株式会社ヤマダ事務機の営業マン、鈴木誠は絶望していた。彼の胃は、まるで反乱を起こした小動物のようにキリキリと悲鳴をあげている。原因は目の前で繰り広げられる光景だ。
場所は、六本木の超高級クラブのVIPルーム。取引先の金満社長に「これも仕事だ!」と引きずり込まれたのだが、社長はトイレに行ったきり戻ってこない。部屋には、いかにも「その筋の方々」という風情の男たちが二人。一人は鋭い眼光でこちらを射抜く、黒いスーツの日本人。もう一人は、熊のように巨大なロシア人。テーブルの上にはジュラルミンケースが置かれ、部屋の空気は凍てついている。
(帰りたい…家に帰って、録画した『世界の苔特集』が見たい…)
鈴木はただひたすらに、己の気配を消すことだけを考えていた。壁際のソファに深々と沈み込み、置物と化す。だが、限界寸前の胃が「薬をよこせ」と猛烈にアピールしてきた。鈴木は仕方なく、ジャケットの内ポケットから愛用の胃薬を取り出す。白い錠剤を、水もなくごくりと飲み込んだ。
その瞬間、黒スーツの男――関東黒龍会の若頭・黒崎の目がカッと見開かれた。
(なんだ、あいつは…?この緊張状態、殺気が渦巻く取引の場で、平然と何かを服用したぞ。毒見か?それとも、いつでも命を絶つ覚悟の表れか…?)
向かいに座るロシアマフィアのボス、ボリスも口ひげをピクリと震わせた。
(フン、奴が日本の裏社会を牛耳る伝説のフィクサー、『静粛の支配者』か。噂に違わぬ静けさだ。あの錠剤…脳のリミッターを外す特殊な薬品に違いない。恐ろしい男だ…)
二人の内心の激震など知る由もない鈴木は、ただただ早くこの場から解放されたい一心で、腕時計をチラリと盗み見た。終電まで、あと一時間。
黒崎の背筋に冷たい汗が流れた。
(時間を気にしている…!我々との会合は、奴のスケジュールの一部に過ぎないというのか。この後に『本番』が控えているとでも…?なんというプロフェッショナルだ)
ボリスもまた、鈴木の視線に別の意味を読み取っていた。
(我々を値踏みしているな。この取引が奴の眼鏡にかなわなければ、この部屋にいる全員の喉が掻き切られる。そのタイムリミットを計っているのだ)
もはや、空気は耐え難いほどに重い。鈴木は決心した。ここで黙っていても状況は好転しない。営業マンとして、勇気を振り絞るのだ。彼は震える脚で立ち上がると、一番偉そうに見える黒崎の元へおずおずと歩み寄った。そして、営業マンの習性として、深々と頭を下げた。
「あの…!大変恐縮なのですが、そろそろお暇(いとま)させて頂いてもよろしいでしょうか…?明日、朝一で大事な案件が…」
緊張で声が裏返り、か細く、途切れ途切れになったその言葉は、黒崎とボリスの耳には全く違う響きで届いていた。
「……そろそろ…『掃除(そうじ)』の時間だ。…明日、朝一で…『第一級の標的(だいじなあんけん)』を…」
部屋が、凍りついた。
『掃除』。それは裏社会で「始末」を意味する隠語。二人は顔を見合わせ、ゴクリと喉を鳴らした。伝説のフィクサーが、自らの口で次の「仕事」を予告したのだ。
その時だった。
「オラァ!黒龍会のモンはどこだ!」
バンッ!と派手な音を立ててドアが蹴破られ、金属バットや鉄パイプを手にしたチンピラたちが雪崩れ込んできた。敵対組織の殴り込みだ。店内は悲鳴と怒号でパニックに陥る。
「ひっ…!」
鈴木は短い悲鳴をあげ、咄嗟に部屋の隅にあったモップを掴み、盾のように構えてガタガタと震え始めた。ただ、そこにモップがあったから。ただ、何かにすがりたかったから。
だが、その姿は達人たちの目にこう映った。
「モップだと…!?奴の得物は、やはり掃除用具だったのか!」
「あの構え…!一見、無防備に見えるが、全身に全く隙がない!」
「我々を…守るつもりか…!」
チンピラの一人が、隅で震える奇妙な男に気づいた。
「なんだテメェ!」
男が鉄パイプを振り上げた瞬間、恐怖が頂点に達した鈴木の手から、モップが滑り落ちた。
カラン、と乾いた音。
落ちたモップの柄が、絶妙な角度でチンピラの足首を捉えた。男は盛大にバランスを崩し、漫画のように宙を舞い、テーブルの角に側頭部を強打して白目を剥いた。一撃。しかも、当人は触れてすらいない。
「なっ…!?」
「兄貴が…触れずにやられた…!?」
「き、気功か…!?いや、殺気だけで…!」
残りのチンピラたちは、この世の終わりを見たかのような顔で武器を放り出し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
嵐が去ったVIPルームには、静寂だけが残った。
鈴木は腰が抜けてその場にへたり込んでいる。黒崎とボリスは、ゆっくりと立ち上がると、声も出せずに立ち尽くす鈴木の背中に向かい、まるで神仏を拝むかのように、深々と、深々と頭を下げた。
翌日。株式会社ヤマダ事務機に、黒龍会系列のフロント企業と、ボリスが経営する貿易会社から、最高級オフィスチェア五百脚と、ドイツ製最新金庫百台という、創立以来最大の大口契約が舞い込んだ。
「やったな鈴木くん!君は我が社のヒーローだ!」
社長に肩を叩かれ、同僚たちから万雷の拍手を浴びながら、鈴木誠は理由が全く分からなかった。ただ一つ確かなのは、原因不明の特大の成功が、彼の胃に新たな痛みの種を植え付けたことだけだった。
営業マン鈴木、静粛の支配者
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