第一章 空から降る海
リアムが住む浮島「セレニテ」は、いつだって穏やかな風に抱かれていた。人々は風を読み、風を編む「風詠み」の力で雲の帆船を操り、点在する島々の間を行き来して暮らしている。リアムもまた、風詠み見習いの一人だった。だが、彼が編む風はいつもどこか不格好で、師匠である祖父からは「お前の風には芯がない」と嘆かれるばかりだった。その言葉は、彼の心の奥に、小さな棘のようにずっと刺さっていた。
その日も、リアムは島の高台にある風見の丘で、一人訓練に励んでいた。両手を広げ、意識を集中させる。指先に絡みつくはずの風の流れが、まるで気まぐれな獣のように彼の制御をすり抜けていく。「くそっ……どうしてだ」苛立ちと共に呟いたその時だった。
空の様子がおかしい。
いつもは紺碧と純白のまだら模様であるはずの天空の一点が、奇妙に淀み、黒ずんでいた。それはまるで、巨大な絵画に誤って落とされた、一滴のインクのようにじわじわと広がっていく。島中の人々が空を見上げ、不安げに囁き合っていた。
次の瞬間、世界から音が消えた。いや、そう感じただけだ。耳をつんざくような轟音と共に、その黒い染みから何かが降り注いできたのだ。それは雨ではなかった。もっと粘り気があり、重々しい。リアムは呆然と手のひらを差し出した。そこに落ちてきた数滴の液体は、生暖かく、そして――塩辛かった。
「海だ……」
誰かが絶叫した。伝説にしか存在しない、大地の底にあるとされる塩水の大河。それが、なぜ空から? パニックは瞬く間に伝播した。降り注ぐ海水は、島の貴重な真水を汚し、畑の作物を枯らし始めた。見たこともない銀色の魚や、螺旋を描く貝殻が、ゴツゴツとした音を立てて家々の屋根を打つ。それは、世界の理が根底から覆る、悪夢のような光景だった。
リアムは、塩の匂いが混じる風の乱れの中に、巨大な何かの「嗚咽」のような響きを感じ取っていた。他の誰にも聞こえない、苦痛に満ちた音。それは、彼の不格好な風詠みの力が、初めて捉えた明確な「声」だった。この空に、何かがいる。そして、それはひどく悲しんでいる。リアムの胸に、劣等感とは質の違う、焦燥と使命感が初めて芽生えた瞬間だった。
第二章 風詠みの古文書
空から海が降る現象――後に「空葬」と呼ばれることになる厄災は、日を追うごとに激しさを増していった。セレニテだけでなく、風の便りが届く限りの浮島が、同じ災禍に見舞われているらしかった。長老たちは原因不明の天変地異に祈りを捧げるばかりで、有効な手立ては何一つ見つからない。
リアムは、あの日感じた「嗚咽」の正体を突き止めようと躍起になっていた。彼は風詠みの古文書が収められている島の最古の書庫に忍び込んだ。埃と乾燥した紙の匂いが満ちる静寂の中、彼は禁書とされている棚に手を伸ばす。そこには、正統な風詠みの教えとは異なる、異端とされる文献が眠っていた。
「何を探しているの? 風詠み見習いさん」
背後からかけられた声に、リアムは心臓が跳ねるほど驚いた。そこに立っていたのは、古代史を研究している変わり者として島で有名な、エラという女性だった。彼女は手に一冊の分厚い本を抱え、悪戯っぽく微笑んでいた。
「あなたも、この空がおかしい本当の理由を知りたいんでしょう?」
エラは、リアムが感じた「嗚咽」の話に、他の誰とも違う反応を示した。彼女は驚くでもなく、むしろ「やはり」と頷いたのだ。彼女が広げた古文書には、信じがたい一節が記されていた。
『我らが住まう空の世界は、星を渡る巨大な"眠り人"の見る儚き夢なり。風とはその寝息、島々はその記憶の欠片。目覚めの刻、夢は大海に還り、空は涙で満たされる』
