終焉の触覚と始まりの都市

終焉の触覚と始まりの都市

0 4600 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 砂塵の囁き

カイの手が、砂に半ば埋もれた真鍮の羅針盤に触れた瞬間、世界が灼熱の白光に塗り潰された。彼の意識は、見知らぬ男の絶望に叩き込まれる。ぎらつく太陽、肌を焼く熱風。男は喘ぎながら、今まさにカイが触れている羅針盤を握りしめていた。「アウローラは、この先に…」かすれた声が、砂嵐の轟音にかき消される。次の瞬間、羅針盤が男の手から滑り落ち、岩に叩きつけられて粉々に砕け散った。それが、この羅針盤の〝最後の記憶〟だった。

意識が現在に戻ると、カイの額には脂汗が滲んでいた。指先には、ひび割れた真鍮の冷たい感触だけが残っている。これが彼の呪いであり、唯一の道標だった。カイは、触れた無機物の〝最後の記憶〟を見ることができる。それは常に「終わり」の光景だった。壊れる瞬間、捨てられる瞬間、忘れ去られる瞬間。連続した物語はなく、ただ、唐突な終焉だけが彼の脳裏に焼き付く。

人々は彼の能力を「終焉の触覚」と呼び、不吉なものとして遠ざけた。カイ自身も、他人の温もりに触れることを恐れた。もし友の手を取り、その人生の〝最後〟を見てしまったら? 考えただけで、身の内が凍るようだった。だからカイは、誰とも交わらず、たった一人で旅を続けている。

目的は、古文書に記された伝説の「始まりの都市アウローラ」。そこへ行けば、あらゆる呪いが解け、新しい生を始められるという。カイにとって、それは過去を捨て、この忌まわしい能力から解放される唯一の希望だった。

彼は立ち上がり、砂を払った。砕けた羅針盤は、もはやどの方角も示さない。だが、カイには分かっていた。記憶の中の男が見つめていた、あの陽炎の揺らめく彼方へ進めばいい。カイは背負った古びた革袋の紐を握りしめ、あてどない砂の海へと、再び一歩を踏み出した。風が彼の頬を撫で、まるで無数の死者の囁きのように、乾いた砂塵を巻き上げていった。彼の冒険は、いつだって終わりの欠片を拾い集めることから始まるのだ。孤独で、静かで、途方もない旅だった。

第二章 沈黙の共鳴

塩の結晶が白く輝く岩塩平原を抜けた先、風化した石造りの家々が点在する小さな集落で、カイはリラと出会った。彼女は、井戸の縁に腰掛けて、ただ空を眺めていた。亜麻色の髪が風に揺れ、大きな瞳は、まるで世界の成り立ちそのものを見つめているかのように澄んでいた。

カイが水を分けてもらおうと声をかけたが、彼女は何も答えなかった。代わりに、カイの持つ革袋に興味を示し、指をさした。中には、これまでの旅で集めてきた遺物の数々が入っている。割れた杯、錆びた鍵、弦の切れた楽器。カイは警戒しながらも、一つの小さなオルゴールを取り出して見せた。

リラはそれを物欲しそうに見つめる。カイはため息をつき、無言でオルゴールに触れた。――視界が歪む。華やかな舞踏会。楽しげな音楽。一人の少女が、そのオルゴールを宝物のように抱きしめている。しかし、次の瞬間、屋敷に火の手が上がり、黒煙がすべてを覆い尽くす。オルゴールは床に落ち、甲高い音を立てて沈黙した。――

カイが目を開けると、リラが彼の顔をじっと覗き込んでいた。彼女はカイの能力を見ても、悲鳴を上げたり、気味悪がったりしなかった。それどころか、その大きな瞳には、悲しみと、そして不思議な共感の色が浮かんでいた。彼女はカイの手を取り、自分の胸にそっと当てた。カイが驚いて手を引こうとするが、彼女は離さない。

