第一章 穴があったら、本当に開く
佐藤健太、三十二歳、独身。彼の人生は、まるで薄めたカルピスのように、刺激もなければ深みもない、そんな味わいだった。中堅の文具メーカー「フジヨシ事務機」で営業として働く彼は、人一倍真面目で、人一倍気が弱く、そして人一倍、致命的にユーモアのセンスがなかった。
その日、健太は人生最大の窮地に立たされていた。新規クライアントへの大型プレゼン。彼の震える声と、モニターに映し出された凡庸なグラフは、会議室の空気を北極の氷原のように冷え切らせていた。重役たちの視線が、まるで細い針のように健太の全身を突き刺す。パワポの最後のページをめくった瞬間、部屋を満たしたのは期待のため息ではなく、失望の沈黙だった。
「……以上です」
絞り出した声は、空虚に響いて消えた。部長の眉間のシワが、マリアナ海溝よりも深く刻まれるのを見て、健太の脳内で警報が鳴り響いた。――何か言わなければ。この氷河期のような空気を、どうにかして溶かさなければ。
そうだ、ジョークだ。気の利いたジョークで、場を和ませるんだ。彼はどこかの自己啓発本で読んだ「失敗は最高の笑いのネタになる」という一文を、お守りのように思い出した。
「いやはや、お恥ずかしい限りで……」健太は乾いた笑いを浮かべ、わざとらしく頭をかいた。「もう、地面に穴があったら入りたい気分ですよ、ははは……」
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
重低音が会議室の床を揺らした。高価な革張りの椅子がガタガタと震え、テーブルの上のミネラルウォーターがさざ波を立てる。次の瞬間、健太の足元、磨き上げられたフローリングの床に亀裂が走り、バリバリと音を立てて崩壊した。
「うわっ!?」
直径一メートルほどの完璧な円形の穴が、ぽっかりと口を開けた。健太は間一髪で後ずさり、穴の縁にへたり込む。埃っぽい風が、奈落を思わせる暗闇から吹き上げてきた。階下は資料室のはずだが、穴の底は暗くて見えない。
会議室はパニックに陥った。「地震か!?」「いや、佐藤君の足元だけだぞ!」「シンクホールか!?」
呆然とする一同の中で、健太だけが自分の言った言葉を反芻していた。「地面に穴があったら入りたい」。まさか。そんな馬鹿な。これはきっと、ビルの老朽化が原因の、単なる偶然の事故だ。そうに決まっている。彼は必死に自分に言い聞かせたが、心臓の奥深くで、今まで感じたことのない冷たい予感が芽生え始めていた。その予感は、まるで穴の底の暗闇のように、不気味で、底知れなかった。
第二章 空からカエルが降る街
穴の一件は、結局「原因不明の局所的な地盤沈下」として処理された。健太は奇跡的に無傷だったが、彼の心には奇妙な棘が刺さったままだった。
「昨日のプレゼン、散々だったな。まあ、ドンマイ」
翌日、同僚の田中がコーヒーを片手に健太の肩を叩いた。
「ああ……。昨日の俺なんて、もうカエルの面にションベンみたいなもんだったよ」
健太は力なく笑い、自嘲気味にそう言った。その言葉が、新たな災厄の引き金を引くとも知らずに。
昼休み、窓の外がにわかに暗くなった。誰かが「夕立かな」と呟いた。しかし、窓ガラスを叩き始めたのは雨粒ではなかった。ペタ、ペタッ、という湿った音。見ると、無数のアマガエルが、まるで吸盤のように窓ガラスに張り付いていた。
「うわ、なんだこれ!?」
「気持ち悪い!」
悲鳴がオフィス中に響き渡る。窓の外は、緑色のカエルの群れで覆い尽くされていた。空から、まるで雹のようにカエルが降り注いでいるのだ。会社の前の通りはあっという間に緑色の絨毯と化し、車はスリップし、通行人は頭を抱えて逃げ惑っていた。気象庁は「観測史上例のない異常気象」と発表し、専門家たちがテレビで首を捻っていた。
健太は、カエルで埋め尽くされた窓の外を眺めながら、血の気が引いていくのを感じた。「カエルの面にションベン」。まさか、またか? 偶然が二度も続くなんてことがあるだろうか。
彼の異変に気づいた者が一人だけいた。経理部の高橋美咲だ。彼女は長く美しい黒髪を一つにまとめ、常に冷静で、感情を表に出さない女性だった。彼女は自分のデスクから、健太の顔色が青ざめていくのを、観察するようにじっと見ていた。彼女は、穴の事件の時も、今回も、健天の奇妙な比喩表現の直後に異常事態が発生していることに、薄々気づき始めていたのだ。
その日の夕方、健太の心労はピークに達していた。部長の執務室から怒号が聞こえてくる。どうやら、例のプレゼンの件で、取引先から大目玉を食らったらしい。
「やばいな……。部長の雷が落ちる前に、とっとと帰ろうぜ」
健太が田中に囁いた、その時だった。
ピカッ!ゴロゴロゴローッ、ドッシャーン!!
