騒々しい心と、沈黙する太陽
第一章 嵐を呼ぶ男
六月の湿った空気が、会議室の窓ガラスに張り付いていた。だが、部屋の中に充満している不快感は、梅雨のせいではない。
目の前に座る新婦・佐々木美香の唇は、完璧な弧を描いて笑っていた。
「ええ、とても素敵なプランですわ。天真爛漫さん」
嘘だ。
僕の鼻腔をくすぐるのは、彼女が纏うフローラルの香水ではなく、もっと焦げ臭い、ゴムが摩擦で焼け付くような悪臭だった。それは彼女の『我慢』が限界を超えようとしている臭いだ。
僕の胸元につけた、手作り感満載の『誠実第一』と書かれた缶バッジが、カチャリと音を立てて傾いた気がした。裏に仕込んだ安物の集音マイクが、ハウリングのような不快な高音を脳内に流し込む。
ああ、うるさい。彼女の思考が、まるで僕自身の考えであるかのように、脳の言語野へ直接滑り込んでくる。
(予算オーバーよ! こんな金食い虫の演出、ケチな義実家に見せられるわけないじゃない! 笑顔で断るのも限界よ!)
思考と音声の境界線が、僕の中で溶けた。それはあまりにも自然な同意として、僕の喉を震わせた。
「ですよねえ! 予算オーバーもいいとこですよ。こんな金食い虫の演出、あのドケチな義実家に見せたら心臓止まっちゃいますもんね!」
言い切った瞬間、僕の視界の端で、新婦の笑顔が陶器のようにヒビ割れるのが見えた。
あ。
やってしまった。
「て、天真さん……?」
新郎が引きつった声を上げる。だが、もう遅い。
美香の顔から血の気が引き、次いでマグマのような赤色が首筋から這い上がった。彼女の背後の空間が、陽炎のように揺らぐ。
ゴゴゴゴゴ……。
重低音が響き、天井の照明が激しく明滅する。美香の頭上から、どす黒い積乱雲が渦を巻いて発生した。この世界ではありふれた、しかし致命的な『感情具現化現象』。彼女が腹の底に溜め込んでいた激怒が、僕の失言をトリガーに質量を持ってしまったのだ。
「誰がドケチだってぇぇぇっ! 思ってても口に出すなぁぁぁっ!」
ドォォォォン!!
美香の絶叫とともに、物理的な衝撃波がテーブルを直撃した。花瓶が粉砕され、水と薔薇が散弾銃のように弾け飛ぶ。飛び散ったガラス片が頬をかすめる中、僕は慌ててテーブルの下へ潜り込んだ。
「あれ? 僕、また心の声を口に出してました? いや、今のは美香さんがそう思ってるから、つい!」
「言い訳するなぁぁぁ!」
バリバリバリッ! 紫色の稲妻が会議室の壁紙を焼き焦がす。警備員が消火器を持って駆け込んでくる騒ぎの中、僕は這いつくばって部屋を脱出した。
胸の缶バッジは、どこかにぶつけたのか、安全ピンがひしゃげて今にも落ちそうになっていた。
「おかしいな。正直なコミュニケーションこそが信頼の第一歩だって、あの自己啓発本には書いてあったのに」
廊下の窓に映る僕は、煤で真っ黒だった。
第二章 無音の微笑み
数々のイベント会社を出入り禁止になった僕がたどり着いたのは、雑居ビルの三階にある新興企業『サンライズ・プロデュース』だった。
ドアを開けると、僕は思わず耳を塞いだ。
いや、違う。うるさいのではない。あまりにも「静か」すぎたのだ。
どこへ行っても漂っている、他人の嫉妬(腐った卵の臭い)や、不安(湿った段ボールの臭い)、あるいは下心(まとわりつく油の感触)が一切しない。
まるで、完全な無響室に放り込まれたかのような、耳がキーンとするほどの静寂。そこにあるのは、日向の匂いだけだった。洗いたてのシーツを、真夏の太陽の下で乾かしたような、圧倒的な「陽」の匂い。
「やあ、お待ちしていましたよ。天真爛漫太郎さんですね」
奥のデスクから立ち上がった男を見て、僕は目をしばたたかせた。
日向陽介。この会社の社長だ。長身痩躯で、シャツの白さが目に痛いほど眩しい。彼は満面の笑みを浮かべ、右手を差し出してきた。
「初めまして。日向です」
僕は恐る恐るその手を握り返した。いつものように、相手の思考が脳に雪崩れ込んでくるのを身構えて。
初対面の人間は、大抵、心の内で値踏みをしているものだ。『使えなさそうな顔だ』とか『こいつで搾取できるか』とか。
……。
……シーン。
何も聞こえない。
僕の能力が消えたのか? いや、窓の外を歩く通行人の『あー、ラーメン食いてえ』という思考はノイズとして拾えている。
なのに、目の前のこの男からは、思考の音が一切しない。
「どうかしましたか? 顔色が優れないようですが」
「あ、いや。その……社長、今、僕のことどう思いました?」
失礼を承知で尋ねると、日向はきょとんとして、それから柔らかく目を細めた。
「面白いバッジをつけているな、と。それと、君の履歴書にある『歩く災害』という二つ名が、いかにして生まれたのか興味津々ですよ」
裏がない。
言葉の裏側に張り付いているはずの、本音という名のヘドロがない。
僕は背筋が寒くなった。これまで何千人もの心を聞いてきた。どんな聖人君子のような顔をした人間でも、腹の底では毒を吐いているものだ。しかし、この男の精神構造はどうなっている? 彼の内側は、雲ひとつない快晴の空、ただそれだけなのか?
