砂の讃美歌
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砂の讃美歌

第一章 忘れられた紋様の男

街は緩やかに死にかけていた。建物の角は風に削られ、石畳は砂となって路地を埋め、人々が交わす言葉さえも乾いた音を立てて崩れていく。世界は「忘却の侵食」と呼ばれる熱病に侵されていた。人々が何かを信じ、記憶する力が弱まるにつれ、その対象が物理的な形を失っていくのだ。

その街の片隅に、レオという男がいた。

彼の存在は、崩れゆく世界そのものを体現していた。忘れ去られた神々の名、失われた恋の詩、二度と奏でられることのない子守唄。それらが彼の肌に、不可視の紋様となって浮かび上がっていた。人々は彼の横を通り過ぎるが、その瞳は彼を映さない。まるで、すりガラス越しに風景を眺めるように、彼の輪郭は曖昧だった。

レオは崩れかけた噴水の縁に腰掛け、錆びた蛇口からかろうじて滴る水を眺めていた。かつてここには、水を司る精霊への信仰があったという。彼はそっと噴水に触れ、忘れられた祈りの言葉を囁いた。すると、彼の腕に刻まれた流水の紋様が淡い光を放ち、蛇口から勢いよく水が溢れ出した。子供たちの幻影がはしゃぎながら現れ、すぐに陽炎のように消える。

だが、奇跡は束の間だった。レオが手を離すと、水は再び細り、噴水は一層深く崩れた。そして彼の腕には、また一つ、見知らぬ紋様が疼きながら浮かび上がった。紋様が増えるほど、彼は忘れられた物事を現実に呼び戻す力を得た。だがその代償に、彼自身の存在はさらに希薄になっていく。世界を繋ぎ止めようとするほど、世界から切り離されていくのだ。

空を見上げると、巨大な時計塔の針が、まるで砂の重みに耐えかねるように、ゆっくりと傾いでいた。あの時計塔が刻んでいた「時の神」の名も、もう誰も覚えてはいない。

「僕が忘れない限りは、まだ……」

その声は誰にも届かず、乾いた風に攫われて消えた。

第二章 砂の図書館と盲目の司書

世界の崩壊を食い止めるには、「最初の信仰」を思い出すしかない。全ての信仰の源泉であり、世界を形作ったとされる根源的な力。その伝説だけが、かろうじて人々の記憶の隅に残っていた。

レオは手がかりを求め、街で最も古く、そして最も忘れられた場所へと向かった。埃と静寂が支配する「砂の図書館」。そこは、本という形を失い、物語が砂粒となって堆積する場所だった。

重い扉を開けると、古紙と砂の混じった匂いが鼻をついた。床にも、書架にも、砂が降り積もっている。レオが一歩踏み出すたびに、足跡が静かに沈んだ。

「どなた?」

奥から、澄んだ声が響いた。声の主は、エリアナと名乗る盲目の司書だった。彼女はこの図書館で、失われた物語の声を聴き続けている唯一の人間だった。彼女の瞳は何も映さなかったが、その代わり、世界の微細な振動を感じ取ることができた。

レオは名乗ろうとして、口ごもった。自分の名前さえ、もう誰にも認識されないのだから。

しかしエリアナは、静かに彼の前まで歩み寄ると、その細い指を彼の腕に伸ばした。彼女の指先が、不可視のはずの紋様を正確になぞっていく。

「……ああ、あなたでしたか。噂に聞いていました。『忘れられたもの』をその身に宿す方」

「僕が見えるのか?」

「いいえ。でも、聴こえます。あなたの肌に刻まれた、たくさんの物語の悲鳴が」

エリアナは言った。この図書館の最深部に、「記憶の砂箱」と呼ばれる遺物があること。それは、世界からこぼれ落ちた最も古く、重要な記憶の断片が集まる場所であること。そして、「最初の信仰」の鍵も、おそらくはその中にあるだろうと。

第三章 記憶の奔流

エリアナに導かれ、レオは図書館の地下深くへと降りていった。空気は冷たく、湿り気を帯びている。最深部の小部屋の中央に、黒曜石で作られた簡素な箱が静かに置かれていた。それが「記憶の砂箱」だった。

蓋はなく、中には星屑のようにきらめく微細な砂が満たされている。

「気をつけて。この砂は、触れた者の記憶を奪い、代わりに忘れられた記憶を視せる」

エリアナの警告を背に、レオは覚悟を決めて箱に手を差し入れた。

その瞬間、冷たい砂の感触と共に、凄まじい奔流が彼の意識を飲み込んだ。

見たこともない都市の栄華。空を駆ける幻獣の咆哮。英雄が掲げた剣の輝き。恋人たちが交わした永遠の誓い。人知れず流された涙の味。無数の記憶、無数の感情が、彼の精神を焼き尽くさんばかりに流れ込んでくる。

「ぐっ……ぁっ……!」

レオはその場に膝をついた。彼の体に浮かぶ紋様が、砂箱の砂と共鳴するように激しく明滅を繰り返す。彼の身体が、足元から透き通り始めていた。記憶の洪水を受け入れるたびに、彼という個の輪郭が失われていく。それでも彼は、砂から手を離さなかった。この痛みの中にこそ、答えがあるはずだと信じて。

第四章 加速する忘却

レオが砂箱に触れて以来、世界の崩壊は明らかに速度を増した。

彼が忘れられた英雄の記憶を呼び覚ませば、街を守っていた城壁の一部が轟音と共に砂と化し、彼が失われた豊穣の神の名を思い出せば、広大な麦畑が一夜にして不毛の砂漠に変わった。

