空泣かぬ国の調律師

空泣かぬ国の調律師

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第一章 空泣かぬ国と感情なき調律師

空が、泣き方を忘れてから三月が経った。

かつてこの国、アウレリアを潤していた慈雨は跡形もなく消え去り、太陽だけが容赦なく大地を炙り続けている。ひび割れた田畑は赤茶けた巨大な掌紋のようにも見え、作物はことごとく首を垂れて枯れ果てていた。川は痩せ細り、淀んだ水面がかろうじて空の残酷な青を映している。

しかし、奇妙なことに、人々の顔からは笑みが絶えなかった。広場では楽団が陽気な音楽を奏で、人々は乾いた喉で歌い、踊る。その光景は、まるで終わらない祭りのようだった。だが、その笑顔にはどこか深みがなく、ガラス玉のように虚ろな光を宿しているだけだった。彼らは「喜び」という感情に憑りつかれたように、ただただ快活に振る舞い続けていた。喜びは晴天を呼ぶ。ならば、もっと喜べば、もっと笑えば、この異常な日照りもいつかは終わるだろう――そんな根拠のない希望が、国全体を覆う乾いた熱風となっていた。

カイは、王都を見下ろす丘の上からその光景を眺めていた。風に揺れる白銀の髪と、凪いだ湖面のように静かな灰色の瞳。彼は、人々の感情の波を読み、その偏りを正常に戻す「調律師」という役職にあった。感情の起伏がほとんどない彼は、他人の激情の渦に呑まれることなく、冷静にその本質を見極めることができる稀有な存在だった。

だが今、彼の前にあるのは、あまりにも単純で、それゆえに不気味な感情の平原だった。喜び、ただそれだけ。怒りも、恐れも、そして何よりも――悲しみが見当たらない。人々は、愛するペットが死んでも、家が火事になっても、眉をひそめるだけで、涙を一粒もこぼさなかった。彼らは泣き方を、悲しみ方を、完全に忘れてしまっていた。

「カイ様、王がお呼びです」

背後からの声に、カイはゆっくりと振り返る。騎士の顔にもまた、状況にそぐわない朗らかな笑みが浮かんでいた。

「日照りの件、何か分かったかと」

「……まだ何も」

カイは短く答えた。彼の声には感情の色が乗らない。それが、他の人々との間に見えない壁を作っていることを、彼は知っていた。

王城の玉座の間は、不自然なほど陽気な雰囲気に満ちていた。王は肥えた頬を上気させ、扇子で自分を仰ぎながら言った。

「おお、カイか! どうだ、この日照りの原因は、どこぞの民が喜び足りぬせいではないか? もっと盛大な祭りでも開くべきか!」

カイは静かに首を横に振った。

「陛下。問題は喜びが足りないことではありません。むしろ、逆です」

カイの言葉に、間の抜けた音楽が止んだ。彼は続ける。

「この国から、『悲しみ』が失われています。雨は、人々の悲しみの涙が集まって雲となり、地に降り注ぐもの。悲しみがなければ、雨は降りません」

それは、調律師に代々伝わる世界の理だった。人々の集合的な感情が、天候を形作る。喜びは太陽を呼び、怒りは雷を、そして悲しみは雨をもたらすのだと。

玉座の間にいた誰もが、カイの言葉を理解できないという顔をした。「悲しみ?」と王が首を傾げる。「そのような不快なものが、なぜ必要なのだ?」

彼らはもう、悲しみがもたらすカタルシスや、他者への共感、そして喪失の後に来る静かな受容といった、感情の奥深さを思い出すことすらできなかった。

カイは、自分だけが世界の異変に気づいているという孤独を感じていた。感情のない自分だからこそ、失われた感情の空白を客観的に認識できる。それは皮肉なことだった。

彼は王に向かって深く頭を下げた。

「失われた『悲しみ』を取り戻す旅に出る許可をいただきたく存じます。このままでは、アウレリアは喜びの中で干からび、滅びるでしょう」

その言葉は、初めて玉座の間に冷ややかな静寂をもたらした。

第二章 嘆きの泉と老婆の伝承

王の許可を得たカイの旅は、南方の「嘆きの泉」から始まった。古文書によれば、そこは世界で最も深い悲しみが凝縮され、一年中霧雨がやまない場所だったという。しかし、カイが辿り着いたのは、乾ききった岩の窪地に過ぎなかった。かつて泉だった場所は、白く風化した石が転がるばかりで、生命の気配は微塵も感じられない。風が吹き抜ける音が、まるで空っぽの骸骨が喉を鳴らすように、寂しく響いた。

