忘却の森と空の青を識る者

忘却の森と空の青を識る者

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第一章 色を失くした空

リアンがその異変に気づいたのは、朝の光が木窓の隙間から細く差し込んだ時だった。いつもなら、そこには空の欠片のような澄んだ青色が映り込むはずだった。だが、今朝の光はどこか虚ろで、色味のない、ただ白々しいだけの輝きだった。

彼は寝台から身を起こし、窓を開け放った。そして息を呑む。

空が、なかった。

いや、正確には「空の青色」が、世界からごっそりと抜け落ちていた。頭上に広がるのは、まるで巨大な乳白色の陶器で蓋をされたかのような、のっぺりとした無色の天井。雲は羊毛のように浮かんでいるが、その陰影すらも曖昧で、すべてが色褪せた古い絵画のようだった。

「どう……なってるんだ?」

リアンは急いで外に飛び出した。村はいつも通りの朝を迎えていた。パン屋の煙突からは香ばしい匂いが立ち上り、井戸端では女たちが楽しげに洗濯をしている。だが、誰も空の異変に気づいていない。それどころか、誰も空を見上げようとすらしなかった。

「おい、見てくれよ! 空が……空の色が!」

リアンが近くにいたパン屋の主人に叫ぶと、彼は怪訝そうな顔でリアンを見返した。

「リアン、どうしたんだ。寝ぼけてるのか? 空はいつもの空だろう」

「いつもって……青くないじゃないか! 真っ白だ!」

「アオ……?」

主人は小首を傾げた。その瞳には純粋な困惑だけが浮かんでいる。「アオ」という言葉が、まるで異国の響きであるかのように。

リアンは愕然とした。村人たちは「青」という概念そのものを失ってしまっているのだ。昨日まで当たり前に口にしていた「青い空」「青い川」という言葉は、彼らの記憶から完全に消え去っていた。

孤独が、冷たい霧のようにリアンの心を包み込んだ。物心ついた時から、彼の左目は光を捉えなかった。世界を片方の目でしか見られない彼にとって、失われたものの感覚は人一倍鋭敏だった。だからこそ、この世界規模の喪失に、彼だけが気づいてしまったのかもしれない。

彼は村の片隅で、古びた道具を修理して暮らす職人の見習いだ。壊れた歯車、錆びついた蝶番。彼はそれらに触れると、モノが持つ微かな記憶の残滓――「声」のようなものを感じることができた。それは周囲から気味悪がられるだけの、呪いのような力だった。しかし今、この呪いが、世界でたった一人、真実を識る者としての証となっていた。

その日の午後、リアンが工房で途方に暮れていると、戸口に小さな影が立った。

「こんにちは。あなた、何かを失くした人の匂いがする」

鈴を転がすような声だった。そこに立っていたのは、年の頃はリアンと同じくらいだろうか、墨色の髪をした不思議な少女だった。その手には、奇妙な模様が刻まれた古びた羅針盤が握られている。

「君は……?」

「私はルナ。探し物をしているの」

少女はリアンの目を見つめた。その瞳は、夜の湖のように深く、すべてを見透かしているかのようだった。「あなたは、他の人には見えないものが見えるでしょう? 聞こえないものが、聞こえるでしょう?」

リアンの心臓が大きく跳ねた。誰にも話したことのない、己の秘密。

「どうして、それを……」

「私の羅針盤が、あなたを指したから」とルナはこともなげに言った。「これは『世界の綻び』を指し示すの。そして今、この村で一番大きく綻んでいるのは、あなただから」

彼女は一歩踏み込み、リアンの耳元で囁いた。

「失われた『青』を、一緒に取り戻しに行きましょう。あの、すべてが忘れ去られる場所――忘却の森へ」

第二章 忘れられたモノたちの声

忘却の森。村の誰もが、その名を口にすることすら忌み嫌う禁忌の場所。一度足を踏み入れれば、自らの記憶さえも失い、二度と戻ってはこれないという。リアンは、ルナの突拍子もない提案に躊躇した。だが、白々しい空の下で、自分だけが正気を失っていくような恐怖に比べれば、森の伝説など些細なことに思えた。

ルナに導かれるまま、二人は森の入り口に立った。そこは空気が淀み、光と影の境界が曖昧に溶け合っていた。一歩足を踏み入れると、世界から音が消えたような錯覚に陥る。

「ここは、人々から忘れられたモノたちが流れ着く場所」ルナが静かに言った。「名前、歌、感情、そして色。あらゆるものが、ここに眠っている」

森の中は、奇妙な光景に満ちていた。持ち主をなくした片方だけの手袋が、木の枝にいくつもぶら下がっている。忘れられた歌の楽譜が、落ち葉のように地面を覆っている。名前を呼ばれなくなった人形たちが、虚ろな目でこちらを見つめていた。