「"眠り人"……? なんだそれは」リアムは眉をひそめた。
「伝説よ。宇宙を旅する、クジラに似た巨大な生命体。故郷の海を失い、永い孤独の中で眠りについて、その夢の中に私たちを創り出した……という仮説」エラの目は真剣だった。「空葬は、その眠り人が目覚めかけている証拠じゃないかと思うの。空から降る海は、失われた故郷を思い出して流す、悲しみの涙……」
あまりに荒唐無稽な話に、リアムはすぐには信じられなかった。だが、自分の風がうまく編めない理由も、あの日に感じた巨大な悲しみの正体も、この説ならば説明がつく。もし本当にこの世界が誰かの夢だとしたら、目覚めは世界の消滅を意味する。
「この現象の中心地は、全ての風が生まれる場所……『大渦』よ。古文書によれば、そこが眠り人の心臓に最も近い場所らしいわ」
世界の果てにあるとされ、近づく者は誰一人として帰らないという禁忌の場所。リアムの心は決まった。馬鹿げていると笑われてもいい。この手で真実を確かめ、そして、もし可能なら、この悲しむ世界を救いたい。
「行くよ、大渦へ」
リアムの決意に満ちた目に、エラは静かに頷いた。彼女もまた、自らの生涯をかけた研究の答えを、そこに見出そうとしていた。二人は小さな雲の帆船に乗り込み、塩辛い絶望の雨が降りしきる空へと、静かに旅立った。
第三章 眠り人の心臓
大渦への旅は、想像を絶する過酷さだった。空は常に暗く、塩の雨は嵐となって二人を打ちのめす。リアムは、必死に風を読み、帆を操った。不思議なことに、大渦に近づくにつれて、彼の風詠みの力は以前とは比べ物にならないほど鋭敏になっていた。彼はもはや風を「操る」のではなく、風と「対話」しているような感覚だった。風の嘆き、怒り、そしてその奥にある途方もない孤独を、肌で感じ取っていた。
何日も航海を続けた末、彼らはついに世界の果てにたどり着く。そこには、天と空の境界をなくすほどの巨大な雲の渦が、黙示録の獣のように渦巻いていた。それが大渦。全ての風の源にして、墓場。
「ここが……」
エラの声は畏怖に震えていた。渦の中心からは、空葬の雨とは比較にならないほどの濃密なエネルギーが放出され、空間そのものが歪んでいるようだった。
「僕が行く」
リアムはエラを船に残し、一人で渦の中心へと向かった。彼の不格好な風は、今やこの荒れ狂う大渦の息遣いに完全に同調していた。彼の存在そのものが、風の一部と化していく。
渦の中心は、意外なほど静かだった。そこには、巨大な光の柱が、天から地(という概念があるならば)へと突き刺さるように屹立していた。それは鼓動しているかのように、明滅を繰り返している。これが、"眠り人"の心臓。リアムは直感した。
彼は震える手を伸ばし、光の柱にそっと触れた。
その瞬間、リアムの意識は肉体を離れ、光の奔流に飲み込まれた。
――果てしない暗黒の宇宙。たった独りで泳ぎ続ける、星々よりも巨大な生物の姿が見える。彼は故郷を失った。仲間もいない。幾億年という孤独な旅の末、彼は眠りにつくことを選んだ。せめて夢の中では、温かい故郷の海と、賑やかな仲間たちに会えるように。
しかし、夢は記憶を裏切る。海の記憶は薄れ、代わりに空が生まれた。仲間たちの記憶は、島々で暮らす人々になった。彼は、自分が夢を見ていることさえ忘れ、ただ穏やかに眠り続けていた。
だが、その永い眠りが、今、終わろうとしている。何かが彼を目覚めさせようとしている。目覚めは、即ち、夢の世界の終わり。リアムたちが生きる、この世界の完全な消滅を意味していた。