青白い閃光がオフィスを走り、鼓膜を破るような轟音が鳴り響いた。ビルのすぐ脇に設置されていた避雷針に、巨大な落雷が直撃したのだ。停電でオフィスは真っ暗になり、スプリンクラーが誤作動を起こして水を撒き散らし始めた。
「きゃあああ!」
「停電だ!」
阿鼻叫喚の中、健太はびしょ濡れになりながら、その場に立ち尽くしていた。間違いない。これは偶然じゃない。俺の、せいだ。俺が口にする、くだらない冗談や比喩が、この世界をめちゃくちゃにしている。
彼の震える肩を、背後から誰かがそっと掴んだ。振り返ると、非常灯の緑色の光に照らされた、高橋さんの真剣な顔があった。彼女は静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「佐藤さん。少し、お話があります」
その声は、健太にとって、最後の審判の宣告のように聞こえた。
第三章 世界で最も危険なダジャレ
高橋さんに連れて行かれたのは、がらんとした給湯室だった。スプリンクラーの水滴が床に落ちる音だけが、やけに大きく響いている。
「単刀直入に言います。最近起きている異常現象は、すべてあなたの発言が原因です」
高橋さんは、淹れたての緑茶の湯気を眺めながら、淡々と言い放った。
「穴の事件の直前、あなたは『穴があったら入りたい』と言いました。カエルが降る前には『カエルの面にションベン』。そしてさっきの落雷の前は、『部長の雷が落ちる』と」
健太は反論できなかった。すべて事実だったからだ。彼は観念して、自分の身に起きている不可解な現象を正直に打ち明けた。高橋さんは眉一つ動かさずに最後まで聞くと、ふう、と小さく息を吐いた。
「言霊、というやつですね。あなたの言葉が、異常なほど強力な現実化の力を持ってしまっている」
「ど、どうすれば……」
「原因に心当たりは?」
健太は必死に記憶を辿った。そして、思い当たった。一ヶ月ほど前、骨董市で手に入れた、奇妙な猿の置物。三猿のように目と耳と口を塞いでいるのではなく、両手でメガホンを作って何かを叫んでいるような、ふざけたポーズの猿だった。彼は毎晩、その猿の置物に向かって、一日の愚痴や不満をぶちまけていた。あれが原因なのか?
家に飛んで帰ると、猿の置物の底に貼られた小さなシールの、埃をかぶった文字が目に飛び込んできた。
『言霊増幅器 サル-03型。注意:当製品はあなたの言葉を現実化します。比喩、冗談、独り言にご注意ください。用法用量を守って正しくお使いください』
「用法用量ってなんだよ!」健太は思わず叫んだ。時すでに遅し。彼の言葉は、もう取り返しのつかない事態を引き起こそうとしていた。
会社は、度重なる異常現象による損害で、倒産の危機に瀕していた。銀行からの融資は打ち切られ、主要な取引先も次々と離れていく。健太のせいだとは誰も知らないが、社内の雰囲気は最悪だった。リストラの噂が囁かれ、皆が疑心暗鬼に陥っていた。
自分のせいで、多くの人の人生が狂わされていく。その重圧に、健太は押し潰されそうだった。彼は会社の屋上のフェンスに寄りかかり、眼下に広がる街を見下ろしていた。もう、何もかもどうでもいい。
「僕のせいだ……僕の、くだらない冗談のせいで、みんなが……」
絶望が彼の心を黒く塗りつぶしていく。自暴自棄になった彼の口から、最悪の言葉が滑り落ちた。
「こんな会社、いっそ、木っ端微塵に吹っ飛んじまえばいいんだ!」
その言葉が空気に溶けた瞬間、足元のビルが地響きを立てて激しく揺れ始めた。壁に亀裂が走り、天井からパラパラとコンクリート片が落ちてくる。そして、どこからともなく、無機質なカウントダウンのアナウンスがビル全体に響き渡った。
《ビル自爆シーケンス、起動。爆破まで、あと十分》
「しまった……!」
健太は絶叫した。自分の口にした言葉が、今まさに数百人の命を奪う巨大な爆弾となってしまったのだ。彼は自分の無力さと愚かさに打ちひしがれ、その場に崩れ落ちた。彼の価値観――真面目に生きていれば大丈夫だとか、言葉なんてただの音だとか、そういった彼の人生の前提が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
パニックで逃げ惑う社員たちをかき分け、高橋さんが屋上に駆け上がってきた。彼女は健太の胸ぐらを掴み、涙を浮かべながら叫んだ。
「あなたの言葉が始めたことでしょう! だったら、あなたの言葉で終わらせなさい!」
「で、でも、何を言えば……」
「試しましょう! 『目の前に世界一美味しいプリンが現れろ!』とか、何でもいいから!」
健太は半信半半疑のまま、震える声で叫んだ。「め、目の前に、プリンを……!」
ドッゴォォン!