数日をかけて周辺を調査したが、手がかりは何もなかった。人々は相変わらず笑っていた。乾いたパンを分け合いながら笑い、息絶えた家畜を埋めながら笑う。その笑顔は、カイの目には呪いのように映った。

諦めかけていた矢先、彼は森の奥深くで、ひっそりと佇む小さな小屋を見つけた。小屋の主は、深い皺の刻まれた顔を持つ老婆だった。彼女はカイを見ても、他の人々のような空虚な笑みを浮かべず、ただ静かに茶を勧めてくれた。

「調律師様ですな。その目を見ればわかります。何も映しておらぬ、静かな瞳じゃ」

老婆は、リラと名乗った。彼女は、カイが「悲しみ」を探していると聞くと、遠い目をして語り始めた。

「悲しみ、か。懐かしい響きじゃ。わしがまだ幼かった頃、母を亡くして三日三晩泣き続けた。涙で目が腫れ上がり、喉は枯れた。じゃが、不思議と心は軽くなったものじゃよ。涙と一緒に、心の澱が流れ出していくようじゃった」

リラの言葉は、カイにとって初めて聞く「悲しみ」の具体的な感触だった。彼は自分の胸に手を当ててみるが、そこにあるのは静寂だけだ。

「なぜ、悲しみは消えたのでしょう?」

「それは、空の『情動の月』のせいかもしれぬ」

リラは窓の外、昼でも白く浮かぶ月を指さした。

「わしらの感情は、あの月から降り注ぐと言われておる。月が満ちれば感情は豊かになり、欠ければ薄まる。……三月前、あの月が一度、真っ黒に染まった夜があった。それ以来じゃ。何かが、欠けてしまったのじゃよ」

老婆は震える手で、古い木箱から一つの石を取り出した。それは乳白色の滑らかな石で、握るとひんやりとしている。

「これは『涙の石』。人の悲しみだけを吸い込み、溜め込むことができると言われておる。じゃが、今のわしには、これを満たすだけの涙は残っておらん。調律師様、あなたなら、あるいは……」

カイは石を受け取った。それはただ冷たく、重いだけだった。感情のない自分に、この石を満たすことなどできるはずがない。無力感が、霧のように彼の心を覆い始めた。しかし、同時に、これが唯一の手がかりであることも確かだった。

「月と交信できる場所が、一つだけある。北の果てにある『星見の塔』。そこに登れば、何かわかるやもしれぬ」

リラの言葉を道標に、カイは再び旅に出た。手の中の冷たい石だけが、失われた感情の存在を静かに主張していた。

第三章 星見の塔が明かす真実

星見の塔は、天を衝く巨大な針のように、荒涼とした大地に突き刺さっていた。内部の螺旋階段は果てしなく続き、カイは黙々と足を運び続けた。感情がないことは、時に利点となる。疲労や絶望に心を乱されることなく、ただ目的地へ向かうという行為に集中できた。

数日をかけて塔の頂上に辿り着くと、そこは風が吹き荒れる円形の広間だった。中央には巨大な水晶が鎮座し、夜空の星々を映し込んでいる。古文書によれば、この水晶を通して情動の月と交信できるという。

カイが水晶に手を触れた瞬間、彼の脳内に膨大な情報が流れ込んできた。それは映像であり、感情であり、記憶の奔流だった。彼は見た。笑い声に満ちた街、雷鳴轟く戦場、そして、静かに涙を流す人々の姿を。それらはすべて、かつてこの世界に存在した感情の風景だった。

そして、彼は真実を知った。

「悲しみ」は、消えたのでも、盗まれたのでもなかった。封印されたのだ。一人の人間によって。

その人物は、先代の調律師であり、カイの唯一の師であったエルドだった。

映像は続く。エルドは、争いや憎しみ、絶望が蔓延る世界を憂いていた。彼は、その全ての根源が「悲しみ」にあると結論づけた。喪失の悲しみが憎しみを、貧しさの悲しみが争いを、孤独の悲しみが絶望を生むのだと。彼は人々を心から愛していた。だからこそ、その苦しみを取り除きたかった。

エルドは、自らの命と引き換えに、世界から「悲しみ」という感情の概念そのものを封印する禁断の儀式を、この塔の頂上で行ったのだ。情動の月が黒く染まった夜、彼は己の全てを賭して、人々の幸福を願った。