「どうしてなんだ……!」

レオは叫んだ。彼は世界を救うために記憶を呼び起こしているのに、現実はその逆だった。

図書館に戻ったレオに、エリアナは悲痛な面持ちで告げた。

「砂箱は、忘れられた記憶の貯蔵庫であると同時に、世界の信仰の均衡を保つ錘(おもり)でもあったのです。あなたが記憶を一つ取り出すたびに、世界のどこかから、同等の信仰が失われている……。あなたは、救世主であると同時に、破壊者でもあるのかもしれない」

その言葉は、レオの心を深く抉った。街を行き交う人々は、以前にも増して不安げな表情を浮かべていた。彼らの瞳に映る世界の色彩が、日に日に失われていくのがレオには分かった。そして、彼らがレオの存在を認識できなくなるのと同じ速度で、彼ら自身もまた、互いの存在を忘れ始めているようだった。

遠くで、あの時計塔が軋む音がした。世界の心臓が、止まりかけている。

第五章 最初の信仰

もう時間がない。

このままでは、自分が完全に消えるか、世界が完全に崩壊するか、どちらが早いかという問題だった。レオは自らの消滅を覚悟した。彼はエリアナに短く別れを告げると、再び記憶の砂箱の前に立った。

今度は、躊躇わない。

彼は両腕を、肩まで深く、砂箱の中に沈めた。

「僕のすべてをくれてやる。だから、教えてくれ。世界が始まった時の、あの温かい光を」

全身の紋様が灼熱の烙印のように痛み、意識が遠のいていく。身体が光の粒子となって霧散していく感覚。その、消滅の淵で、彼はついに見た。

幻視の中に神も英雄もいなかった。壮大な奇跡も、荘厳な儀式もなかった。

そこにあったのは、ただ、焚き火を囲む原始の家族だった。父が子に物語を語り、母が赤子に子守唄を歌い、老人が若者に知恵を授ける。彼らは互いの顔を見つめ、互いの名を呼び、互いの存在を確かめ合っていた。

「あなたがそこにいることを、私は覚えている」

「あなたがしてくれたことを、私は忘れない」

それこそが、「最初の信仰」だった。特定の対象への祈りではない。他者を思い、記憶し、信じるという、人と人との間に生まれる絆そのもの。世界とは、その無数の絆が織り上げたタペストリーに他ならなかったのだ。

人々が互いを忘れ始めたことで、タペストリーの糸がほつれ、世界は崩壊を始めた。

真実を悟ったレオの頬を、一筋の涙が伝った。彼が何をすべきか、もう迷いはなかった。失われた神々を世界に戻すのではない。この世界に、決して忘れられることのない、新しい「絆」の記憶を刻み込むのだ。

第六章 名もなき讃美歌

「エリアナ、ありがとう。君だけが、僕を覚えていてくれた」

レオは誰にも聞こえない声で囁き、砂箱を強く抱きしめた。彼は最後の力で、自らの存在そのものを世界に還すことを選んだ。彼自身の記憶、体に刻まれた全ての忘れられた物語、そして「レオ」という一人の男の存在そのものを。

「僕が、最後の『忘れられたもの』になる」

彼の身体は、眩い光の奔流となった。紋様は金色の文字や模様に姿を変え、図書館の天井を突き破って空へと舞い上がっていく。それはまるで、世界に向けた壮大な讃美歌のようだった。

街の人々は何が起きたのかも分からぬまま、空を覆う黄金の光を見上げていた。なぜか胸が締め付けられ、訳もなく涙が溢れた。その光が地上に降り注ぐと、奇跡が起こった。砂は再び石畳に、崩れた建物は元の姿に、乾いた大地には緑が蘇っていく。侵食されていた世界が、猛烈な勢いで再構築されていった。

砂の図書館で、エリアナは一人、その光の気配を感じていた。レオの存在が、完全に世界から消滅したことを悟った。彼女は壁に手をつき、その場に崩れ落ちた。

「レオ……」

その名は、もう彼女以外の誰も知らない。彼女は、世界で最後の、彼の記憶の番人となった。

第七章 残された信仰

世界は、救われた。

街には活気が戻り、人々の顔には笑みが浮かんだ。だが、彼らはなぜ自分たちが救われたのかを知らない。彼らの心には、説明のつかない、仄かな喪失感と、漠然とした感謝の念だけが残されていた。

「何か偉大で、尊いものが、私たちを救ってくれた」

それは、新しい信仰の芽生えだった。特定の神や偶像を持たない、名もなき犠牲への祈り。その信仰は、皮肉にも、人々が忘れかけていた「他者を思う心」を再び強固に結びつけた。

復興した街の広場。子供たちが輪になって、新しい歌を歌っている。その素朴なメロディーは、誰も知らないはずの、かつてレオが口ずさんだ忘れられた子守唄にどこか似ていた。

人々は時折、空を見上げる。晴れた日の陽光の中に、ごく稀に、金色の紋様のような光がきらめいて見えることがあるからだ。人々はそれを「救い主の涙」と呼び、静かに手を合わせるようになった。

レオという男は、もうどこにも存在しない。

だが彼は、人々の心に生まれた新しい信仰そのものとなって、この世界に永遠に縛り付けられた。彼は存在しない。しかし、確かに信じられ続けている。

広場のベンチに座っていたエリアナは、空にきらめく光を見上げ、そっと微笑んだ。彼女の耳にだけは、風に乗って運ばれてくる、懐かしい彼の讃美歌が聴こえているような気がした。


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