屋上の給水塔が天を突く巨大なプッチンプリンに変貌し、カラメルソースの洪水が屋上を浸した。そのあまりにも馬鹿馬鹿しい光景を前に、健太はついに悟った。この力は、絶望のためではなく、何かを創造するためにあるのかもしれない。そして、自分にできることは、ただ一つだけだった。
第四章 言葉にしなくても、伝わること
《爆破まで、あと一分》
無慈悲なカウントダウンが響く中、健太は放送室に駆け込んだ。マイクの前に立ち、大きく息を吸う。全社員が固唾を飲んでスピーカーを見つめていた。
何を言えばいい? これまでの人生、彼は人を喜ばせる言葉など、何一つ紡げたことがなかった。彼のジョークは常に空回りし、人々を白けさせ、時には傷つけてきた。だが、今だけは。この最後の瞬間だけは、本当に意味のある言葉を届けたい。
彼は、自分の弱さ、愚かさ、滑稽さのすべてをさらけ出すことに決めた。
「えー、フジヨシ事務機の皆さん。営業部の佐藤です」
声が震える。
「僕はずっと、面白い人間になりたかった。人気者になりたかった。でも、結局いつもスベってばかりでした。今日、この会社が爆発するのも、僕の、世界で一番つまらないジョークのせいです。僕みたいな男が世界を壊しかけるなんて、壮大なコントですよね」
彼の声に、社員たちは静かに耳を傾けていた。そこにはいつもの空元気な響きはなく、痛々しいほどの誠実さが滲んでいた。
「でも、もし……もしこのコントの最後に、一つだけ奇跡を起こせるなら。僕の人生で最初で最後の、最高のジョークを言わせてください!」
健太はマイクを握りしめ、目を閉じ、心の底から、生まれて初めて本気で誰かの幸せを願って、叫んだ。
「このビルが、ダイヤモンドより頑丈で、おまけに社員全員の給料が未来永劫、毎年倍になる魔法のビルになーれっ!」
それは祈りであり、願いであり、そして最高のユーモアだった。
《……エラー。自爆シーケンスを強制終了。社内システムをゴールデン・パラダイス・モードに移行します》
アナウンスと共に、ビルの揺れがピタリと収まった。くすんでいた壁はプラチナのように輝き始め、窓ガラスは虹色に光るクリスタルに変わった。そして、全社員のスマートフォンが一斉に鳴動した。画面には、信じがたい額の給与振込通知が表示されていた。
歓声が、ビル全体を揺るがした。健太は、その場にへたり込んだ。彼は一躍、会社を救ったヒーローになった。
数日後。健太は会社の屋上で、高橋さんと二人、缶コーヒーを飲んでいた。すっかり様変わりしたビルは、今や世界中から観光客が訪れる名所となっている。
「もうあの力は使わないんですか?」高橋さんが穏やかに尋ねた。
猿の置物は、健太が丁重にお祓いをしてもらって、神社の奥深くに封印された。
「ええ。もう、こりごりです」健太は苦笑した。「言葉にしなくても、伝わることって、あるんですね」
彼はそう言って、空を指さした。
初夏の青い空に、二つの雲が浮かんでいた。一つは、少し困ったように笑う健太の横顔に。もう一つは、その隣で静かに微笑む高橋さんの横顔に、驚くほどよく似ていた。
それが彼の力の残滓なのか、それとも単なる偶然が生んだ自然の芸術なのかは、誰にも分からなかった。だが、健太はもう、言葉で何かを証明しようとは思わなかった。ただ、隣にいる高橋さんと一緒にその奇妙な雲を見上げ、静かに笑い合った。
その微笑みは、どんな気の利いたジョークよりも雄弁に、彼の心の変化と、すぐそばにある幸せの温かさを物語っていた。言葉の呪縛から解き放たれた男が見つけたのは、冗談みたいな現実の中にある、ささやかで、しかし確かな愛おしい日常だった。