レオの仕事場は、風の匂いと古い羊皮紙の香りで満ちていた。彼の住む浮遊島「エアリア」は、大空に浮かぶ無数の島々の一つ。人々は風を読み、風に乗り、風と共に生きてきた。そしてレオは、この世界の空白を埋める地図職人の卵だった。
彼の机の上には、祖父が遺した一枚の不完全な地図が広げられていた。それは、空の果てにあると謳われる伝説の浮遊島「アウリオン」への道を示す、唯一の手がかりだった。
「ピップ、今日の風はどうだ?」
レオが尋ねると、彼の肩に乗っていた手のひらサイズの機械仕掛けのフクロウ――ピップが、レンズ状の目をカシャリと瞬かせた。
『風速低下。エアリアの浮遊高度、昨日比で三メルトン降下。このままでは、あと半月で“雲の底”に到達します』
ピップの合成音声は、いつも通り無機質だが、その内容は絶望的だった。エアリアを支える生命線である風が、日に日に弱まっているのだ。
長老たちの話し合いも、結論は一つだった。「アウリオンに眠るという“風の源流”を再起動させるしかない」。しかし、そこへ至る航路は、凶暴な空の生物や、船を砕く雷雲渦巻く「空の墓場」に阻まれ、誰も辿り着いた者はいなかった。
「僕が行くよ」
レオの言葉に、誰もが息を呑んだ。まだ見習いの彼には無謀だと、誰もが思った。だが、彼の瞳には、臆病さの奥に揺るぎない決意の光が宿っていた。祖父の夢を、そして故郷を、自分の手で守りたかった。
改造を重ねた一人乗りの小型飛行艇「ウィンドライダー号」に乗り込み、レオはピップと共に故郷を飛び立った。眼下に小さくなっていくエアリアを見つめ、彼はぎゅっと操縦桿を握りしめる。
最初の難関は、船乗りたちに「セイレーンの空域」と恐れられる場所だった。そこでは、結晶質の浮遊岩が無数に漂い、共鳴して不協和音を奏でることで、飛行艇の羅針盤を狂わせるのだ。
『警告。航路不明。制御システムに異常発生』
ピップの警告音が鳴り響き、ウィンドライダー号が激しく揺れる。レオは目を閉じ、全身で風の流れを感じた。地図職人として叩き込まれた、計器に頼らない風読み術だ。
「ピップ、あの岩の音のパターンを解析して! 逆位相の音波を出せるか?」
『……理論上は可能。実行します』
ピップが特殊な音波を発すると、耳障りな不協和音が和らぎ、羅針盤が正常な方角を指し示した。レオは大きく息を吐き、ウィンドライダー号を加速させた。
いくつもの危機を乗り越え、ついに彼らは最大の難所「空の墓場」に到達した。そこは、紫電が絶え間なく空を裂き、巨大な黒雲が渦を巻く、まさに世界の終わりのような場所だった。祖父の地図にも、ここから先は描かれていない。
「どうすれば……」
レオが絶望しかけたその時、祖父のペンダントが淡い光を放ち、地図の空白部分に新たな航路が浮かび上がった。月の光に反応する特殊なインクで描かれていたのだ。
「これだ! 嵐の中心には、風のない“目”があるはずだ!」
雷鳴をBGMに、レオは嵐の渦へと突っ込んだ。視界は闇と閃光に支配され、機体が悲鳴を上げる。その時、眼下の分厚い雲が盛り上がり、巨大な何かが姿を現した。伝説の空の怪物、「天空のクラーケン」。山のような巨体から伸びる無数の触手が、ウィンドライダー号に襲いかかる。
「うわあああっ!」
触手の一撃が翼をかすめ、船体が大きく傾く。絶体絶命。その瞬間、レオは祖父の地図の隅に書かれた小さなメモを思い出した。『古の巨人は、強い光の明滅を嫌う』
「ピップ! 全エネルギーを投光器に回して、最大出力で点滅させろ!」
『危険です! 動力停止の可能性が……』
「やるんだ!」
レオの叫びに応え、ピップはウィンドライダー号の全エネルギーを光に変えた。凄まじい閃光が、闇を昼間のように照らし出し、点滅を繰り返す。クラーケンは眩しさに怯んだように動きを止め、その巨大な瞳をかばうように触手を丸めた。
生まれた一瞬の隙。レオはその機を逃さなかった。
「いっけえええええ!」
操縦桿を倒し、クラーケンの巨体の脇をすり抜け、嵐の目へと飛び込む。
嘘のような静寂が、彼らを包んだ。轟音と稲妻は消え去り、穏やかな風がウィンドライダー号を優しく押し上げる。そして、その先にあった。
虹色の光を放つ巨大な水晶が、穏やかな風を生み出し続けている。ここが、伝説の浮遊島アウリオン。そして、あれが“風の源流”。
レオはゆっくりと島に着陸し、息を呑むほどの美しい光景に見入った。彼が震える手で祖父のペンダントを風の源流にかざすと、ペンダントと水晶が共鳴し、眩い光の柱が天に向かって伸びていった。力強く、生命力に満ちた新しい風が生まれ、大空へと広がっていくのが肌で感じられた。
故郷のエアリアに力強い風が戻ったのは、その数日後のことだった。レオは英雄として迎えられたが、彼の心はすでに次の冒険へと向いていた。
完成したアウリオンの地図を広げ、その先の、まだ誰も見たことのない更なる空白を見つめる。
「ピップ、準備はいいか?」
『いつでも。マスター』
空は、まだこんなにも広い。レオの、そして人類の冒険は、まだ始まったばかりだった。
天空の地図職人と風の源流
文字サイズ: