第一章 残響の古物商
路地裏の突き当たり、蔦に覆われた木製の扉を開けると、古い紙と乾いたインクの匂いが客人を迎える。俺の店、『時巡り古物堂』は、単なる古物商ではない。俺、水脈(みお)リクは、物に宿る持ち主の「後悔」を抽出し、それを物質化させる力を持っていた。
琥珀色の光を閉じ込めたような小さな結晶。それが、人の心残りそのものだった。そして俺は、その結晶を握りしめることで、後悔が生まれた過去のその一点へと、わずか数分間だけ跳躍することができる。俺の冒険は、いつも誰かの過去の中にある。言いそびれた「ありがとう」を届けるため。渡しそびれた手紙を、そっと机の上に置くため。小さな、本当に小さな過去の修正。それは俺にとって、自分自身の大きな後悔から目を逸らすための、ささやかな贖罪であり、逃避でもあった。
その日、店のドアベルが乾いた音を立てたのは、西陽が床の埃を金色に照らし出す、けだるい午後だった。入ってきたのは、背を丸めた小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つに、長い歳月の物語が滲んでいる。彼女は震える手で、布に包まれた何かをカウンターに置いた。
「これを……引き取ってはいただけませんか」
掠れた、しかし芯のある声だった。
布が解かれると、現れたのは真鍮製の古い羅針盤だった。使い込まれて角は丸くなり、ガラスには蜘蛛の巣のような細いひびが入っている。しかし、その針は今も正確に北を指し示していた。俺がそれに指を触れた瞬間、激しい電流のような感応が全身を駆け巡った。
「うっ……!」
思わず手を引く。これまで感じたことのない、強烈な残留思念。それは単なる後悔ではなかった。嵐のような悲しみと、陽だまりのような幸福感。絶望と希望。相反する感情が渦を巻き、一つの巨大な奔流となって俺の精神に流れ込んでくる。
俺は息を整え、もう一度、慎重に羅針盤に触れた。意識を集中させると、羅針盤の表面から、じわりと光の雫が滲み出す。やがてそれは、深海の青と、燃えるような夕焼けの赤が混じり合った、ビー玉ほどの大きさの美しい結晶となった。だが、その美しさとは裏腹に、結晶はズシリと重く、冷たかった。まるで、凍りついた涙の塊のようだ。
「……お代は、結構です。ただ、捨てていただきたい」
老婆は結晶を一瞥し、そう言った。その瞳には、諦観とも恐怖ともつかない色が浮かんでいる。
「一つだけ、お願いがあります」
彼女は俺の目をまっすぐに見つめた。
「その過去へは、決して行かないでください。どんなことがあっても、です。それは、開けてはならない扉なのです」
そう言い残し、老婆は杖を頼りに、ゆっくりと店を去っていった。残されたのは、不気味なほどの輝きを放つ結晶と、俺の心に深く突き刺さった謎の棘だけだった。開けてはならない扉。その言葉は、冒険への禁断の招待状のように、俺の耳に響き続けた。
第二章 誘う結晶
老婆が去ってからというもの、あの奇妙な結晶は、店の片隅で静かな存在感を放ち続けていた。普段扱う後悔の結晶が、せいぜい蝋燭の灯火ほどの淡い光を放つのに対し、それはまるで自ら脈動しているかのように、明滅を繰り返していた。夜、店の明かりを消すと、その光は一層強さを増し、壁や天井に揺らめく深海と夕焼けの模様を映し出した。
俺は意図的にその結晶から距離を置いた。他の客が持ち込む、ありふれた後悔の処理に没頭した。恋人に心ない言葉をぶつけてしまった青年の後悔。俺は彼の過去に跳び、彼が言葉を発する寸前に、わざと彼の足元に本を落として注意を逸らした。結果、彼は何も言わずにその場を去ることになった。果たしてそれが正しいことだったのか、俺にはわからない。ただ、依頼を終えて店に戻った青年の顔から、苦悩の色が薄れていたことだけが救いだった。
だが、どんなに他の後悔に没頭しても、心のどこかで、あの羅針盤の結晶がチリチリと音を立てていた。それはまるで、遠い海の潮騒のようであり、誰かの囁き声のようでもあった。ある晩、俺はついに耐えきれず、その結晶を手に取った。
