎のように揺らぎ始めた。彼は、消えかけていた。
***第四章 さよなら、俺の守護霊***
スズキが消えかけてから、部屋はしんと静まり返った。俺は「せいせいした」と呟いてみたが、その言葉は空虚に響くだけだった。いつもスズキが座っていたベッドの隅。彼がこぼした醤油のシミ。クイズ番組の間の抜けた効果音。そのすべてが、彼の不在を雄弁に物語っていた。
守られていたから満たされていたんじゃない。ポンコツだろうが担当違いだろうが、スズキという他人が俺の人生に介入し、笑い、怒り、世話を焼いてくれた、その日々そのものが、俺のモノクロの世界を彩っていたのだ。俺は、とんでもなく大切なものを、自分のくだらないプライドで突き放してしまったのかもしれない。
いてもたってもいられず、俺は部屋を飛び出した。向かったのは、隣の部屋。コンビニで買ったどら焼きを手に、震える指でインターホンを押した。
「…はい」
「あ、お隣の佐伯です。昨日は大変でしたね。これ、よかったら…」
ドアが開き、杖をついた小柄なハナエさんが顔を出した。穏やかな目をした、優しいお婆さんだった。
「まあ、ご丁寧にどうも。…あなたでしたか。いつも、お部屋から楽しそうな声が聞こえていましたよ。賑やかで、羨ましいくらい」
壁の向こうで、俺たちのドタバタは筒抜けだったらしい。俺は顔から火が出るほど恥ずかしかったが、同時に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その時だった。ハナエさんの部屋の奥から、焦げ臭い匂いが漂ってきた。
「火事だ!」
見ると、古いガスコンロの火が、近くの布巾に燃え移っている。俺はハナエさんを外に押し出し、慌てて鍋の水をかけて火を消した。煙が立ち込める中、俺は確かに見た。半透明のスズキが、必死の形相で、消えかかった体で、燃える布巾に何度も何度も覆いかぶさろうとしている姿を。もちろん、彼の体は炎をすり抜けるだけで、何の意味もなさない。だが、その姿は、紛れもなく「守護」そのものだった。
騒ぎが収まり、俺が呆然とアパートの廊下に座り込んでいると、目の前にスズキが現れた。以前よりずっと、その輪郭ははっきりとしていた。
「ケン坊」
彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「なんか、ハナエさんを本気で守ろうとしたら、一人前として認められたみてえだ。…天界から、正式な辞令が下りた」
「…そうか」
「ああ。だから、俺は行く。今度こそ、ちゃんとハナエさんの守護霊としてな」
別れの時が来たのだと、すぐにわかった。
「じゃあな、ケン坊。…とんだ担当違いだったが、お前との日々は、最高に楽しかったぜ。俺の人生…いや、霊生最高の思い出だ」
スズキは、欠けた歯を見せてニカッと笑った。
「…こっちこそ」俺は俯いたまま、憎まれ口を叩いた。「世話になったな、ポンコツ」
「おうよ」
スズキの体が、ふわりと光を放ち始めた。彼は満足そうに頷くと、無数の光の粒となって、夜空に溶けるように消えていった。後には、彼が好きだった安酒の匂いだけが、微かに残っていた。
スズキがいなくなって、俺の日常は元に戻った。だが、俺自身は、もう元には戻れなかった。仕事に身が入り、小さなデザインだが、自分の名前で世に出すことができた。隣のハナエさんとは、時々廊下で言葉を交わす仲になった。
ある晴れた日の午後、俺はベランダに出て、缶コーヒーを片手に空を見上げた。どこからか、風がふわりと、あの懐かしい安酒の匂いを運んできたような気がした。
俺は空に向かって、誰に言うでもなく、小さく笑った。
「見てるかよ、スズキさん」
返事はない。だが、それでよかった。空は、あの日のスズキの笑顔のように、馬鹿みたいに晴れ渡っていた。人生は、味のしないガムなんかじゃなかった。誰かと分かち合うなら、それはきっと、どこまでも味わい深いものになるのだ。
俺の守護霊はポンコツで、担当違いだった件
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