リアンは、足元に転がっていた錆びた鍵を拾い上げた。それに触れた瞬間、脳裏に温かい記憶が流れ込んできた。――古い家の扉、優しい祖母の笑顔、隠されたお菓子の箱。鍵が守っていた、ささやかな幸福の記憶。

「……声が、聞こえる」

リアンが呟くと、ルナは微笑んだ。「あなたの力は、ここでは呪いじゃない。道標になるのよ」

彼女の言う通りだった。リアンがモノに触れるたび、その「声」が、森の奥へと続く道を微かに示してくれる。それは、忘れられたモノたちの悲しみの残響であり、同時に、まだ消えたくないと願う必死の叫びでもあった。リアンは初めて、自分の能力を疎ましいと思わなかった。むしろ、彼らの声に応えたいという強い感情が湧き上がってくるのを感じた。

道中、ルナは世界の仕組みについて語った。この世界は人々の「記憶」によって形作られている。そして、人々の記憶を喰らい、世界に綻びを生み出す存在がいるのだという。

「『忘却喰い』。それが、世界から色を奪った犯人よ」

「そいつを倒せば、空は元に戻るのか?」

「ええ。きっとね」

ルナの横顔には、どこか悲しげな影が差していた。

リアンは決意を固めた。もはや、ただ日常を取り戻したいだけではない。この森で声なき声を上げる、忘れられたモノたちを救いたい。そして、自分の存在価値を、この旅で見つけ出したい。彼は、臆病な殻を破り、一歩前に踏み出そうとしていた。

何日も歩き続けた後、森の最深部で、二人はついに目的地にたどり着いた。開けた空間の中央に、巨大な水晶が聳え立っていた。そして、その水晶の中に、リアンが焦がれ続けたものが閉じ込められていた。

それは、どこまでも深く、どこまでも澄んだ、鮮やかな「青」だった。空の青、海の青、瑠璃色の宝石の輝き。すべての青が凝縮されたかのような美しい光が、水晶の中から漏れ出ていた。

だが、その前には巨大な影が立ちはだかっていた。毛むくじゃらの体に、いくつもの歪な角を持つ、巨大な獣。それが「忘却喰い」だった。獣は唸り声を上げ、その瞳は飢えたように、水晶の中の青を見つめていた。

第三章 記憶喰らいの真実

忘却喰いは、見る者の心を凍らせるような威圧感を放っていた。その巨躯は、まるで森の闇そのものが凝り固まって生まれたかのようだ。獣が咆哮すると、周囲の忘れられたモノたちが塵のように崩れ、その存在を完全に失っていった。

「リアン、お願い。あなたの力で、あの水晶を護って!」

ルナの叫び声に、リアンは我に返った。彼は恐怖を振り払い、水晶の前に立つ。忘却喰いが猛然と突進してくる。リアンは咄嗟に、そばに落ちていた古い鉄の槍を拾い上げた。それに触れた瞬間、かつてその槍を握っていた勇敢な騎士の記憶が、熱い奔流となって彼の全身を駆け巡った。

「うおおおおっ!」

騎士の勇気と技を借り、リアンは獣の攻撃を紙一重でかわし、反撃に転じた。槍の穂先が、獣の脇腹を深く切り裂く。

ギャアアアッ、と獣が悲鳴を上げた。しかし、その瞬間、信じられないことが起こった。

獣の傷口から、血の代わりに、光の粒子が溢れ出したのだ。そして、その光がリアンに触れた途端、彼の脳裏に見知らぬ、しかしどこか懐かしい光景がフラッシュバックした。

――幼い自分が、森の中で木から落ちる。鋭い枝が左目を掠め、激痛と闇が襲う。そこに駆け寄ってくる、大きな手の温かい感触。泣きじゃくる自分を抱きしめ、必死に名前を呼ぶ、優しい父親の声。

「……父さん?」

リアンは呆然と呟いた。彼には父親の記憶がなかった。物心ついた時から、母親と二人きりの暮らしだった。事故で死んだと、そう聞かされてきた。

忘却喰いが、苦しげに身をよじる。そのたびに、さらに多くの記憶の光が溢れ出す。リアンが失っていたはずの、断片的な記憶。父親に肩車をしてもらった高い視界。一緒に作った歪な木彫りの鳥。左目を失ったリアンを、村人たちの心ない言葉から庇ってくれた、大きな背中。

そして、最後の記憶。

『リアン、辛い記憶は、父さんが全部食べてやるからな。だから、お前は笑って生きるんだ』

そう言って、父親は自ら禁忌の森へと足を踏み入れた。リアンの心の傷を癒すため、その悲しい記憶を喰らう「忘却喰い」になるために。

「そんな……嘘だ……」

リアンの足から力が抜けた。目の前の忌まвуべき獣が、自分を誰よりも愛してくれた父親の成れの果てだというのか。父親は、リアンの記憶を喰らうことで彼を守ろうとした。だが、その力は次第に暴走し、やがて世界の記憶までをも喰らい始めてしまったのだ。

