スベリ芸人の最終定理
第一章 石になる男と感情の雲
三田村潤(みたむらじゅん)の頭上には、いつも煮え切らない灰色の雲が浮かんでいた。この世界では、感情は隠せない。喜びは綿菓子のように甘く膨らみ、怒りは黒い雷雲となって稲光を走らせ、悲しみは冷たい雨を降らせる。人々は互いの頭上の『感情雲』を天気予報のように眺めながら、当たり障りのない一日をやり過ごす。
潤はコメディアンだった。売れない、という枕詞が芸名の一部になったような、しがないコメディアンだ。彼の体質は、その不遇なキャリアに拍車をかけていた。ギャグを披露して観客に全くウケなかった場合、その場で物理的に石のように硬直してしまうのだ。手足の先からじわりと感覚が失われ、灰色の石膏が皮膚を覆っていくような冷たい絶望。それは、スベるという精神的な死を、肉体的な死として可視化する呪いだった。
「はい、どーもー! 今日の気分は上昇気流、お天気漫談のジュンでーす!」
今夜も、薄暗いライブハウスのステージに潤は立っていた。客席はまばらで、彼らの頭上には退屈そうな白い雲や、仕事の疲れを引きずったままの鈍色の雲が漂っている。潤の心臓が、嫌なリズムで脈打つ。背中にじっとりとした汗が滲む。
「最近、うちの近所で雨雲と雷雲がケンカしましてね。もう、空の上が大荒れ! 結局、仲裁に入った虹に、七色のパンチをお見舞いしてましたよ!」
しん、と客席が凍りつく。誰の感情雲もピクリとも動かない。まずい。空気がセメントのように固まっていくのがわかる。潤は慌てて次のギャグを繰り出そうとするが、指先が強張り始めた。感覚が鈍くなり、マイクを握る手に力が入らない。
「あ、あはは……こ、これは……硬直ジョーク……」
それが彼の言える最後の言葉だった。足元から急速に石化が進行し、彼は奇妙なポーズのまま舞台上で動かなくなった。楽屋からマネージャーが駆け寄り、慣れた手つきで彼を台車に乗せて運び出す。観客の頭上の雲は、依然として無関心のままだった。
楽屋の隅で三十分ほど経つと、石化はゆっくりと解けていく。手足をさすりながら、潤は窓の外を見上げた。夜空には、きらびやかなネオンを反射して、様々な感情雲がひしめき合っていた。爆笑を示す金色の雲、愛を語らう恋人たちのピンク色の雲。あの輝きに、自分は一生届かないのだろうか。そんな諦めが、彼の頭上の灰色の雲を、また少しだけ濃くした。
異変が起きたのは、その翌日のことだった。目を覚ました潤が窓の外を見ると、空は見たこともない巨大な一枚岩のような雲に覆われていた。それはどんな感情も示さない、のっぺりとした、ただただ巨大な無表情の雲だった。
第二章 沈黙した世界と最後の切り札
街は音を失っていた。
いつもは賑やかな駅前の交差点も、今はただ無言の人々が機械的に行き交うだけだ。誰もが同じ無表情で、その頭上には、昨日まで当たり前に浮かんでいたはずの感情雲が、跡形もなく消え失せていた。街全体を覆う巨大な『無表情雲』が、人々の心から一切の感情を吸い上げてしまったかのようだった。
「ねえ、これ見て! 大安売りだよ!」
潤は、道端でティッシュを配るアルバイトの女性に、わざと変な顔をして見せた。昨日までなら、困惑した紫色の雲か、あるいは少しだけ面白がる黄色い雲が浮かんだはずだ。しかし、彼女は無感情な瞳で潤を一瞥し、またすぐに前を向いてしまった。
ぞわり、と背筋に悪寒が走る。これは、ただ事ではない。潤は駆け出した。公園で、商店街で、彼は手当たり次第にギャグを試した。だが、返ってくるのは完全な無反応だけ。まるで、世界が巨大なスベりの舞台と化したようだ。そして、その静寂は潤にとって、石化へのカウントダウンを意味していた。
