第一章 微笑みの不協和音
新田奏(あらた かなで)の朝は、いつだってささやかなオーケストラから始まる。トースターが跳ねる音はティンパニの軽快な一打。水道の蛇口から流れ落ちる水は、ハープのアルペジオ。彼の興奮の度合いが指揮棒となり、日常の雑音に秩序と旋律を与えるのだ。本人は至って真面目に、この体質と付き合っている。
その日、奏は市民税の支払いのため市役所へ向かっていた。夏の名残がアスファルトをじりじりと焦がす、気温三十四度。この街の法則に従い、今日の市役所は巨大な屋内プールへとその姿を変えていた。入り口をくぐると、ひんやりと湿った空気が肌を撫で、塩素の匂いが鼻をつく。人々は備え付けのサンダルに履き替え、水深十センチほどの床をぱちゃぱちゃと歩きながら、水に浮かぶ浮遊カウンターで手続きを行っていた。
「納税課は、あちらのウォータースライダーを滑った先になります」
案内係の女性がアロハシャツ姿で言う。奏は小さくため息をつき、言われた通りスライダーへと向かった。ささやかなスリルが、彼の内の指揮棒を微かに振るわせる。着水した瞬間の水しぶきの音が、シンバルの華やかな残響となって耳に届いた。
手続きを終え、待合スペースのビーチチェアに腰掛けていると、壁面に設置された大型スクリーンに臨時ニュースが映し出された。
『速報です。本日未明、当市の『不機嫌協会』の全会員が、一斉に満面の笑みを浮かべていることが確認されました』
画面には、普段なら眉間にグランドキャニオン級の渓谷を刻んでいるはずの協会メンバーたちが、揃いも揃って歯を見せてにこついている異様な映像が流れていた。不機嫌を美徳とし、眉間の皺の深さで地位が決まるあの協会が? 彼らは街の過剰な陽気さをその不機嫌面で中和し、『コメディバランス』を維持する重要な存在だったはずだ。
周囲の人々もざわついている。奏の隣に座っていた老人が、ポップコーンを喉に詰まらせかけた。そのむせる音さえ、今の奏にはどこか間抜けなトロンボーンのソロに聞こえた。街の均衡が、音を立てて崩れ始めている予感がした。
第二章 陽気すぎる街のブルース
不機嫌協会の笑顔は、ウイルスのように街に蔓延した。
翌日、街は不自然なほどの明るさに包まれていた。角のパン屋の主人は、普段なら「さっさと決めな」と客を急かす無愛想の塊だが、今日は「君の瞳に乾杯!」などと叫びながらバゲットを軽やかにトスしている。バスの運転手は停留所ごとに下手なジョークを飛ばし、乗客の作り笑いが車内に空虚に響いた。
誰もが笑っている。誰もが陽気だ。しかし、その笑顔には奇妙な強迫観念がまとわりついていた。無理に引き上げられた口角は痙攣し、楽しげな声はどこか甲高い。コメディバランスの重しを失った街は、軽薄な躁状態に陥り、あちこちで小さな、しかし確実な不協和音を奏で始めていた。横断歩道で陽気にスキップしていた男が派手に転んだり、レストランのウェイターが客の頭上で皿を回してすべて落としたり。
奏はこの状況に、言いようのない居心地の悪さを感じていた。人々の作り笑いが、彼の頭の中で歪んだワルツを奏でる。三拍子のリズムはぎこちなく、時折つまずくように調子を外した。これは間違っている。心の奥底で警報が鳴り響く。彼はこの異変の原因を突き止めなければならないと、静かに決意した。彼の内なるBGMは、いつしかマイナーコードのブルースへと変わっていた。
第三章 無声笛のレクイエム
手がかりを求め、奏が向かったのは、街の忘れられたような路地裏に佇む古道具屋『時忘れ』だった。埃とカビの匂いが混じり合った店内で、店主の老人が一人、壊れた柱時計を睨みつけていた。彼は街で唯一、不機嫌協会の笑顔を「世界の終わりだ」と吐き捨て、いつも通りの不機嫌を保っている人物だった。
「よう、坊主。お前さんも、あの馬鹿げた笑顔を見に来たのか」
「何か、知っているんですか」
奏が尋ねると、老人はゆっくりと顔を上げた。その顔に刻まれた皺の一本一本が、この街の歴史を物語っているようだった。
「知るもんか。だが、真実ってのは、いつだって聞きたくない音を立てるもんだ」
そう言うと、老人は引き出しの奥から、黒曜石で作られたかのように滑らかな、一本の小さな笛を取り出した。それは光を吸い込み、音すらも飲み込んでしまいそうな静寂をまとっていた。
「『無声笛』だ。吹いても音は出ねえ。その代わり、周りの人間の、一番隠したい本音を拾っちまう。迷惑な代物さ。あの偽物の笑顔の裏側でも覗いてみるがいい」
老人はそう言って、笛を奏の手に押し付けた。ひんやりとした石の感触が、奏の掌に不思議な重みとなって伝わった。これは、レクイエムの始まりを告げる楽器なのかもしれない。奏はごくりと喉を鳴らした。
第四章 心のノイズ、あるいは真実のプレリュード
不機嫌協会の本部ビルは、その日の低い気温を反映し、氷の結晶でできた洞窟のような外観をしていた。冷気が壁から染み出し、奏の吐く息が白く凍る。入り口では、あの厳格さで知られた眉越(まゆごし)巌(いわお)会長が、満面の笑みで彼を迎えた。その笑顔は完璧な円弧を描いていたが、目だけは全く笑っていなかった。
「やあ、よく来たね、市民の友よ! 何かお困りごとかね? 我々の笑顔が、君の心を照らしますように!」
甲高い声が洞窟状のホールに反響する。奏は会釈をしながら、そっとポケットに忍ばせた『無声笛』を唇に当て、息を吹き込んだ。音は出ない。だが、彼の鼓膜を直接揺さぶるように、別の「声」が流れ込んできた。
(痛い、顔の筋肉が、もう限界だ。誰か、誰かこの仮面を剥がしてくれ。笑いたくない。お願いだ、助けてくれ。これは地獄だ、終わらない地獄なんだ!)
