天穹の羅針盤と空飛ぶ島

天穹の羅針盤と空飛ぶ島

2
文字サイズ:

古地図専門の古物商「彷徨海図」の店主、カイトの日常は、埃とインクの匂いに満ちていた。壁一面を埋め尽くす羊皮紙の海。しかし、そこに描かれた未知の大陸や幻の海峡は、彼をどこへも連れて行ってはくれなかった。冒険家だった祖父が遺したこの店で、カイトはただ、過ぎ去った冒険の残り香を嗅ぐだけの退屈な日々を送っていた。

その日、店に持ち込まれたのは、奇妙な一枚の地図だった。一見すると、ただインクをこぼしただけの汚いシミ。だが、カイトは祖父の日記で読んだ記述を思い出した。「真の地図は、月光の下でのみその姿を現す」
その夜、店の天窓から差し込む月光に地図をかざすと、カイトは息を呑んだ。シミは銀色の光を放ち始め、複雑な航路と未知の言語が浮かび上がったのだ。そして、その終着点にはこう記されていた―――『天穹の島、アエリア』。

「行くしかないだろ、こんなの見せられたら!」
目を爛々と輝かせたのは、カイトの店の常連で、天才的な機械技師のリナだった。腰まである赤髪をポニーテールに揺らし、油の染みたゴーグルを額に押し上げる。
「私の『アルバトロス号』の出番ってわけだね! ちょっと旧式だけど、心臓部は最新鋭なんだから!」
リナが指差す先には、裏の工房で翼を休める小型の飛行船があった。流線形とは言えない、ずんぐりむっくりとした船体。だが、その翼に搭載されたいくつもの風受け羽根(エアロ=ブレード)は、リナの自信を物語るように鈍く輝いていた。

こうして、古地図専門の知識を持つカイトと、それを現実にする技術を持つリナの、無謀な冒険が始まった。
地図が示す最初の目的地は「唄う風の渓谷」。谷間に吹く風はあまりに不規則で、並の飛行船では藻屑と消えるという。
「カイト、地図の記述は!?」
激しく揺れる船内で、リナが叫ぶ。カイトは羅針盤と地図を睨みつけ、叫び返した。
「風の“唄”を聴け、とある! リナ、あのガジェットを!」
「了解!」
リナが操作盤のスイッチを入れると、船首からハーモニカのような装置が突き出し、特定の音階を奏で始めた。すると、荒れ狂っていた風が嘘のように凪ぎ、アルバトロス号を優しく押し上げるように流れを変えた。まるで、渓谷そのものが一つの巨大な楽器であるかのようだった。

次なる難所は「雷雲の海」。紫電をまとった巨大なクラゲのような生物「雷獣」が巣食う空域だ。
「まずい、囲まれた!」
窓の外では、数十体の雷獣が放つ稲妻が、闇を切り裂いている。絶体絶命の状況で、カイトはあることに気づいた。
「リナ! 雷獣は光る前に、体表の模様を一瞬だけ強く発光させる! その逆方向へ飛べ!」
「無茶言うな! でも、やるしかない!」
カイトの的確な指示と、リナの神業的な操縦がシンクロする。稲妻のシャワーを紙一重でかわし、光の迷路を駆け抜けるように、アルバトロス号は雷雲の海を突破した。

数々の困難を乗り越え、ついに二人は地図が示す最後の座標へとたどり着いた。しかし、そこには何もない。ただ、どこまでも広がる雲海があるだけだ。
「ここまで来て、終わり……?」
カイトが落胆しかけたその時、夜空に満天の星が輝き始めた。地図に描かれた星座が、南の空高く昇りつめる。すると、どこからともなくオーロラのような光の帯が天から降り注ぎ、眼前の雲海を貫いて、巨大な光の階段を形作った。
「嘘でしょ……」
リナが呆然と呟く。
「いや、これこそが『天穹の島』への道だ!」
カイトの声に、リナはハッと我に返り、操縦桿を握りしめた。「しっかり掴まってな!」
アルバトロス号はエンジンを唸らせ、光の階段を駆け上がっていく。重力が曖昧になる不思議な浮遊感。光のトンネルを抜けた先、二人の目の前に広がったのは、言葉を失うほどの絶景だった。

空に浮かぶ、巨大な島。
緑豊かな森、七色に輝く滝、そして島の中心で天を突くようにそびえ立つ、巨大な水晶の塔。それが、伝説の『天穹の島、アエリア』だった。

島の中心にあった遺跡で、カイトは一冊の古びた日記を見つけた。それは、消息を絶ったはずの祖父のものだった。
日記には、アエリアにたどり着いた祖父が、この島の持つ強大なエネルギーが悪用されることを恐れ、自ら島の守護者としてここに残ることを決意したと記されていた。
『カイト。もしお前がこの日記を読んでいるなら、選んでくれ。この奇跡の島の存在を世界に伝えるか、あるいは私と共に、この静寂を守るかを』

カイトは日記を閉じ、リナと顔を見合わせた。答えは決まっていた。
「じいちゃん、あんたの冒険は、俺たちが引き継ぐよ」
二人はアエリアの存在を胸に秘めることを選んだ。世界がこの奇跡を受け入れる準備ができるまで。

アエリアを後にし、再び広大な空へ飛び出したアルバトロス号。冒険は終わった。だが、二人の胸には、消えることのない興奮の炎が灯っていた。
「ねえ、カイト」とリナが笑う。「古地図は、まだたくさんあるんだろ?」
カイトはニヤリと笑い、ポケットから別の羊皮紙を取り出した。
「ああ。次は、『沈黙の火山に眠る、太陽の船』を探しに行こうか」

二人の冒険は、まだ始まったばかりだった。青い空のキャンバスに、アルバトロス号は新たな航跡を描きながら、次の伝説へと向かって飛んでいった。

TOPへ戻る