***第一章 天から降ってきた高座***
田中誠の人生は、常にBGMを欠いていた。クラシック音楽が流れるような優雅な午後も、ロックが掻き鳴らされるような情熱的な瞬間も、彼の二十九年の生涯には存在しなかった。彼の世界は、図書館の閲覧室のように静かで、整然としていた。だからこそ、その事件は青天の霹靂だった。
大手広告代理店の第三会議室。湿度と緊張でじっとりと重い空気の中、誠は人生を賭けたプレゼンの真っ最中だった。クライアントである老舗製菓会社「月舟堂」の役員たちが、能面のような顔で彼を見つめている。新商品『なごみキャラメル』のプロモーション企画。この一年、心血を注いできたプロジェクトだ。
「…つきましては、若年層へのアプローチとして、SNSを活用した参加型キャンペーンを…」
スライドを指し示す指先が、微かに震える。心臓が早鐘を打ち、喉が砂漠のように乾く。まずい、頭が白くなってきた。キーワードが、コンセプトが、脳の抽斗からこぼれ落ちていく。沈黙が会議室を支配する。役員の一人が、あからさまに時計に目をやった。
その瞬間だった。
『ええ、てえへんだ、てえへんだ! 大店の旦那がたいそうなご趣味で、古道具屋から妙な太鼓を買い込んできやがった! ポンと叩けば蔵が建つ、なんてえしろもんで…』
どこからともなく、張りのある、小気味良い男性の声が響き渡った。それはまるで、熟練の噺家が高座に上がったかのような、明瞭で抑揚のついた語り口だった。会議室にいる全員が、きょろきょろと辺りを見回す。誰かのスマホか? いや、音源が特定できない。音は、まるでこの空間全体から染み出すように、しかし間違いなく誠のすぐそばから聴こえてくる。
「田中くん、これは?」
上司の訝しげな声が、誠を現実に引き戻す。だが、彼自身が誰よりも混乱していた。だって、その声は、どう考えても自分の頭の中から直接再生されているのだから。
パニックに陥った誠の脳内で、噺家の声はさらにボリュームを上げる。『火焔太鼓』の名で知られる古典落語の一節が、彼の思考を完全に上書きしていく。助けを求めようと口を開けば、出てくるのは意味のない呻き声だけだ。
「あの、これは…その、演出、でして…」
我ながら苦しすぎる言い訳が口をついて出る。当然、誰も信じない。クライアントの眉間の皺は、マリアナ海溝よりも深く刻まれている。プレゼンは史上最悪の形で打ち切られ、誠は茫然自失のまま、自分の頭の中で鳴り響く陽気な太鼓の音を聴いていた。
これが、田中誠の静寂な世界に、突如として建てられた高座の始まりだった。そして彼はまだ、この奇妙な現象が、ただの災厄ではないことを知る由もなかった。
***第二章 落語男の憂鬱***
あの日以来、誠の頭の中は、常設の寄席と化した。彼の感情や思考の起伏に呼応するように、様々な落語が自動再生されるのだ。
朝、寝坊して慌てて家を飛び出すと、頭の中では『粗忽長屋』のそそっかしい男たちが走り回る。昼食時、社員食堂の「本日のランチ」の値段に少し高いなと感じれば、『時そば』のせこい男が屋台で蕎麦をすすり始める。苦手な営業部長の顔を見るだけで『まんじゅうこわい』が流れ出し、思わず顔を背けてしまう。
この現象は、思考が深まったり、感情が昂ったりすると音量が増すらしかった。誠は、自分の心の声がすべて古典芸能に変換されてしまうという、前代未聞のバグを抱えてしまったのだ。
会社での彼のあだ名は、すぐに「落語男」になった。同僚たちは面白がり、あるいは気味悪がり、彼を遠巻きにするようになった。特に辛かったのは、想いを寄せる同期の佐藤さんの前だった。彼女はデザイン部のエースで、太陽のような笑顔が魅力的な女性だ。彼女に話しかけようとすると、極度の緊張からか、決まって男女の駆け引きを描いた艶っぽい『品川心中』や『お見立て』が流れ出してしまうのだ。
「た、田中くん…その、頭、大丈夫?」
先日も、コピー機の前で勇気を振り絞って声をかけた途端、頭の中から「もし、あたしが死んだなら…」なんていう悲痛なセリフが流れ出し、佐藤さんに本気で心配されてしまった。以来、彼女とまともに話すことすらできなくなった。
