第一章 残響のオルゴール
リクトの世界は、一枚の薄い皮手袋を隔てて存在していた。革の匂いが、彼にとっての現実の香りだった。友人も、恋人もいない。誰かの肌に触れる温もりも、道端に転がる石ころの冷たさも、彼にとっては遠い世界の出来事だった。触れることが、呪いだったからだ。
彼には、物や人に触れると、その対象が最後に宿した強烈な記憶――喜び、悲しみ、怒り、そして絶望――が、奔流となって精神になだれ込んでくる特殊な能力があった。人々はそれを「サイコメトリー」と呼ぶのかもしれないが、リクトにとっては単なる暴力的な情報の洪水、「エコー」でしかなかった。だから彼は、世界から自らを遮断した。傷つかないために、傷つけないために。
そんな彼にとって唯一の例外は、三年前に謎の失踪を遂げた姉、ミナだった。ミナだけは、リクトが触れても穏やかな陽だまりのような感情しか返ってこなかった。彼女はリクトの防波堤であり、世界そのものだった。
その姉が消えた日、世界は色を失った。警察は家出として早々に捜査を打ち切り、リクトは広すぎる家で一人、時が止まったかのように生きていた。
ある雨の夜だった。屋根裏部屋の整理をしていたリクトの足が、床に置かれた木箱にぶつかった。中から転がり出たのは、見覚えのある小さなオルゴール。姉が大切にしていた、星形の彫刻が施されたものだった。思わず、素手でそれを拾い上げてしまった。
瞬間、世界が反転した。
脳髄を直接掴まれるような衝撃。姉のものではない、焦燥と悲鳴に近い感情が渦を巻く。知らない男の絶望。そして、最後に響いたのは、紛れもない姉の声だった。
『――《沈黙の谷》へ行かなければ。あの子を……リクトを守るために』
声と共に、視界に断片的な映像が焼き付く。空が奇妙な紫色に染まった、荒涼とした岩だらけの谷。風の音すらしない、 абсолютな静寂。そして、姉の頬を伝う一筋の涙。それが、オルゴールに残された最後のエコーだった。
リクトは床に崩れ落ち、喘いだ。なぜ姉は、そんな場所へ? 「リクトを守るため」とは、一体どういう意味なのか? 失踪ではなかった。姉は自らの意志で、どこかへ向かったのだ。
呪われたこの手だけが、姉の行方を知る唯一のコンパスだった。リクトは震える手で、革手袋をはめ直した。手袋越しの世界が、初めてひどくもどかしく感じられた。明日、この家を出よう。あの《沈黙の谷》を目指して。たとえ、その道行きが、無数の絶望的なエコーに満ちていたとしても。リクトの止まっていた時間が、錆びついた音を立てて、きしみながら動き始めた。
第二章 触れる世界の痛み
旅は、想像を絶する苦痛との戦いだった。リクトは姉が残したわずかな所持品――使い古したコンパス、道中で買ったであろう水の革袋、そして数枚の地図――に触れ、断片的なエコーを頼りに南を目指した。
コンパスに触れれば、道に迷った旅商人の焦りが流れ込む。革袋に触れれば、喉の渇きに苦しんだ持ち主の記憶が、リクト自身の渇きとなる。彼は能力を使うたびに、他人の人生の終着点や、最も辛い瞬間を追体験させられた。それは精神をやすりで削り取られるような行為だった。
ある寂れた宿場町で、彼は朽ちかけたベンチに腰掛けた。手袋をはめたまま、そっと背もたれに触れる。途端に、優しいエコーが流れ込んできた。何十年も前、ここで恋人の帰りを待ち続けた女性の、切なくも温かい記憶。待ち人はついに帰らなかったが、彼女の記憶には後悔よりも、愛した日々の輝きが満ちていた。
リクトは目を見開いた。エコーは、苦痛や絶望だけを伝えるものではなかったのだ。それは、名もなき人々の生きた証であり、確かに存在した温もりの残響でもあった。彼は初めて、この能力が持つ別の側面に気づかされた。
旅を続けるうち、リクトは少しずつ変わっていった。以前は忌み嫌っていたエコーを、慎重に、しかし能動的に読み解くようになった。道端に落ちている錆びた蹄鉄に触れ、馬が駆け抜けた力強い生命力を感じる。打ち捨てられた農具に触れ、家族のために汗を流した農夫のささやかな誇りを感じる。
世界は、彼が思っていたよりもずっと豊かで、複雑な感情で満ちていた。手袋越しのぼんやりとした風景が、少しずつ輪郭を持ち始める。他人の痛みに共感し、他人の喜びに心を震わせる。それは孤独だった彼が、初めて世界と繋がるための儀式だったのかもしれない。
しかし、姉の目的地である《沈黙の谷》に近づくにつれて、エコーの質は不気味に変化していった。物に宿る記憶が、薄れていくのだ。まるで、何かが記憶そのものを吸い上げているかのように。道端の石はただの石で、風はただの風。あらゆるものから感情の彩りが抜け落ち、世界が再びモノクロームへと退行していくような感覚。
不安に駆られながらも、リクトは歩き続けた。そしてついに、地平線の先に、紫色の靄がかかった異様な谷の入り口が見えた。そこには、風化しかけた看板が立っていた。リクトは深呼吸を一つして、看板の木肌に、素手を伸ばした。
第三章 沈黙の谷の真実
触れた瞬間、リクトの全身を凄まじい虚無が貫いた。記憶がない。感情がない。ただひたすらに、「無」が広がっているだけだった。看板は、そこに在ったという事実以外のすべてを奪われていた。
ここが《沈黙の谷》――。