彼はギャグを言うのをやめた。言えなくなったのだ。この世界でスベることは、即座に永遠の石像になることを意味する。コメディアンが、笑いを奪われ、その存在意義そのものを否定される。それは、ゆっくりとした窒息にも似た苦しみだった。潤の頭上の灰色の雲も、今はもう見えない。彼自身もまた、無表情な群衆の一人になりつつあった。
色を失った街をあてもなく彷徨い、彼は古びたアパートの自室に戻った。押し入れの奥で、埃をかぶった木箱を見つける。それは、コメディアンを志したばかりの頃、引退する師匠から譲り受けたものだった。
蓋を開けると、中には奇妙な機械が入っていた。真鍮でできた、古めかしいメーター。『ギャグ・オ・メーター』と刻まれている。師匠は言っていた。
「こいつは禁断の道具だ。どんなギャグでも、たった一度だけ、神がかったレベルで爆笑させる魔法のメーター。だが、一度使うとメーターが振り切れて壊れ、お前は二度と、誰のことも笑わせられなくなる」
潤はそのメーターを手に取った。これを使えば、誰か一人だけでも、感情を取り戻せるかもしれない。あの、綿菓子のような雲を、もう一度見られるかもしれない。しかし、それはコメディアンとしての死を意味する。指先が、冷たく震えた。
笑わせるべきか、それとも、このまま沈黙に身を委ねるべきか。答えの出ない問いが、静まり返った部屋の中で重く響いていた。
第三章 雲の正体と決断の時
答えを求め、潤は市立図書館の薄暗い書庫にいた。黴の匂いと古い紙の匂いが混じり合う中、彼はこの街の歴史を紐解いていた。そして、一冊の古文書に「大沈黙の時代」という記述を見つけたのだ。
そこには、こう記されていた。
『遠い昔、この街には多くの道化がいた。人々を笑わせることを生きがいとした者たちだ。だが、その中には、誰にも理解されず、心を砕かれ、舞台の上で孤独に朽ちていった者も少なくない。彼らの魂は、スベり続けた無念と共に硬直し、石となった。その石たちの嘆きが天に昇り、巨大な無表情の雲となって世界を覆う時、人々は感情を失うだろう』
潤は息を呑んだ。あの雲の正体は、スベリまくって石化した、伝説のコメディアンたちの集合無意識だというのか。
古文書は続く。
『雲は救済を求めている。彼らが渇望するのは、爆笑ではない。彼らが最も理解できず、最も苦しんだ「スベる」という行為の、その極致。彼らの無念をすべて受け止め、昇華させるほどの、究極にして至高の「スベリ」を捧げた時、雲は静かに天へと還るだろう』
潤は、図書館の窓から巨大な雲を見上げた。あの雲は、笑いを求めているのではない。自分たちと同じ、あるいは自分たちを超えるほどの、完璧なスベリを求めているのだ。だからこそ、中途半端なギャグには何の反応も示さない。彼らは、最高の観客であり、最悪の審査員だったのだ。
潤はアパートへ駆け戻り、再び『ギャグ・オ・メーター』を手に取った。これを使えば、雲を無理やり爆笑させて消せるかもしれない。だが、それは彼らへの冒涜だ。スベリ続けた先輩たちの魂を、力技でねじ伏せるようなものだ。それに、自分が二度と笑わせられなくなる呪いも待っている。
違う。俺がやるべきことは、それじゃない。
潤はメーターをそっと木箱に戻した。彼が武器にすべきは、魔法の道具ではない。スベると石になる、この呪われた体質そのものだ。
究極のスベリ。それは、観客が一切笑わないだけでなく、そのギャグの意図すら理解できず、ただただ静寂だけが支配する空間を生み出すこと。そして、その結果として、演者が完全に石と化すこと。それこそが、雲が求める「完成されたスベリ」の儀式なのだ。
