世界が君を忘れる味

世界が君を忘れる味

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第一章 錆びた蜜の味

レンの世界は、常に過去の亡霊に憑りつかれていた。アスファルトの道路を、半透明になった石畳の古道が貫き、近代的なビルの谷間には、とうの昔に伐採されたはずの巨大な樹木の影が揺らめく。周期的に訪れる「過去の再生」。人々はそれに慣れ、亡霊たちと共存していた。古い過去ほど薄く、新しい過去ほど濃く、現実の風景に重なり合う。

レンは、その世界でさらに奇妙な呪いを抱えて生きていた。彼の舌は、時折、経験したことのない「未来の味」を捉えるのだ。可能性の奔流が、未知の味覚となって神経を焼く。彼はその味を恐れていた。一度飲み下せば、その未来は確定し、二度と覆せなくなるからだ。だから彼は、常に白湯を傍らに置き、か細い未来の萌芽を洗い流すことで、かろうじて現在に留まっていた。

しかし、その日感じた味は、あまりにも鮮烈だった。

舌の付け根にじわりと広がったのは、錆びた鉄の味と、焼け付くように甘い花の蜜の味。相反する二つの感覚が、彼の喉を締め付けた。それは誰かの死、あるいは取り返しのつかない喪失の予兆。レンは息を止め、首を振ってその味を霧散させようともがいた。決して、飲み込んではならない。

その瞬間、街の中心に、あり得ない光景が浮かび上がった。天を衝く巨大なガラスの塔。誰も見たことがなく、どの時代の記録にも存在しない建造物の幻影が、陽光を乱反射させながら一瞬だけ現れ、蜃気楼のように掻き消えた。街ゆく人々が足を止め、空虚な空間を見上げる。世界の調律が、静かに狂い始めていた。

第二章 無味の壺と探求者

「その壺、見せてもらってもいいかしら」

唐突な声に、レンは顔を上げた。目の前には、好奇心に満ちた瞳を持つ女性が立っていた。ユナと名乗った彼女は、世界の法則の歪みを調査する学者だという。彼女の視線は、レンが常に持ち歩いている素焼きの「無味の壺」に注がれていた。

「ただの古い壺ですよ。どんな飲み物も、これに入れると味がなくなるんです」

レンはぶっきらぼうに答えた。この壺は、彼の呪われた舌を休ませるための唯一の逃げ場所だった。

ユナは臆することなく微笑んだ。「その『無味』に興味があるの」。彼女は半ば強引に壺を受け取ると、中の白湯を指先につけ、躊躇なく舐めた。

次の瞬間、ユナの瞳が驚きに見開かれる。

「…雨だわ。湿った土の匂いと、冷たいアスファルトの味…」

レンは息を呑んだ。それは、彼が数日前にうっかり味わってしまった「通り雨の未来」の味だった。壺は、レンが味わった未来の味の「残り香」を、無味になった液体の中に封じ込めていたのだ。

「最近、世界中で『存在しない過去』が再生されているわ。さっきのガラスの塔みたいにね」

ユナの視線が、レンを射抜く。

「あなたのその能力、そしてこの壺。世界の謎を解く鍵かもしれない。協力してほしいの」

レンは強く首を振った。もし、あのガラスの塔が自分の味わった未来の残響なのだとしたら。自分の選択が世界を歪ませているのだとしたら。その恐怖が、彼の心を冷たく縛り付けていた。

第三章 歪みゆく世界のレクイエム

世界の崩壊は、加速度を増していった。「存在しない過去」の再生は、より頻繁に、より濃く現れるようになった。レンがかつて味わい、確定させてしまった苦い未来たちが、復讐のように現実を侵食し始める。

ある日の午後、カフェの窓から外を眺めていたレンは、息を呑んだ。交差点の向こう側、今はもう会うこともない友人が、悲しげな表情で佇んでいた。数年前に喧嘩別れした際、レンが舌に感じた「冷え切って苦い珈琲の味」。その味がもたらした未来の残響が、亡霊となってそこにいた。幻影は車をすり抜け、人波に溶けて消える。だが、その哀しみの眼差しは、確かにレンを捉えていた。

現実と過去の境界は曖昧になり、物理的な干渉すら起こり始めた。再生された古い城壁の幻に走行中の車がぶつかり、運転手がむち打ちになる。存在しないはずの川の幻影に足を取られ、溺れる子供が出た。レンは自室に閉じこもり、自分の選択がもたらした悲劇に打ち震えた。すべて、自分のせいだ。未来を味わうことをやめれば、何も起こらなかったはずなのに。