誠は、この呪いを解くためにあらゆることを試した。有名な神社の厄払い、高名な僧侶による除霊、果てはスピリチュアルカウンセリングまで。しかし、神主の祝詞と『寿限無』が脳内で奇妙なデュエットを奏でただけで、何の効果もなかった。
次第に誠は、心を閉ざすようになった。何も考えなければ、落語も流れない。彼は感情を殺し、思考を停止させ、ただ言われたことだけをこなす無味乾燥なロボットのように働くことを選んだ。彼のデスク周りだけが、まるで音の抜けた真空地帯のようだった。静寂を取り戻した世界は、しかし以前よりもずっと孤独で、冷たかった。
そんなある日、会社の存亡を左右するほどの巨大コンペの話が舞い込んできた。テーマは「伝統文化と現代テクノロジーの融合」。誰もが尻込みする難題に、自暴自棄になっていた誠が、半ば強制的にアサインされた。もう、どうにでもなれ。彼の心は、秋の夕暮れのように冷え切っていた。頭の中では、寂しげな調子の『芝浜』が、静かに流れていた。
***第三章 祖父の拍子木***
コンペの準備は地獄だった。プレッシャーが思考を掻き乱し、頭の中の寄席は連日満員御礼の大盛況だった。企画書に向かえば『三方一両損』が始まり、市場データを分析すれば『千両みかん』が流れ出す。集中しようとすればするほど、脳内の噺家は饒舌になった。
チームのメンバーは、そんな誠を完全に厄介者扱いしていた。そんな中、意外な言葉をかけてくれたのが、このプロジェクトにデザイナーとして参加していた佐藤さんだった。
「田中くんの、その落語…私、嫌いじゃないよ」
ある夜、残業で二人きりになった給湯室で、彼女はそう言って微笑んだ。「なんだか、すごく人間らしいっていうか…。何を考えてるか、ちょっとだけ分かる気がして」
その言葉に、誠の心臓が大きく跳ねた。その瞬間、彼の頭の中に流れ始めたのは、朴訥な男が恋に落ちる『やかんなめ』の一節だった。佐藤さんはくすりと笑い、「それ、どういう意味?」と首を傾げた。誠は顔を真っ赤にして、何も答えられなかった。
しかし、彼女の言葉は、乾いた心に染み渡る一滴の水となった。もう一度だけ、足掻いてみよう。誠は、何かに憑かれたように企画書に向かった。
だが、コンペ前日。極度の緊張と疲労が限界に達し、彼の脳は暴走を始めた。「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ…」あの有名なフレーズが、壊れたレコードのように無限ループで再生され始めたのだ。視界が歪み、意識が遠のく。誠は、デスクに突っ伏すようにして気を失った。
誰かの悲鳴が遠くに聞こえる。救急隊員の声。その喧騒の中、ジャケットの内ポケットから何かが滑り落ち、カタリと乾いた音を立てた。それは、数年前に亡くなった祖父の形見である、小さな木綿のお守り袋だった。
病院のベッドで目を覚ました誠の手に、佐藤さんがそのお守りを握らせてくれた。
「これ、落ちてたよ。大事なものなんでしょ?」
礼を言い、ぼんやりとお守りを眺める。落語が大好きだった祖父。口下手で、不器用で、でもいつも優しい目をしていた。なぜだか無性にお守りの中身が気になり、固く結ばれた紐を解いてみた。
中から出てきたのは、古びたお札…ではなく、米粒ほどの大きさの、黒いマイクロチップだった。
驚いた誠は、病院を抜け出し、専門家である友人の元へ駆け込んだ。チップを解析した友人の口から語られた事実は、誠の想像を遥かに超えるものだった。
「これ、試作品の『共感型思考伝達デバイス』だ。君のお爺さん、昔、音響技術の研究者だったんだろう? その頃に開発してたみたいだ」
祖父は、口下手で人とコミュニケーションを取るのが苦手な孫を心配し、自分が開発していたこのデバイスをお守りに仕込んで渡してくれていたのだ。デバイスには、祖父が趣味で集めた膨大な落語の音声データがインプットされていた。その目的は、誠の思考を音声化し、コミュニケーションを補助すること。しかし、技術は未完成だった。デバイスは誠の強い感情や思考をトリガーにして、そのニュアンスに最も近い落語の演目を引っ張り出し、周囲にだけ聞こえる特殊な周波数で「音」として送信してしまうという、致命的なバグを抱えていたのだ。