それは、目の前で完璧な笑顔を浮かべる眉越会長の、悲痛な心の絶叫だった。奏は息を呑んだ。彼らは自ら笑っているのではなかった。何者かによって、あるいは何かによって、笑うことを強制されているのだ。予想だにしなかった真実の断片は、鋭いガラスの破片のように奏の心を突き刺した。彼の頭の中では、すべてのBGMが止まり、ただただ低く、不吉なドローン音だけが鳴り響いていた。
第五章 感情のグラン・カッサ
会長の心の声は、途切れ途切れに「地下」「甘い香り」「機械」という言葉を繰り返していた。奏は職員の目を盗み、ビルの地下へと続く冷たい階段を駆け下りた。扉を開けた瞬間、むせ返るような甘い香りが彼の鼻腔を突いた。部屋の中央には、巨大な銀色のボンベに繋がった、奇怪な形状の機械が鎮座し、霧状のガスを定期的に噴出していた。『気分改善ガス』。そのプレートが、悪夢の正体を無機質に告げていた。
その時だった。けたたましい警告音と共に、機械のランプが赤く点滅を始めた。圧力計の針が危険領域を振り切る。次の瞬間、機械は断末魔のような音を立て、濃密なガスが凄まじい勢いで部屋中に、そして換気口を通じてビル全体、さらには街中へと噴出し始めたのだ。
地獄の蓋が開いた。
協会本部にいたメンバーたちは、突然大声で泣き叫び始めたかと思うと、次の瞬間には腹を抱えて哄笑し、その直後には怒りに顔を歪めて壁を殴り始めた。感情の振れ幅が限界を超え、彼らの精神は完全に壊れてしまったのだ。その狂気はガスと共に街へ広がり、陽気だった人々を感情の嵐に叩き込んだ。
奏の興奮は、恐怖と好奇心によって頂点に達していた。街中のあらゆる音が、彼の耳には壮大な交響曲として再構築されていく。人々の号泣は哀切なヴァイオリンのソロに、怒りの罵声は勇壮なホルンのファンファーレに、そして狂ったような笑い声は、すべてを打ち砕くグラン・カッサ(大太鼓)の強打となって、世界を揺るがした。
第六章 僕と世界のシンフォニー
街は巨大なオーケストラピットと化した。泣き、笑い、怒り、嘆く人々が奏者となり、感情のタクトに操られるまま、狂騒のシンフォニーを奏でている。その中で、新田奏はただ一人、静かに立っていた。彼の頭の中で鳴り響くBGMは、もはや現実の音との境界線を失い、完全に一体化していた。
これは悲劇か。それとも喜劇か。
もう、彼には分からなかった。壊れたマリオネットのように感情を垂れ流す人々を、彼はまるで偉大な指揮者のように見つめていた。カオスのはずなのに、そこには恐ろしいほどの調和があった。絶叫と哄笑が完璧な対旋律をなし、涙と怒りが美しい和音を紡いでいる。
自分だけが、まともだ。
そう思った瞬間、奏は鳥肌が立つのを感じた。この狂ったシンフォニーを、美しいと感じてしまっている自分こそが、一番おかしいのではないか? 絶望しているはずなのに、胸の奥から湧き上がるこの高揚感はなんだ?
ふと、奏の口角がゆっくりと上がった。それは不機嫌協会の偽りの笑顔でも、ガスに操られた狂気の笑顔でもない、静かで、純粋な笑みだった。
まあ、いいか。
彼は心の中で呟いた。
この街が、この世界が、一つの音楽になるというのなら。
この嵐が過ぎ去るまで、あるいは世界が終わるその時まで、最高の特等席で聴き続けてやろうじゃないか。
彼の内なる指揮棒が、しなやかに、そして力強く振り下ろされる。狂騒の街に、まだ誰も聴いたことのない、新しい楽章が生まれようとしていた。