「これで……誰も、もう苦しまなくていい……」

最後に聞こえた師の声は、安堵と、そして深い愛情に満ちていた。

カイは愕然とした。尊敬する師が、良かれと思って行った善意の行為が、この世界を緩やかな死へと向かわせている。悲しみを失った世界では、喜びもまた表層的なものとなり、深みを失った。愛する者を失う痛みを知らない者は、誰かを心から愛することもできない。雨が降らない大地と同じように、人々の心もまた、乾ききってしまっていたのだ。

師の崇高な自己犠牲。その結果もたらされた、歪んだ幸福。

カイは初めて、自らの思考が激しく揺さぶられるのを感じた。正しいとは何か。善とは何か。師は間違っていたのか? いや、人々を救いたいというその想いは、決して間違いではなかったはずだ。

混乱する思考の中で、カイの胸の奥深く、今まで感じたことのない微かな痛みが生まれた。それは、師の孤独を思った時に生まれた、小さな疼きだった。

第四章 はじまりの涙、はじまりの雨

カイは選択を迫られていた。師エルドの意志を継ぎ、この悲しみのない、穏やかだが停滞した世界を受け入れるか。それとも、封印を解き、人々に再び悲しみという苦しみを与えるか。

彼の脳裏に、旅の道中で見た光景が蘇る。乾ききった大地。空虚な笑顔で踊り続ける人々。そして、「悲しむことで得られる優しさもある」と語った老婆リラの、静かな瞳。

感情を持たないカイは、いつものように論理で答えを導き出そうとした。感情とは、光と影のようなものだ。喜びという光があるなら、悲しみという影もまた存在する。影を消し去れば、光もまた、その輪郭と立体感を失ってしまう。一つの感情を根絶することは、心そのものを不完全にすることに等しいのではないか。

師は人々を愛するがゆえに悲しみを封じた。だが、それはまるで、鳥から翼を奪い、安全な籠に入れるような行為ではなかったか。飛べない鳥に、空の青さの本当の意味がわかるだろうか。

その時、カイの胸の疼きが、確かな痛みへと変わった。それは師への複雑な想いだった。世界を救おうとした師への尊敬。自分に何も告げずに行ってしまったことへの寂しさ。そして、たった一人で世界の苦しみを背負おうとした、師の途方もない孤独への共感。様々な感情が渦を巻き、彼の内側で奔流となる。

それは、彼が生まれて初めて経験する、本当の「感情」だった。

カイは懐から「涙の石」を取り出し、強く握りしめた。封印を解くには、この石を誰かの純粋な悲しみの涙で満たす必要がある。感情のない自分には不可能だと、ずっと思っていた。

しかし、今、彼の灰色の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ落ちた。それは、師を想う涙。世界を想う涙。そして、今まで何も感じられなかった自分自身への、哀れみの涙だったのかもしれない。

ぽつり、と。

その一滴が涙の石に落ちた瞬間、石はまばゆい光を放った。まるで長い眠りから覚めたように脈動し、カイの手を離れて空高く舞い上がる。そして、夜空に浮かぶ情動の月へと吸い込まれていった。

世界が、一瞬だけ息を止めた。

やがて、月の封印が解かれ、失われていた「悲しみ」の感情が、青白い光の粒子となって世界中に降り注ぎ始めた。

乾ききっていた空に、みるみるうちに厚い雲が立ち込める。雷鳴が遠くで鳴り響き、ついに、大粒の雨が降り始めた。三月ぶりの、恵みの雨だった。

地上では、人々が空を見上げて呆然としていた。そして、一人、また一人と、理由もなく涙を流し始めた。それは、愛する人を失った悲しみの涙。帰りたかった故郷を思う望郷の涙。そして、待ち望んだ雨への、安堵の涙。人々は泣きながら、しかし、その心に温かい何かが満ちていくのを感じていた。悲しみは、決してただの苦痛ではなかったのだ。

塔の頂上で雨に打たれながら、カイは自らの頬を伝う温かい雫を感じていた。それは雨か、それとも涙か。もはや、彼にその区別はつかなかった。ただ、空っぽだった彼の心は、静かで、それでいて確かな感情の波で満たされていた。

世界には再び悲しみが戻った。それは時に人々を苦しめ、絶望させるだろう。だが、人々はもう知っている。涙の後にこそ、空には最も美しい虹がかかるのだということを。

感情を得た調律師として、カイの本当の旅は、このはじまりの雨と共に、今、幕を開けたのだった。

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