ひやりとした感触が、手のひらから血の気まで吸い上げていくようだ。目を閉じると、ノイズ混じりの映像が脳裏に浮かんだ。激しい風の音。叩きつける雨。木がきしむ音。そして、若い男女の笑い声。幸せそうな、しかしどこか切ない響きを伴った声だった。
俺は、自分自身の過去を思い出していた。五年前に事故で失った妹。最後の会話は、些細なことで口論したままだった。「ごめん」の一言が言えなかった。それが俺の力の原点であり、決して癒えることのない傷口だった。他人の過去を修正することで、自分の変えられない過去から逃げている。そんなことは、とうに気づいていた。
この結晶に宿る後悔は、俺が抱えるものとは質が違う。それは、個人の後悔というより、もっと大きな、運命そのものへの嘆きのように感じられた。老婆はなぜ、あれほど強く俺を制したのか。「開けてはならない扉」の向こうには、一体何があるのか。
好奇心は、恐怖を少しずつ侵食していく。この力を手にして以来、俺は常に傍観者だった。過去に介入はしても、その中心に立つことはない。あくまで、物語のページの外から指を差し込むだけだ。だが、この結晶は違う。俺を物語の渦中へと引きずり込もうとしている。
数日後、俺は決意した。老婆との約束を破ることに、罪悪感がなかったわけではない。だが、この正体不明の感情の奔流を見過ごすことは、俺自身の存在を否定するような気がした。俺は店の扉に「臨時休業」の札をかけ、カウンターの椅子に深く腰掛けた。そして、深呼吸を一つすると、あの赤と青の結晶を、強く、強く握りしめた。
第三章 嵐の数分間
視界が白く染まり、次の瞬間、俺は立っていた。いや、立っているというよりは、激しく揺れる床に必死で足を踏ん張っていた。
ごう、と耳をつんざく風が吹き荒れ、塩辛い飛沫が顔を叩く。そこは、巨大な波に翻弄される木造船の甲板だった。空は鉛色の雲に覆われ、世界から色彩が失われている。俺の体は半透明で、誰にもその姿は見えていない。いつものことだ。
視線を巡らせると、マストにしがみつく二人の男女がいた。若い頃の老婆だ。雨に濡れた黒髪を顔に貼りつかせながらも、その瞳は不安と期待に揺れていた。そして、彼女の前に立つ、日に焼けたたくましい腕の若い船乗り。彼の手には、あの羅針盤が握られていた。
「必ず、この羅針盤が指す方角へ帰ってくる!」
船乗りは嵐の轟音に負けないよう、声を張り上げた。「お前が待つ、あの港へ! だから、心配するな!」
「ええ、信じてるわ!」
老婆も叫び返す。その光景は、悲壮な別れというよりは、困難に立ち向かう二人の、愛の誓いに見えた。彼らの間には、絶望など微塵も感じられない。
その時だった。俺の目の前で、信じがたいことが起きた。俺がこの過去に現れたことで、時間の流れに微細な、しかし決定的な「歪み」が生じたのだ。本来そこにはなかったはずの、荷造り用のロープの切れ端が、ほんの数センチ、位置をずらした。
次の瞬間、船を飲み込むかのような巨大な波が、甲板に叩きつけられた。
「危ない!」
船乗りは老婆を庇うように抱きしめる。船は大きく傾ぎ、あらゆるものが滑り出した。そして――船乗りの足が、位置をずらしたロープに、不運にも絡まってしまったのだ。体勢を崩した彼は、なすすべもなく荒れ狂う漆黒の海へと投げ出された。
「ああ……!」
俺は声にならない悲鳴を上げた。違う。そうじゃない。本来の歴史では、彼はここで体勢を立て直し、九死に一生を得るはずだった。俺が読んだ思念の断片は、そうなっていたはずだ。しかし、俺という「異物」がこの瞬間に存在したことで、運命の歯車が、最悪の方向へと噛み合ってしまった。
「いやあああああっ!」
老婆の絶叫が、嵐の音を切り裂いた。彼女は手を伸ばすが、若い船乗りの姿はあっという間に波間に消えていく。残されたのは、彼女の手に渡された、冷たい羅針盤だけだった。
俺は愕然として、その場に立ち尽くすしかなかった。老婆の後悔。それは、「彼を失ったこと」ではなかったのだ。彼女の本当の後悔は――。