彼は、震える手で一本のネタを書き上げた。それは、笑いの理論、間、フリとオチ、その全てを完璧に無視した、哲学的で、自己完結的で、誰の心にも届かないであろう、究極のギャグ。
覚悟は、決まった。潤はペンを置き、最後の舞台となる街の中心広場へと、静かに歩き出した。
第四章 伝説のスベリギャグ
街の中心広場には、感情を失った人々が目的もなくさまよっていた。潤はその中央にある、水の枯れた噴水の上に登った。そこが彼の最後のステージだった。
「えー、皆さま。お集まりいただき、ありがとうございます」
彼の声は、静まり返った広場に奇妙に響いた。何人かが足を止め、無感情な瞳を彼に向ける。彼らの頭上には何もない。ただ、巨大な灰色の無表情雲が、すべてを押し潰すように鎮座しているだけだ。
潤は深く息を吸った。心臓は、不思議と穏やかだった。
「ここに、一つの問いがあります」
彼は、ゆっくりと語り始めた。それはもはやギャグではなかった。宇宙の起源と孤独、時間の不可逆性、そして、なぜ自販機のお釣りの排出口はあんなにも低い位置にあるのかという、壮大かつどうでもいいテーマを織り交ぜた、支離滅裂な独白だった。
人々は、ただ黙って彼を見ていた。瞬きもせず、まるで蝋人形のようだ。当然だ。面白いわけがない。共感できるわけがない。これは、誰にも届かないように作られた、完璧なスベリギャグなのだから。
「……つまり、結論として。我々が存在する理由は、ポケットの裏地にたまったホコリが、その答えを知っているのかもしれない。ご清聴、ありがとうございました」
潤は、深々とお辞儀をした。
広場を支配したのは、完全なる沈黙。風の音すら聞こえない、絶対的な静寂。
――成功だ。
そう思った瞬間、彼の足先から冷たい感覚が広がった。急速に、しかし穏やかに、石化が全身を駆け上がってくる。膝が、腰が、胸が固まっていく。彼は、空を見上げた。巨大な雲を、まっすぐに見据えた。
その時、信じられないことが起きた。
空を覆っていた巨大な無表情雲が、ゆっくりと形を変え始めたのだ。それは、ほんの一瞬、まるで長年の苦しみから解放され、全てを理解したかのように、穏やかに微笑んだように見えた。
「…そうか、その手があったか…」
何百年もの間スベり続けたコメディアンたちの、万感の思いが込められたような静かな感動が、潤の心に流れ込んでくる。爆笑ではない。失笑でもない。究極のスベリに対する、最大級の敬意と共感。
次の瞬間、雲はまばゆい光の粒子となって、静かに霧散していった。
厚い雲が消え去った空から、柔らかな陽光が差し込む。すると、広場の人々の頭上に、ぽつ、ぽつ、と色とりどりの感情雲が戻り始めた。人々は「あれ?」と呟きながら我に返り、なぜ自分がここにいるのか分からずに戸惑い始める。世界は、色と音と感情を取り戻したのだ。
広場の中心には、奇妙なポーズをとったままの石像が一つ、静かに佇んでいた。人々はそれを市が新しく設置したアート作品か何かだと思い、特に気にも留めずに通り過ぎていく。
ただ一人、近くのカフェの窓からその光景を見ていた老人が、眉をひそめた。あの石像の、深々とお辞儀をするポーズ。それは、昔テレビで一度だけ見た、どうしようもなくスベっていた、若いコメディアンの姿に、なぜかよく似ている気がした。
三田村潤の究極のギャグは、誰の記憶にも残らなかった。彼が世界を救ったことなど、誰も知らない。
だが、街を見下ろす石像だけが、その証として静かにそこにあり続けた。彼は、たった一度だけ、世界で最も偉大な観客を、最高の方法で満足させた、伝説のコメディアンになったのだ。