絶望に打ちひしがれるリアンに、ルナが静かに近づいた。彼女の体は、おぼろげに透け始めている。

「ごめんなさい、リアン。もっと早く言うべきだった」

彼女の瞳には、深い哀しみが湛えられていた。「私は、あなたのお父さんが生み出した存在。彼が喰らった、たくさんの忘れられた記憶が集まってできた、仮初めの命なの。だから、あなたをここに導くことが、私の役目だった」

世界のすべてが、音を立てて崩れていくようだった。守るべきだった日常も、共に旅をした仲間も、倒すべきだった敵も、そのすべてが、父親の歪んだ愛情の上に成り立っていた幻だった。リアンは、ただその場に膝をつき、嗚咽を漏らすことしかできなかった。

第四章 君が遺したセカイ

白々しい空の下で、リアンはどれほどの時間、泣き続けていただろうか。涙は枯れ果て、残ったのは空っぽの心と、あまりにも重い真実だけだった。目の前では、父親だった獣が苦しげに呻いている。彼の存在そのものが、世界の綻びとなり、自らを苛んでいた。

逃げ出したかった。何もかも忘れて、元の臆病な自分に戻りたかった。だが、脳裏に焼き付いた父親の記憶が、それを許さない。自分を救うために、人であることを捨てた父親の愛が、リアンの心を締め付けた。

ふと、透けかけたルナの姿が目に入った。彼女もまた、父が遺した忘れられた記憶の一部。彼女の存在も、このままでは消えてしまう。

「……嫌だ」

リアンは、か細い声で呟いた。

「もう、何も失いたくない」

彼はゆっくりと立ち上がった。その片方の瞳には、もはや恐怖の色はなかった。そこにあるのは、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような決意だった。

彼は槍を捨て、丸腰で忘却喰いへと歩み寄った。獣が威嚇の唸り声を上げる。だが、リアンは止まらない。

「父さん」

彼は呼びかけた。自分の持つ、あの呪わしい力。忘れられたモノの声を聞く力を、今、初めて自分の意志で使う。

「もういいんだよ、父さん。僕が、全部思い出したから。辛かったことも、悲しかったことも、全部。父さんが僕のために背負ってくれた痛みも、僕がちゃんと引き受けるから」

リアンの声は、森に響き渡った。それは、この森に流れ着いた数多の忘れられたモノたちの声と共鳴し、大きなうねりとなっていく。

「忘れないよ。父さんのことも、父さんがくれた愛情も、絶対に忘れない。僕が覚えている。僕が、語り継いでいくから!」

その言葉は、光の楔となって獣の心臓に突き刺さった。忘却喰いは、最後の咆哮を上げた。しかしそれは、もはや怒りや苦しみではなく、長く続いた責務からの解放を告げる、安らかな声に聞こえた。

獣の巨大な体が、まばゆい光の粒子となって霧散していく。その中心に、一瞬だけ、微笑む父親の穏やかな幻影が見えた気がした。

光が晴れると、獣の姿はどこにもなく、後には静寂だけが残された。そして、巨大な水晶が音を立てて砕け散り、閉じ込められていた「青」が、奔流となって空へと駆け上がっていく。

世界が、息を吹き返した。リアンの頭上に、どこまでも深く、澄み渡る青空が広がった。

「……ありがとう、リアン」

隣で、ルナが微笑んでいた。彼女の体は、ほとんど光の中に溶けて消えかけている。

「行かないでくれ!」

リアンは彼女の手に触れようとするが、その指は空を切るだけだった。

「私の役目は終わったの。でも、忘れないで。私は、たくさんの忘れられた記憶。あなたが覚えていてくれる限り、私はあなたの心の中で生き続けるわ」

そう言うと、ルナは光の粒となり、風に乗って空の青に溶けていった。

数日後、リアンは村に戻った。村人たちは、何事もなかったかのように「なんて綺麗な青空だろう」と笑い合っている。失われた青が戻ってきたことに、誰も気づいていない。ただ、当たり前の奇跡として受け入れているだけだ。

リアンの日常は戻ってきた。だが、彼の内面は、もはや以前の彼ではなかった。

彼は工房で、忘れられたモノたちの声に耳を澄ます。壊れた道具に触れ、そのささやかな物語を拾い上げる。彼はもう、その力を呪いだとは思わない。これは、父が遺してくれた、世界と繋がるための絆なのだ。彼は、忘れられるモノたちのための「記憶の紡ぎ手」として生きていくことを決めた。

時折、リアンは空を見上げる。左目の見えない暗闇は、もうただの欠落ではなかった。そこには、父の愛情と、ルナの笑顔と、数えきれない忘れられたモノたちの物語が詰まっている。

青空の下で、リアンは静かに微笑んだ。失ったものはあまりに大きい。だが、彼は知っている。忘れられても、記憶は決してゼロにはならない。誰か一人が覚えていてくれる限り、その存在は、世界のどこかで確かに輝き続けるのだということを。

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