詠石のレゾナンス

詠石のレゾナンス

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第一章 沈黙の儀式

私の村、シリスでは感情は罪だった。ことさら、強く揺らぐ感情は。村の掟はただ一つ、「静謐であれ」。私たちは幼い頃から感情を押し殺し、水面のように穏やかな心を保つ術を学ぶ。その静謐の象徴が、村の中心に安置された巨大な「親石」であり、私たち一人ひとりが授かる「詠石(えいせき)」だった。詠石は持ち主の心と共鳴し、穏やかな心を持つ者が触れれば淡い翠色に、乱れた心に触れれば濁った赫色に輝く。

そして私は、リラ。この村で最も静謐からほど遠い存在だった。

その日、私は成人として初めて「鎮撫の儀」を執り行う大役を任されていた。村を囲む〈囁きの森〉の生命力を、詠石を通して村の親石へと送り、一年間の豊穣を祈る、最も神聖な儀式だ。祭壇に立ち、白く滑らかな詠石を両手で包む。目を閉じ、心を無にしようと努める。教えてもらった通り、凪いだ湖面を、風のない空を、静かな夜を心に描く。

「リラよ、森と一つになるのです」

長老の厳かな声が響く。大丈夫、できる。私は必死に自分に言い聞かせた。詠石が手のひらで温かくなり、淡い翠色の光を放ち始める。森の気が、心地よい流れとなって私の中に満ちてくる。安堵の息が漏れた、その瞬間だった。

突如、胸の奥底から、身を切るような激しい「哀しみ」が噴き出した。それは私の感情ではなかった。どこか外部から、しかし私の内側から湧き上がるような、巨大で、抗いようのない哀しみの奔流。詠石が灼熱を帯び、翠色の光は瞬く間にどす黒い赫色へと変わる。手のひらが焼けるような痛み。

「うっ……あぁっ!」

悲鳴を上げた私を中心に、赫色の光が衝撃波のように広がった。村人たちの驚愕の顔がスローモーションで見える。そして、異変は囁きの森に起きた。ざわめきが止み、生命力に満ちていた木々の葉が、見る見るうちに色を失い、乾いた音を立てて朽ちていく。儀式の成功を告げるはずの鳥たちの歌声は、断末魔のような不協和音に変わり、やがて森は完全な沈黙に支配された。

ほんの数分で、私たちの命の源である森が、死んだ。

祭壇の上で立ち尽くす私に、村人たちの視線が突き刺さる。それは非難と、恐怖と、そして侮蔑の色をしていた。私の詠石は、まるで罪を告白するように、禍々しい赫色の光を放ち続けていた。

「お前の乱れた心が、森を殺したのだ」

長老の言葉は、氷の刃となって私の心を抉った。弁解の言葉など、見つかるはずもなかった。あの抗いがたい哀しみは一体何だったのか。それを問うことさえ許されず、私は村の掟を破り、森を枯らした罪人として、その日のうちにシリスを追放された。たった一つの命令と共に。

「行け。そして、お前が壊した森を、元に戻す方法を見つけてこい。それが叶うまで、二度とこの地の土を踏むことは許さぬ」

死んだ森へと続く道を、私はたった一人、歩き出した。赫色の光を放つ詠石を、まるで呪いのように握りしめて。

第二章 森の声、職人の教え

死の森は、音のない世界だった。風が枯れ枝を揺らす乾いた音だけが、私の孤独を際立たせる。私は詠石を布で幾重にも包み、鞄の奥底にしまった。あの石が怖い。私の心を映し、増幅し、世界を破壊するこの石が。私は感情の蓋を固く固く閉ざした。喜びも、悲しみも、怒りも、そして絶望さえも感じないように。ただ、空っぽの人形のように歩き続けた。

何日歩いただろうか。森の深部、苔むした岩々が点在する谷間で、私は小さな煙が立ち上っているのを見つけた。吸い寄せられるように近づくと、そこには古びた石造りの工房があり、一人の老人が黙々と石を磨いていた。

「……お客さんかい。こんな死んだ森に、物好きな」

老人は私を一瞥すると、手元の作業に戻った。彼の名はエルド。世捨て人のような風体だったが、その指先で磨かれている石が、紛れもない詠石であることに気づき、私は息を呑んだ。彼は、伝説の中にしか存在しないはずの「詠石職人」だった。

私は事情を話した。儀式の失敗、森の死、そして追放されたこと。エルドは黙って聞いていたが、私が詠石を「呪いの石」と呼んだ時、初めて手を止めた。

「嬢ちゃん、あんたは勘違いをしている。詠石は心を映す鏡じゃない。世界と共鳴するための、調律器じゃよ」

エルドはそう言うと、私に自分の詠石を見せた。それは何の色も持たない、ただの透明な水晶のようだった。しかし彼がそれに触れると、石は穏やかな虹色の光を放ち、周囲の枯れた苔が微かに瑞々しさを取り戻したように見えた。

「詠石はな、持ち主の感情を世界に伝えるだけじゃない。世界の声を、持ち主に伝えるためのものでもあるんじゃ。森の囁きを、風の歌を、大地の記憶を聴くためのな。あんたが儀式で感じた哀しみは、本当にあんた自身のものだったのか?」

その言葉に、私はハッとした。あの哀しみは、確かに異質だった。私の内側からではなく、どこか外から流れ込んできたような感覚。

その日から、私はエルドの元で、詠石との向き合い方を学び始めた。それは、感情を押し殺すこととは正反対の修練だった。まず、自分の感情をありのままに受け入れること。怒りを感じれば、なぜ怒っているのかを見つめる。悲しみを感じれば、その源泉を辿る。感情を否定するのではなく、理解し、その上で詠石を握る。

「感情は波じゃ。逆らおうとすれば溺れる。波を知り、波に乗るんじゃ」

初めはうまくいかなかった。詠石は私の不安に共鳴し、赫色や濁った藍色に明滅した。だがエルドは辛抱強く教えてくれた。詠石を通して、足元の石の声に耳を澄ませる。岩に刻まれた、幾万年の記憶。風が運んでくる、遠い山の匂い。少しずつ、本当に少しずつ、私は詠石が伝える微細な世界の響きを感じ取れるようになっていった。私の詠石も、時折、澄んだ翠色や柔らかな黄色の光を灯すようになった。それは、私が自分の感情と、そして世界と、ほんの少しだけ調和できた証だった。

第三章 裏切りの源泉

数ヶ月が過ぎた。私の詠石は、かつてのように感情に振り回されて暴走することはなくなった。エルドは言った。「もうお前さんなら聴けるかもしれん。森が本当に伝えたかった声を」。私は決意を固め、森が枯れ始めた中心、〈囁きの森〉の源泉へと向かうことにした。

源泉は、巨大な洞窟の奥深くに存在した。そこは、空気そのものが濃密な力で満ちているような場所だった。洞窟の中央には、地底湖があり、その湖の中心から、家ほどもある巨大な詠石の原石が突き出て、不気味なほどの光を放っていた。村の親石など、これに比べれば砂粒のようだった。

私は湖のほとりに座り、自分の詠石を両手で包んだ。エルドに教わった通り、心を静め、意識を詠石に集中させる。そして、森の核であるこの巨大な原石に、問いかけた。「教えて。なぜ、あなたはあんなに哀しんでいたの?」と。

詠石が、強く、しかし穏やかな光を放つ。私の意識は、水に溶けるインクのように、森の記憶へと深く沈んでいった。

そして、私は聴いた。

それは、哀しみではなかった。

燃え盛るような、絶望的なまでの「怒り」だった。何百年にもわたって蓄積された、静かだが底知れない憤怒の念。森は、私の村シリスに対して怒っていたのだ。

幻視が奔流のように流れ込んでくる。私の祖先たちが、この源泉を発見した日。彼らは森の力に畏怖し、共存を誓った。だが、世代を重ねるうち、畏怖は支配欲に変わった。彼らは「鎮撫の儀」という偽りの儀式を作り上げた。それは森を鎮めるものではない。この巨大な原石から、一方的に生命力を吸い上げ、村の繁栄のために搾取するための、呪術的な仕組みだったのだ。

村の穏やかさは、森の犠牲の上に成り立っていた。静謐な暮らしは、森の生命力を啜って得た偽りの安寧だった。毎年毎年、儀式のたびに森は衰弱し、その苦痛と怒りを声なき声で訴えていた。しかし、心を閉ざした村人たちには、その声は届かない。

そして、あの儀式の日。感受性の強い私だけが、初めて森の本当の声――その絶叫に近い怒りを受け取ってしまったのだ。だが、怒りという激しい感情を理解できない私の心は、それを勝手に「哀しみ」へと翻訳してしまった。結果、詠石は私の混乱と森の怒りをないまぜにして暴走し、森の生命線にとどめを刺した。

真実は、あまりにも残酷だった。

私たちは森の守り人ではなかった。寄生虫だったのだ。私の一族は、何百年も森を騙し、奪い続けてきた。そして、何も知らなかったとはいえ、私もその片棒を担いでいた。

足元から世界が崩れ落ちていく。信じていた全てが、偽りだった。清らかだと教えられてきた故郷は、巨大な欺瞞の上に立つ城だった。私は、搾取者の末裔だった。湖面に映る自分の顔が、醜悪な化け物に見えた。詠石が、私の絶望に共鳴して、再び暗い赫色の光を放ち始めた。

第四章 共鳴する祈り

どれほどの時間、そうしていただろうか。絶望の底で、エルドの言葉が蘇った。「感情は波じゃ。逆らおうとすれば溺れる」。今の私は、怒りと罪悪感という巨大な波に、まさに溺れかけていた。

だが、もう一つ、彼の言葉があった。「詠石は世界と共ミングするための、調律器じゃ」。

このまま、森の怒りに身を任せ、村が滅びるのを見ているべきか? あるいは、このおぞましい真実から目を背け、どこかへ逃げ出すべきか?

どちらも違う。私は、もう感情から逃げないと決めたのだ。たとえそれが、どれほど醜く、痛みを伴うものであっても。

私はゆっくりと立ち上がった。そして、布で拭い、清めた詠石を、再び両手で包み込む。今度は、自分の感情に蓋をしない。森の怒り、自分の罪悪感、祖先への失望、それでも捨てきれない故郷への想い、そして、エルドへの感謝。その全てを、ありのままに受け入れた。

私の心は嵐のようだった。だが、その嵐の中心には、静かな一点があった。贖罪。そして、対話への渇望。

「聴いて」

私は詠石に、そして巨大な原石に、心の中で語りかけた。

「あなたの怒りは、もっともです。私たちは、取り返しのつかない過ちを犯した。私は、その罪を背負う者です。だから、この怒りを、私にください。そして、私のこの贖罪の想いも、受け取ってください」

私の詠石が、かつてないほどの強い光を放った。それは赫色でも翠色でもない、全ての感情が溶け合ったような、複雑で、それでいてどこまでも純粋な白金の光だった。その光は、洞窟の壁に、湖面に、そして巨大な原石に反射し、空間全体を震わせる一つの巨大な「響き」となった。

それは森の怒りであり、私の祈りだった。破壊の衝動と、再生への願いが一つになった、共鳴の波。

その波は、洞窟から溢れ出し、死んだ森を駆け抜け、遥か彼方にある村、シリスへと向かっていく。それは一方的な鎮撫でも、破壊的な怒りでもない。初めての、真実の「対話」の試みだった。

村に届いたその響きを、人々がどう受け止めたかは分からない。おそらく、彼らの胸には、これまで感じたことのないような複雑な感情の嵐が吹き荒れただろう。森の痛み、祖先の罪、そして、リラという一人の少女の必死の祈り。彼らの詠石は、生まれて初めて、真実の色に輝いたに違いない。

私は、ただ源泉のほとりに立ち、その響きが世界に満ちていくのを感じていた。森はすぐには蘇らないだろう。村と森の関係は、ゼロから、いや、マイナスから始めなければならない。それは長く、困難な道のりになるはずだ。

だが、不思議と心は穏やかだった。私はもう、感情を恐れる少女ではない。感情を受け入れ、他者の心と響き合い、その架け橋となることを選んだ調停者。私の詠石は、白金の光を静かに放ちながら、手のひらで穏やかに温かかった。

森と村の間に生まれた、永い沈黙の後の、最初の対話。その始まりに立ち会えたこと。それが、私の犯した罪に対する、唯一の答えなのだと信じて。私は、ゆっくりと、新しい関係が始まるであろう世界へと、歩き出した。

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