黒田譲の職業は、ミステリー作家だ。ただし、彼が書く小説がミステリーなのではなく、どうして彼が作家として生活できているのか、という一点が最大のミステリーであった。
「うーん……」
いつものカフェの隅っこで、黒田は唸っていた。目の前には担当編集者に突き返された没プロットの山。
「黒田さん、トリックが陳腐です!『被害者は双子の弟と見せかけて、実は生き別れの兄』って、昭和のサスペンス劇場ですか!」
脳内で再生される編集者の辛辣な声に、黒田は泣きたくなる。もっと斬新で、リアルな犯罪を。そう言われても、小心者で前科はおろか交通違反歴すらない彼に、リアルな犯罪など想像もつかない。
「そうだ、ダジャレから発想を広げてみよう」
藁にもすがる思いで、彼はテーブルの紙ナプキンにペンを走らせた。
『計画書①:ターゲットは宝石商のタマキ。アリバイ工作は「アリさんマークの引越社」のトラックを尾行し、監視カメラの死角を作る』
『計画書②:凶器は冷凍マグロ。カチコチンの尾で後頭部を強打。凶器はその後、解体して刺身に。証拠隠滅と晩酌を同時に行う、まさに完全犯罪!』
「ふふっ、我ながらしょうもない」
くだらなさに少しだけ元気が出た黒田だったが、その時、急激な腹痛が彼を襲った。冷や汗をかきながらトイレに駆け込む。その慌てっぷりで、インスピレーション(という名の駄文)が書きつけられたナプキンのことなど、すっかり忘れていた。
入れ替わるように、そのテーブルの近くに座ったのが、新米刑事の白鳥麗子だった。正義感とやる気に満ち溢れ、その有り余るエネルギーのせいで、時々あらぬ方向に全力疾走してしまうのが彼女の欠点だ。
「ん?」
テーブルに残された一枚のナプキン。何気なく目に留まったその文字に、白鳥は凍りついた。
『完全犯罪』『証拠隠滅』『ターゲット:タマキ』――。
「こ、これは……!」
白鳥の刑事の勘(という名の早とちり)が、けたたましく警鐘を鳴らす。彼女はナプキンを拾い上げると、血相を変えて席を立った。
「灰谷先輩!大変です!とんでもないものを見つけました!」
署に戻るなり、白鳥はデスクで舟を漕いでいるベテラン刑事、灰谷の肩を揺さぶった。
「んあ……?なんだ白鳥、また迷子のインコをテロリストの伝書鳩と間違えたのか?」
「違います!これを見てください!完璧な犯行計画書です!」
灰谷は眠そうな目を開け、白鳥が突き出したナプキンをけだるそうに眺めた。
「……冷凍マグロで殴って刺身に?……どこの居酒屋の新メニューだ。腹減ってんならカツ丼でも食ってこい」
「先輩は真面目に聞いてください!これは近々起こる殺人事件の予告です!」
「はいはい」
まったく相手にされない白鳥だったが、彼女の正義の炎は、むしろ燃え盛るばかりだった。
一方その頃、黒田は担当編集者から新たな指令を受けていた。
「とにかくリアリティです!足で稼いでください!例えば、そのアリバイ工作、本当に可能なんですか?トラックのルートを調べましたか?冷凍マグロの硬度は?値段は?」
「ええ……」
「返事は『はい』か『イエス』か『喜んで』でお願いします!」
電話を切った黒田は、重い腰を上げて「実地調査」に向かった。まずは引越社のトラックが走りそうな大通りでストップウォッチを片手に時間を計測。次に、築地市場で「あの、冷凍マグロって、人を殴ったらどうなりますかね?」と店主に尋ね、不審者を見る目で見られた。
これらの行動が、すべて隠れて監視していた白鳥麗子によって記録されていることなど、知る由もなかった。
「間違いない……犯人は犯行準備を着々と進めている……!」
白鳥の報告書に目を通した灰谷も、さすがに眉をひそめた。「まさかな……」と思いつつも、部下の手前、捜査に加わることにした。
そして運命の日。黒田は物語のクライマックスを練るため、ターゲットとして名前を拝借した宝石店「ジュエル・タマキ」の前にいた。双眼鏡を覗き込み、ショーウィンドウの強度や警備員の位置を確認しながら、ブツブツと呟く。
「ここでタマキを……いや、まずは警備員か?ショーウィンドウを叩き割り、一気に……」
その瞬間だった。
「そこまでだ!動くな!」
背後から響く、凛とした女性の声。驚いて振り返った黒田の目に飛び込んできたのは、鬼の形相で警察手帳を突きつける白鳥と、やれやれといった顔の灰谷だった。
「確保ぉぉぉっ!」
「え、え、え、なんで僕が確保ぉぉぉっ!?」
わけもわからぬまま、黒田の両腕はがっちりと掴まれ、パトカーに押し込められた。
取調室で、黒田は泣きながら訴えた。
「ですから、これは小説のネタなんです!僕が書いたプロットで……」
「まだシラを切る気か!このナプキンがお前の計画のすべてを物語っている!」
白鳥がビシッと証拠品のナプキンを机に叩きつける。
その時、それまで黙って黒田の鞄の中身を調べていた灰谷が、ため息混じりに口を開いた。
「……白鳥、もういい」
「しかし先輩!」
「これを見ろ」
灰谷が差し出したのは、黒田が持ち歩いていたボロボロのノート。そこには、過去の没プロットがびっしりと書き込まれていた。
「『被害者リスト』……?なになに、『井上(いのうえ)を井戸の上に吊るす』、『木下(きのした)を木の下に埋める』、『山川(やまかわ)を山から川に突き落とす』……」
白鳥は読み上げるうちに、みるみる顔が赤くなっていく。
「……全部ダジャレじゃないですか」
「そういうことだ。お疲れさん」
灰谷はポンと黒田の肩を叩き、「まあ、紛らわしいことすんなよ、先生」と苦笑した。
数日後。黒田譲は、全く別のミステリーの渦中にいた。
『警視庁を翻弄した天才作家!そのリアルすぎる完全犯罪計画書、独占入手!』
誤認逮捕の一件が、なぜか週刊誌にすっぱ抜かれたのだ。世間は「あの警察が本気で捜査したほどのリアリティ」と大騒ぎ。黒田の元には出版社のオファーが殺到し、ナプキンの内容を元にした小説『ナプキンの上の完全犯罪』は、あれよあれよという間にベストセラーになった。
「人生って、ミステリーだなあ」
札束が積み上がった銀行口座の通帳を眺めながら、黒田はしみじみと呟いた。
ちなみに、謹慎処分が解けた白鳥麗子は、今ではすっかり黒田の熱烈なファンになり、サイン会にこっそり並んでいるという。もちろん、その手には最新刊ではなく、一枚の紙ナプキンを握りしめて。
ナプキンの上の完全犯罪
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