さらに、驚くべき事実が判明した。
「面白いのは、このデバイス、一方通行じゃない。周囲の人間の脳波…というか、潜在的な感情の揺らぎを微弱に受信する機能もある。つまり、君の頭で流れる落語は、君だけの思考じゃなくて、その場の『空気』も反映してるんだ」
会議が煮詰まると『火焔太鼓』が流れたのは、役員たちの焦りを。佐藤さんの前で『品川心中』が流れたのは、誠の緊張だけでなく、彼女が抱えていた仕事上の悩みを。あの現象は、呪いでもなければ、病気でもなかった。それは、不器用な祖父が遺した、壮大で少しおかしな愛情の形。人と人とを繋ぐための、温かい拍子木の音だったのだ。
***第四章 これが私のプレゼンです***
コンペ当日。誠は壇上の中央に立っていた。もう、彼の顔に迷いはなかった。隣には、心配そうに、しかし信頼の眼差しで彼を見つめる佐藤さんがいる。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
深々と頭を下げた彼の頭の中から、厳かな出囃子が流れ始めた。会場が少しざわつく。
誠は微笑み、ゆっくりと語り始めた。
「今、私の頭の中では、噺家が登場する時の音楽が流れています。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は少し変わった体質でして…私の思考は、時々、落語になってしまうのです」
彼は、お守りのこと、祖父のこと、そしてこの現象の真実を、包み隠さず語った。それはプレゼンというより、一つの告白であり、彼自身の物語の口演だった。聴衆は、初めは戸惑っていたが、次第に彼の言葉に引き込まれていった。
「この声は、ずっと私のコンプレックスでした。しかし、今は違います。これは、人と繋がりたくても繋がれなかった、不器用な祖父と私の、ささやかな発明なのです」
そして誠は、前代未聞のプレゼンテーションを始めた。彼が提案したのは、商品そのものではなく、この「落語再生機能」を応用した、新しいコミュニケーション・システムだった。
「このデバイスは、場の空気を読み取ります。例えば…」
誠が退屈なデータの説明を始めると、案の定、審査員たちの間に眠気が漂い始めた。すると、彼の頭の中から『あくび指南』が流れ出す。会場から、くすくすと笑いが漏れた。
「しかし、私たちが本当に伝えたい未来の話をすると…」
彼が新商品の持つ可能性を情熱的に語り始めると、審査員たちの目が輝き出した。それに呼応するように、頭の中の演目は、商売繁盛を願う景気の良い『千両みかん』に変わった。
プレゼンは、もはや誠一人のものではなかった。彼の頭の中の落語が、会場全体の感情を代弁し、一体感を生み出していく。それは、テクノロジーと伝統文化が、一人の人間の内面で完璧に融合した瞬間だった。
結果は、満場一致の採用だった。
数週間後、誠は佐藤さんと二人で、浅草演芸ホールの客席に座っていた。舞台の上では、名人と呼ばれる噺家が『親子酒』を演じている。客席が笑いに包まれる中、誠は自分の頭の中でも、同じ『親子酒』が静かに、そして温かく流れているのを感じていた。それは、幸福感に満たされた時にだけ流れる、彼にとって特別な演目だった。
「ねえ、今、何が聴こえる?」
佐藤さんが、そっと訊ねる。
誠は彼女の方を向き、悪戯っぽく笑った。もう、頭の中の声を隠す必要はない。それは恥ずべき呪いではなく、祖父が遺してくれた、世界で一番優しい応援歌なのだから。
「内緒。でも、あなたと同じものが聴こえてるといいな」
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。遠くで聞こえる高座の拍子木の音が、まるで誠の新しい人生の始まりを告げているかのように、彼の心に、そして彼女の心に、朗々と響き渡っていた。
頭の中の拍子木
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