一歩足を踏み入れると、その名の意味を理解した。音が、ない。風が頬を撫でる感覚はあるのに、風の音はしない。自分の足音が聞こえない。心臓の鼓動すら、内側で微かに響くだけで、外の世界には一切漏れ出さない。ここは、あらゆる情報が死に絶えた場所だった。
リクトは恐怖に耐えながら、谷の奥へと進んだ。姉の気配を探すが、この無音の世界ではエコーは完全に沈黙していた。やがて、谷の中心近くで、岩陰に転がる一つのランタンを見つけた。姉が愛用していた、三日月の透かし彫りがあるものだ。
これなら、何か分かるかもしれない。リクトは祈るような気持ちでランタンに触れた。
そして、彼の世界は完全に崩壊した。
流れ込んできたのは、姉の最後の、そして最も衝撃的なエコーだった。それは、リクトの知る姉の記憶ではなかった。悲壮な覚悟に満ちた、知らない姉の魂の叫びだった。
『――ごめんね、リクト。私はあなたを騙していた』
姉の言葉と共に、真実がリクトの脳裏に叩きつけられた。
リクトの能力は、単なるサイコメトリーではなかった。彼は触れたものの記憶を「感じる」のではない。記憶を「吸収」し、自らの糧としていたのだ。彼が成長するにつれてその力は増し、やがては人の記憶、町の記憶、そして世界の記憶そのものを無意識のうちに喰らい尽くす存在になる運命にあった。
リクトが他者との接触を避けて生きてこられたのは、姉が常にそばにいて、リクトが吸収するはずだった過剰な記憶を、その身で受け止め、浄化してくれていたからだった。姉は、リクトという存在が世界を破壊する前に、その能力を永久に封じる方法を探していたのだ。
そして、この《沈黙の谷》こそが、その答えだった。ここは、古代の「記憶を喰らうもの」が暴走した果てに生まれた、世界の「傷跡」。姉は、この谷の原理を解明し、自らの全存在を触媒として、リクトの能力を封じ込める巨大な封印を築こうとしていたのだ。
『あなたを守るため』――その言葉の本当の意味を知り、リクトは声にならない叫びを上げた。姉は失踪したのではない。自分という存在から世界を守るため、そして何より、自分自身が怪物になることからリクトを守るため、自らを生贄にしたのだ。
呪われていたのは、この能力ではなかった。呪われていたのは、この自分自身だった。姉を、唯一の家族を、この谷に追いやったのは、他の誰でもない、自分だったのだ。絶望が、無音の谷でリクトの心を完全に満たした。
第四章 繋ぐための手
絶望の淵で、リクトはふらふらと谷の最奥へと歩いた。そこには、信じられない光景が広がっていた。谷の中心にある巨大な水晶のような岩。その中で、姉のミナが、穏やかな表情で眠るように佇んでいた。彼女は石化していた。自らの記憶と存在のすべてを、この谷の封印に変えて。
「姉さん……」
かすれた声は、音になることなく霧散した。もう、彼女に触れても、あの温かいエコーは感じられないだろう。すべては失われ、自分だけが、彼女の犠牲の上で生き残ってしまった。
リクトは膝から崩れ落ちた。もうどうでもよかった。このまま、この無音の世界で朽ち果ててしまおうか。そう思った時、石化した姉の姿が、夕陽の名残のような淡い光を放った気がした。
吸い寄せられるように、リクトは立ち上がり、姉の石像に近づいた。そして、震える素手を、その冷たい頬に、そっと触れさせた。
その瞬間、流れ込んできたのは、予想していた虚無ではなかった。最後に残された、たった一つの、純粋なエコー。それは言葉ではなく、映像でもない、ただひたすらに温かく、どこまでも深い、純粋な愛情の奔流だった。
『あなたの力は、奪うためじゃない。繋ぐためにあるのよ』
姉の魂が、そう語りかけてきた。
そうだ。姉は、この力を封じるためだけに来たのではない。自分がこの力を正しく使えるようになると、信じてくれていたのではないか。
涙がとめどなく溢れた。しかし、それは絶望の涙ではなかった。感謝と、決意の涙だった。
リクトは姉の石像から手を離すと、手袋を脱ぎ捨て、もう片方の素手を、記憶を失った谷の大地へと強く押し付けた。
もう、奪わない。吸収しない。
今度は、僕から与える番だ。
リクトは目を閉じ、意識を集中させた。自分の記憶――姉と過ごした日々の温もり、旅の途中で触れた名もなき人々の人生の輝き、そして、姉への尽きることのない感謝の気持ち――そのすべてを、自らの内から大地へと、そっと流し込んでいった。
すると、奇跡が起きた。
死んでいた大地が、微かに脈動した。リクトの手のひらの下から、小さな緑の芽が、力強く顔を出したのだ。そして――
――サラサラ……
か細い、だが確かな「音」がした。風が、沈黙を破って囁いたのだ。
見渡せば、谷のあちこちで、小さな草花が芽吹き始めていた。虚無に満ちていた空間に、生命の色と音が、少しずつ戻り始めていた。
姉を元に戻すことはできない。犯した罪が消えることもない。だが、リクトは自分の進むべき道を見つけた。この力は、呪いではない。失われた記憶を繋ぎ、世界に温もりを還すための、祝福なのだ。
彼の冒険は終わった。そして、新たな、果てしない冒険が始まった。
リクトは石化した姉に最後の一瞥を送り、静かに背を向けた。彼の両手はもう、何も恐れてはいなかった。これから触れるであろう世界の痛みも、喜びも、すべて受け止めて、繋いでいく。
紫色の靄が晴れ始めた谷を、一人の青年が歩いていく。その足音は、新たな生命の音に満ちた世界に、確かな一歩として響き渡っていた。