『過去を変えようとして、もっと悪い結果を招いてしまったこと』
そうだ。彼女も、かつてこの瞬間に介入しようとしたのだ。おそらく、別の能力者か、あるいは何らかの手段で。彼を助けるために。しかし、その介入こそが、彼を死に追いやる引き金となった。俺が今抽出した結晶は、彼女の最初の後悔(彼との別れ)に、介入の失敗という第二の後悔が上塗りされた、「二重の絶望」の塊だったのだ。
俺が今体験しているのは、彼女がかつて体験した後悔そのものの、完璧な再現。俺は、彼女の絶望を、寸分違わず追体験させられたのだ。「開けてはならない扉」とは、この救いのない、無限ループのような絶望のことだった。
数分間の滞在時間が終わり、俺の意識は店のカウンターへと引き戻された。手のひらの結晶は、ひび割れ、色を失い、ただの灰色の石ころになっていた。俺は、自分の犯したことの重さに、ただ打ちのめされていた。
第四章 沈黙の羅針盤
店に戻った俺は、何時間も椅子から動けなかった。窓の外ではいつもと同じように時間が流れ、人々が通り過ぎていく。しかし、俺の世界は完全に止まってしまった。俺が「善意」だと信じて行ってきた冒険は、運命に対する傲慢な介入に過ぎなかったのではないか。一つの後悔を消すために、俺は別の、もっと大きな歪みを生んでいたのかもしれない。あの嵐の海で目撃した光景が、焼き付いて離れない。
俺は立ち上がり、店の奥の金庫に、これまで集めてきた後悔の結晶をすべて仕舞い込んだ。そして、金庫に鍵をかけ、その鍵を近くの川へと投げ捨てた。
もう、過去への冒険はしない。
俺は決意した。過去は変えられない。変えようとすれば、あの老婆のように、あるいは俺のように、取り返しのつかない傷を負うだけだ。本当に向き合うべきは、過ぎ去った時間ではなく、これから訪れる時間なのだ。
その日から、俺の店は、本当にただの古物商になった。『時巡り古物堂』という名前はそのままに、俺は物に宿る後悔を抽出することをやめた。代わりに、その物が経てきた歴史や、持ち主の想いを、丁寧に次の客へと語り継ぐことに専念した。それは地味で、劇的な変化のない毎日だった。しかし、嵐の海で感じた無力感に比べれば、その穏やかさは何物にも代えがたいものだった。俺は初めて、自分自身の時間を生きている実感を得た。妹への後悔も、消えはしないが、静かに受け入れることができるようになっていた。それもまた、俺の人生の一部なのだと。
数年の歳月が流れたある春の日。店のドアベルが、懐かしい音を立てた。そこに立っていたのは、制服を着た一人の女子高生だった。その面差しに、俺はかつての老婆の姿を微かに見た。
「こんにちは。あの、祖母から預かってきたものです」
彼女が差し出したのは、布に包まれた、あの真鍮の羅針盤だった。
「祖母は先月、亡くなりました。亡くなる前に、これをあなたに渡してほしいと。そして、『ありがとう。これで、私の船もようやく港に着けます』と伝えてほしい、と言っていました」
俺は息を呑んだ。老婆は、すべてお見通しだったのだ。俺が彼女と同じ過ちを犯し、絶望し、そして、その連鎖を断ち切ることを。彼女は、俺が過去への介入をやめたことで、ようやく自分自身の後悔の嵐から解放されたのかもしれない。
俺は震える手で、羅針盤を受け取った。ガラスのひびも、鈍い輝きも、あの日のままだ。しかし、もうそこからは何の感情も流れ込んではこなかった。ただの、美しい古物として、静かに沈黙している。
少女が帰った後、俺はその羅針盤を窓辺に置いた。西陽を浴びて、真鍮が温かい光を放っている。その針は、変わらず北を指し示していた。だが俺には、それが未来という、まだ見ぬ方角を指しているように思えた。
過去への冒険は終わった。だが、この現在(いま)という瞬間を、ただ受け入れて生きていく。それこそが、人生における最も静かで、最も偉大な冒険なのかもしれない。俺は窓の外の、ただ流れていくだけの景色を眺めながら、そっと目を閉じた。遠い潮騒の音が、聞こえた気がした。