俺、田中祐樹、32歳、しがないサラリーマン。趣味は海外ドラマ鑑賞。最近のお気に入りは、もちろんスパイアクションだ。そんな俺の平凡な日常は、隣にヤツが引っ越してきた日から、にわかに緊迫感を増した。
男の名は、鈴木。挨拶に来た時、彼は黒いスーツに身を包み、鋭い眼光で俺を一瞥し、「……鈴木です。よろしく」とだけ言ってのけた。その手には、いかなる衝撃にも耐えられそうなジュラルミンケース。間違いない。ヤツは、プロだ。
俺の心のコードネーム『ナイトホーク』が警鐘を鳴らす。以来、俺は隣人、もとい、”ターゲット”の監視を極秘裏に開始した。
【観察記録1】
深夜二時、ターゲットの部屋から「ガリガリ……シューッ」という不審な音。おそらく、特殊な小型兵器でも製造しているのだろう。壁に耳を当てると、シンナーのような匂いが微かに漂う。化学兵器か……!日本の平和は、俺の双肩にかかっている。
【観察記録2】
ベランダで誰かと電話している。聞き耳を立てる。「……ああ、ターゲットは確保した。あとは、慎重に“ウェザリング”を施して仕上げるだけだ」「了解。例のブツは明日の夜、届く」。
ターゲット確保!?“ウェザリング”だと?風化……つまり、社会的に抹殺するという暗号か!例のブツとは、おそらく拳銃か爆弾に違いない。
【観察記録3】
ゴミ捨て場にて、ターゲットのゴミ袋からシュレッダーにかけられた紙片を発見。『極秘』『計画』『最終段階』の文字が!
決定的だ!ヤツは、この平和な街で何かとんでもないテロを計画している!
俺は決意した。警察に言っても、証拠不十分で取り合ってもらえないだろう。ならば、俺がやるしかない。民間スパイ、コードネーム『イーグル・アイ』(さっき変えた)として、ヤツの計画を阻止するのだ!
決行は、”例のブツ”が届くという今夜。俺は黒いジャージに身を包み、顔にはスキー用の目出し帽。完璧な潜入スタイルだ。深夜、鈴木の部屋の明かりが消えたのを確認し、俺はベランダの隔て板を乗り越えた。
「こちらイーグル・アイ。アジトへの潜入に成功。これより計画の全貌を……」
心の中で報告した瞬間、足がもつれ、隣のベランダに置いてあった植木鉢に見事なクリーンヒットをかましてしまった。
ガッシャーーーン!
盛大な破壊音と共に、俺は派手にすっ転んだ。土と花の香りが鼻をつく。
「だ、誰かいるのか!?」
鈴木の部屋の窓が開き、鬼の形相の彼が顔を出した。ライトが俺を照らす。絶体絶命!
「お、お前の悪事は見抜いているぞ!この国際スパイめ!日本の平和は俺が守る!」
俺はヤケクソで叫んだ。
すると鈴木は、きょとんとした顔で俺を見つめ、言った。
「……え?スパイ?何言ってるんですか?それより、僕の育ててたサフィニアが……」
その時、彼が手にしていたジュラルミンケースがパカリと開いた。中から現れたのは、拳銃でも爆弾でもなく―――陽光に照らされるヨーロッパの古城。ただし、高さ30センチほどの。
あまりの精巧さに、俺は言葉を失った。細かなレンガの質感、壁を這う蔦、風化して欠けた城壁……。
「これ……」
「ああ、来月の模型コンテストに出す新作なんです。やっと完成したのに……」
鈴木さんは悲しそうに、無惨に砕けた植木鉢を見つめた。
彼の口から語られた真相は、こうだ。
・彼はプロのモデラーだった。
・「ガリガリ」はヤスリがけ、「シューッ」はエアブラシ塗装の音。シンナー臭は塗料。
・「ターゲット確保」は、ネットオークションで希少な限定パーツを落札したこと。
・「ウェザリング」は、模型にリアルな汚し塗装を施す高等技術。
・「極秘計画」は、コンテストの出品計画書だった。
俺は目出し帽を脱ぎ、その場で土下座した。顔から火が出るほど恥ずかしい。
「本当に、申し訳ありませんでした……!」
俺の情けない声が、静かな夜に響き渡った。
後日、鈴木さんの城はコンテストで金賞を受賞した。そして俺は、海外ドラマを観るのをやめた。今では鈴木さんを師と仰ぎ、ベランダでプラモデル作りの手ほどきを受けている。先日の俺の処女作、ザクのプラモデルを見た師匠の一言が忘れられない。
「田中さん……このウェザリングは……ある意味、芸術的ですね」
その笑顔は、とても優しいスパイの顔だった。
隣人(スパイ)観察日記
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