「違うわ、レン」

訪ねてきたユナは、彼の罪悪感を見透かしたように言った。

「あなたが選択を止めたから、世界は不安定になっているのかもしれない。水が流れなければ淀むように、世界は新しい『過去』を求めているんじゃないかしら」

その言葉は、レンにとって新たな恐怖の扉を開くものに他ならなかった。

第四章 壺が語る創世の味

ユナは一つの仮説にたどり着いていた。鍵は「無味の壺」に残された、最も古い記憶。レンが物心つく前に、無意識に味わってしまったであろう、最初の未来の味。彼女は特別な装置で壺の中の水の「残り香」を増幅させ、その最古の記憶を抽出することに成功した。

「これを飲めば、真実がわかるかもしれない」

ユナは覚悟を決めた顔で、抽出された一滴の液体を口に含んだ。

彼女の意識は、光も闇もない、絶対的な虚無へと引きずり込まれた。時間も空間も存在しない場所。そこに、小さな少年がひとり、ぽつんと浮かんでいた。幼いレンだった。彼の小さな舌に、何かがふわりと乗る。少年は、不思議そうに、そしてゆっくりと、その未知の味を飲み込んだ。

その瞬間、世界が生まれた。

爆発的な光。星屑が散り、銀河が渦を巻く。灼熱の塊が冷えて大地となり、海が生まれる。生命が芽吹き、進化の果てに人類が現れ、歴史を紡ぎ始める。ユナが見たのは、創世の幻影だった。

真実は、あまりにも残酷で、そして壮大だった。この世界は、過去を再生していたのではない。レンが「未来を味わう」ことで確定した事象が、即座に「新しい過去」として世界に供給され、その過去の積み重ねこそが、世界の存在そのものを成り立たせていたのだ。世界とは、レンの選択の残響そのものだった。

彼が未来を味わうことを恐れ、選択を止めたことで、「過去」の供給が途絶えた。だから世界は悲鳴を上げていた。存在しない過去の再生は、世界が自らを維持するために、レンの中に眠る「可能性の味」を無理やり引きずり出そうとしていた、断末魔の叫びだったのだ。

第五章 最後のテイスティング

世界の終焉は、目前に迫っていた。空には亀裂が走り、ノイズのように明滅する無数の過去の幻影が、現実を覆い尽くさんとしていた。人々の悲鳴すら、時間の残響の中で歪んで聞こえる。

研究室で真実を知ったレンは、静かに立ち上がった。その顔には、もう恐怖も迷いもなかった。

「僕が、世界を救うよ」

世界を救う方法は、ただ一つ。最も強大で、最も揺るぎなく、最も完全な「過去」を、この崩壊しかけた世界に与えること。

「僕という存在が、最初からこの世界にいなかった」という未来。

その未来を味わい、確定させること。そうすれば、レンという存在が生み出した全ての矛盾――彼が味わった全ての未来の残響――は消え去り、世界は完璧で安定した一つの「現在」として再構築されるはずだ。

「そんなこと…させない!」

ユナが涙ながらに彼の腕を掴む。

「君がいなくなったら、意味がない!私が、君を…!」

忘れる、という言葉を彼女は飲み込んだ。レンがいなくなれば、彼に関する記憶も全て消えるのだから。

レンは、優しく彼女の手を外し、「無味の壺」をユナの手に握らせた。

「ありがとう、ユナ。君がいたから、僕は最後に味わうべき味を見つけられた」

彼の微笑みは、夜明けのように穏やかだった。

「僕がいたことを、もし世界のどこかに欠片でも残るなら、それは君の心の温かさの中だけだ」

レンはゆっくりと目を閉じた。意識を、舌の先だけに集中させる。最後の未来を、味わうために。

第六章 世界が君を忘れる味

彼の舌先に、静かに味が生まれた。

それは、これまで味わったどんな未来とも違っていた。甘くも、苦くも、辛くも、酸っぱくもない。温かくも冷たくもなく、何の香りもしない。それは、完全な「無」の味。全てが始まり、全てが終わる場所の色を持たない味。まるで、長すぎた夢から静かに覚醒する瞬間の、途方もない寂寥感に似た感覚だった。

レンは、その味をゆっくりと飲み込んだ。

世界から、音が消えた。光が消えた。そして、赤子が産声を上げるように、柔らかな光が再び世界を満たした。

空の亀裂は跡形もなく消え、街は嘘のような静けさを取り戻している。人々は何もなかったかのように、それぞれの日常を歩んでいた。

ユナは、街の中心に一人で佇んでいた。なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。ただ、手には見覚えのない古い壺が一つ。中には、無味無臭の水がなみなみと注がれている。

理由もわからず、彼女の頬を涙が伝った。胸にぽっかりと穴が空いたような、名前のない喪失感が、心を満たしていた。誰か、とても大切な人を忘れてしまったような、そんな耐えがたい痛み。

ユナは涙を拭い、空を見上げた。澄み渡る青空。

ふと、そんな気がした。

この世界のどこかで、誰かが、世界で一番優しい味を、たった一人で味わってくれたような。

そんな、気がした。

…何もない空間で、一人の少年が舌先に初めて広がる不思議な感覚に、そっと目を見開く。

「これは、世界の始まりの味だ」

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