だが、何も見えなかった。人の温もりだけが、じわりと伝わってくる。生きている人間の〝最後〟は、まだ訪れていないからだ。カイは初めて、自分の能力が通用しない温もりに触れた。その事実に、彼の心は激しく揺さぶられた。

その日から、リラはカイについてくるようになった。彼女は言葉を話さなかったが、その存在はカイの孤独を少しずつ溶かしていった。カイが遺跡で新たな遺物を見つけ、その〝最後の記憶〟を見て眉を顰めると、リラは隣に座り、まるで悲しい物語を聞くかのように、静かに彼の背中を撫でた。

二人は共に、「星屑の石板」の欠片を探した。それはアウローラの場所を示す唯一の地図だと伝えられていた。欠片に触れるたび、カイは絶望的な〝終わり〟を見た。研究者が「これでは駄目だ」と叫びながら石板を叩き割る記憶。神官が「我々の祈りは届かなかった」と嘆き、欠片を谷底へ投げ捨てる記憶。どれもこれも、希望とは程遠い光景だった。

それでも、旅は辛くなかった。隣にリラがいるからだ。夕暮れ時、焚き火を囲みながら、リラはカイが集めたガラクタを並べて遊ぶ。カイは、彼女が作り出す他愛のない物語を、ただ黙って眺めている。初めてだった。誰かと時間を共有することが、こんなにも満たされた気持ちになるとは。カイは、アウローラに着いたら、この呪いを解き、リラと普通の人生を送りたいと、そう強く願うようになっていた。

第三章 始まりの終焉

月明かりが古代の円形劇場を銀色に染める夜、二人はついに最後の石板の欠片を見つけ出した。苔むした祭壇の中央に、それは静かに安置されていた。リラの促す視線を受け、カイは集めたすべての欠片を並べ、パズルのように組み合わせていく。欠片がぴたりとはまった瞬間、石板の表面に刻まれた微細な紋様が、淡い光を放ち始めた。

カイの胸は高鳴っていた。希望が、すぐそこにある。この石板に触れれば、アウローラへの道が開かれる。そうすれば、すべてが終わる。いや、すべてが始まるのだ。彼は深呼吸を一つして、完成した「星屑の石板」に、そっと両手を置いた。

その瞬間、カイの全身を、これまで経験したことのないほどの強烈な奔流が貫いた。

それは、単一の記憶ではなかった。無数の人々の、無数の〝最後〟が、濁流となって彼の意識に流れ込んできたのだ。星が生まれ、そして死んでいく様。文明が栄え、そして滅びていく様。愛が芽生え、そして憎しみに変わる様。喜びと悲しみ、誕生と死、創造と破壊。ありとあらゆる対極の事象が、永遠に繰り返される巨大な環(ループ)となって、彼の精神を締め付けた。

そして、その奔流の中心に、一人の賢者の姿が浮かび上がった。彼は星屑の石板を前に、悲痛な表情で語りかけてくる。これは、この石板に込められた、創造主の〝最後の記憶〟だった。

『我々は、永遠に同じ過ちを繰り返す宿命を負わされている。この世界は、始まりも終わりもなく、ただ苦しみを再生産し続ける、閉じられた物語なのだ。私は、この連鎖を断ち切りたい。この物語に、安らかなる〝終焉〟を与えたい』

賢者の言葉と共に、カイは真実を理解してしまった。

アウローラは、「始まりの都市」などではなかった。

それは、このループする世界そのものを完全に停止させ、無に帰すための、巨大な概念的装置。

「始まりの都市」という名は、苦しみの連鎖から解放された、新しい静寂が〝始まる〟という意味だったのだ。

そして、最悪の真実がカイを打ちのめす。

『この終焉を起動させるには、特別な鍵が必要だ。万物の〝終わり〟に共鳴し、そのエネルギーを束ねることのできる、終焉の理を体現した魂が…』

カイの能力、「終焉の触覚」。

それは呪いではなかった。世界を終わらせるために、この世界自身が生み出した、たった一つの鍵だったのだ。彼は希望を求めて旅をしていたのではない。世界を破滅させるための道具として、運命に導かれていただけだった。