空葬は、眠り人の悲しみの涙ではなかった。それは、目覚めが近いことによる、夢の世界の崩壊の兆候だったのだ。風詠みの力とは、風を操る魔法などではない。この巨大な生物の「呼吸」に同調し、その意識の片鱗に触れるための、特殊な感応能力だった。リアムがずっと劣等感を抱いていた不器用な力こそが、誰よりも深く、眠り人の孤独に寄り添える証だったのだ。
全ての真実を悟ったリアムの頬を、一筋の涙が伝った。それは、世界の終わりを嘆く涙ではなかった。計り知れないほどの時を、たった独りで夢の中に閉じこもってきた、この偉大で孤独な創造主への、深い共感と慈しみの涙だった。
第四章 星の夢に捧ぐ歌
意識が肉体に戻った時、リアムは自分が泣いていることに気づいた。光の柱は、彼の感情に呼応するかのように、より一層激しく明滅を繰り返している。世界の崩壊が、刻一刻と近づいていた。
「リアム!」エラの叫び声が、遠くから聞こえる。
世界を救う方法は一つしかない。眠り人を、再び深い、安らかな眠りへと誘うことだ。しかし、それは彼を永遠の孤独に再び閉じ込めることに他ならない。それは、あまりにも残酷ではないか? 目覚めさせてやりたい。永い孤独から解放してやりたい。だが、それは愛する故郷と、そこに生きる全ての人々を見殺しにすることになる。
リアムは、これまでの人生で感じたことのないほどの葛藤に苛まれた。劣等感に悩み、自分の価値を証明したかったちっぽけな自分。だが今、彼の両肩には、一つの世界の存亡と、一つの偉大な魂の運命が、同時にのしかかっていた。
彼は、決断した。
リアムは目を閉じ、再び意識を集中させた。だが今度は、力でねじ伏せるのではない。彼は風を編むのをやめた。代わりに、彼は歌い始めた。それは声に出す歌ではない。彼の魂そのものを旋律に乗せた、風の歌だった。
彼の風は、子守唄のように優しく、光の柱を撫でた。彼は、この夢の世界の美しさを伝えた。セレニテの丘に咲く小さな花のこと。市場の賑わい。子供たちの笑い声。エラのような探求者の情熱。そして、不器用ながらも必死に生きてきた、自分自身のちっぽけな人生。
『あなたの夢は、無意味なんかじゃなかった』
『こんなにも温かく、美しい世界になったんだ』
『だから、どうか、安らかに。もう少しだけ、その美しい夢を見続けてほしい』
『あなたの孤独には、僕たちが寄り添うから。あなたの寝息を、僕たちは祝福の風として感じているから』
それは祈りであり、感謝であり、そして孤独な創造主への愛の告白だった。
リアムの魂の歌は、眠り人の心臓に届いた。激しい鼓動は次第に穏やかになり、荒れ狂っていた大渦は凪いでいく。空を覆っていた暗雲は晴れ、空葬の雨が止んだ。代わりに、どこまでも優しく、温かい陽光が世界に差し込んだ。
世界の崩壊は、食い止められた。
リアムは、持てる力の全てを使い果たし、その場に崩れ落ちた。エラが駆け寄り、彼をしっかりと抱きしめる。彼はもう、以前のように鋭敏に風を感じることはできなかった。風詠みとしての特別な力は、ほとんど失われてしまったのかもしれない。
だが、リアムの心は、不思議なほど満たされていた。劣等感の棘は跡形もなく消え去り、そこには世界と、そして孤独な創造主と深く繋がったという、静かで揺るぎない誇りだけが残っていた。
人々は、空が晴れたことを奇跡だと喜び、神に感謝した。なぜ災いが起き、そして去っていったのか、その真実を知る者は誰もいない。
セレニテに戻ったリアムとエラは、ただ黙って空を見上げた。そよぐ風が、今はっきりと感じられる。それは、宇宙のどこかで眠り続ける巨大な生物の、穏やかで、満ち足りた寝息だった。この儚くも美しい世界が、その優しい寝息の上にある限り、生命は続いていくだろう。リアムは、その風を頬に受けながら、静かに微笑んだ。