愕然とするカイの視線の先で、リラが静かに立ち上がった。彼女の瞳には、いつもの穏やかさとは違う、深い哀しみが湛えられている。彼女は初めて、声を発した。透き通るような、しかし震える声で。

「ごめんなさい…カイ。私の役目は、あなたがその真実に辿り着くまで、あなたを守ること。そして、あなたが正しい選択をすると、信じることでした」

彼女は、アウローラの起動を阻止するために、永い間、鍵の継承者を見守ってきた「守人」の一族の、最後の末裔だった。言葉を話さなかったのは、カイの運命を決定づけるような言葉を発することを、固く禁じられていたからだ。

希望に満ちていたはずの冒険は、一瞬にして、世界規模の絶望へと反転した。カイは、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 終わらない物語

冷たい夜風が、カイの頬を打った。彼は、光を放つ石板と、哀しげに自分を見つめるリラを、交互に見た。頭の中で、賢者の声が木霊する。「この苦しみの連鎖を、終わらせてくれ」と。

確かに、彼の見てきた世界は〝終わり〟に満ちていた。争い、裏切り、喪失、絶望。触れるものすべてが、悲劇的な結末を彼に告げた。この世界は、終わらせるべきなのかもしれない。永遠に続く苦しみからすべてを解放することが、唯一の救いなのかもしれない。そうすれば、もう誰も傷つかず、悲しむこともない。カイの手が、再び石板へと伸びる。彼の魂を注ぎ込めば、すべてが終わる。

その時、リラが小さく首を振った。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、世界の終わりを嘆く涙ではなかった。カイとの旅の終わりを、嘆く涙だった。

カイの脳裏に、これまでの旅路が蘇る。岩塩平原で見た、息をのむほど美しい朝日。焚き火の暖かさ。リラが、カイの見た悲しい記憶を慰めるように、そっと背中を撫でてくれた温もり。割れた杯で花に水をやる彼女の姿。弦の切れた楽器を、楽しそうに爪弾く仕草。

それらはすべて、不完全で、壊れていて、いずれは〝終わり〟が来るものばかりだった。だが、その終わりまでの時間の中に、確かに美しい瞬間があった。温かい感情があった。リラと共に過ごした時間そのものが、カイにとっての「始まり」だったのだ。

カイは、ゆっくりと石板から手を離した。そして、おそるおそる、リラへと手を差し伸べた。彼は、彼女の華奢な手を取った。

温かい。

〝最後の記憶〟は見えない。

なぜなら、彼女との物語は、まだ終わっていないからだ。この温もりは、今、ここに確かに存在しているのだから。

「…そうか」カイは、ほとんど呟くように言った。「俺のこの力は、呪いじゃなかったんだ。まだ終わっていないものが、どれだけ尊いものなのかを教えてくれるための…そういう力だったのかもしれない」

彼は石板を抱え上げると、リラに向かって微笑んだ。それは、何年もの孤独の末に、彼が初めて見せた心からの笑顔だった。

「終わらせないよ。こんなに温かいものを、俺が終わらせてたまるか」

二人は、アウローラを起動させることなく、その場を離れた。星屑の石板は、誰の目にも触れない大地の深い裂け目へと、静かに沈められた。もう二度と、世界の終わりを囁くことはないだろう。

カイとリラの新たな冒D険が始まった。それは、伝説の都市を探す旅ではない。ただ、二人で明日を迎えるための旅だ。時には傷つき、時には失うこともあるだろう。世界は相変わらず不完全で、悲しみに満ちているのかもしれない。

だが、カイはもう恐れなかった。彼はリラの手を固く握る。その温もりの中に、まだ終わらない、無限の物語の始まりを感じながら。空には満天の星が輝き、まるで二人のささやかな船出を、祝福しているかのようだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る