「採用です。太郎くん、明日から僕の相棒(バディ)になってください」
「えっ、いいんですか? 僕、口が災いして前の会社で会議室を一つ消し飛ばしたばかりですよ?」
「ええ、聞いています。だからこそ、君が必要なんです」
日向の笑顔は、あまりにも純粋すぎて、逆説的に不気味ですらあった。僕の能力が通用しない人間。初めて出会う『沈黙する太陽』に、僕は恐怖よりも、抗いがたい引力を感じていた。
第三章 カオス・カーニバル
日向の下で働き始めて一週間。僕たちは、街の商店街が主催する夏祭りの運営を任されていた。
だが、現場は地獄絵図の一歩手前だった。
猛暑日。じりじりと焼けるアスファルトの上で、屋台の配置を巡って商店主たちが揉めている。
「魚屋の煙が服につくって、ブティックの婆さんが文句言ってんだよ!」
「あら、あんたの店こそ生臭いじゃないの! 私の店の商品に臭いがついたらどうするのよ!」
表向きは言い争い程度だが、僕には見えていた。魚屋の親父の背中からは『ドロドロとしたヘドロのような劣等感』が湧き出し、ブティックの女主人の足元からは『刺々しい茨のような敵意』が伸びている。
商店街全体が、人々のネガティブな感情で満ちた圧力鍋のようだ。
「太郎くん、彼らの間に入って調整を」
「えっ、僕がですか!?」
「君なら、彼らが『本当に言いたいこと』がわかるはずだ」
日向に背中を押され、僕は二人の間にたたらを踏んで割り込んだ。
その瞬間、強烈な思考の濁流が僕の脳内に流れ込んでくる。
(このババア、三十年前に俺の告白を断ったくせに! まだ俺を見下してやがるのか!)
(ハゲのくせに偉そうに! その若作りしたアロハシャツ、似合ってないのよ! 昔はもっと素敵だったのに!)
僕の脳は、それを自分の感想だと誤認した。口が、勝手に動く。
「あーもう! 魚屋さんは『三十年前に振られた恨みでマウント取るな』って思ってるし、奥さんは『ハゲのくせに若作りが痛々しい、昔はイケてたのに』って嘆いてますよ! どっちも未練がましいなあ!」
時が、止まった。
「「なんだとぉおおお!?」」
ドォォォォォン!!
僕の言葉が決定打となり、二人の感情が決壊した。
魚屋の背後のヘドロと、女主人の茨が空中で絡み合い、融合する。アスファルトが割れ、そこから巨大な『棘の生えた泥の巨人』が具現化してしまったのだ。巨人は言葉にならない雄叫びを上げ、周囲の提灯をなぎ倒し始める。
「ひいいっ! 出たぁっ! ヘドロ巨人だ!」
商店街はパニックに陥った。逃げ惑う人々の恐怖心(冷たい霧)や、怒り(火の粉)も混ざり合い、巨人はさらに肥大化していく。
僕の胸のバッジは、あまりの負のエネルギーに共振し、ジジジといやな音を立てて煙を上げ始めた。
「やってしまった……まただ……」
いつものパターン。僕はまた、人の傷口を無理やりこじ開けて、世界を壊した。
立ち尽くす僕の肩に、ポンと手が置かれた。
「大丈夫だよ、太郎くん」
日向だった。
この阿鼻叫喚の中で、彼だけが涼しい顔をして立っていた。汗一つかかず、シャツの白さは一点の曇りもない。
「社長! 逃げてください! 僕が本音をバラしたせいで、怪獣が!」
「いいや、君のおかげで『核心』が見えた。彼らが何をエネルギーにして争っているのかがね」
日向は、暴れる泥の巨人の前に、無防備な姿で歩み出た。彼は武器など持っていない。持っているのは、商店街の寄り合いで使う安っぽいハンドマイクだけだ。
第四章 太陽の正体
「みなさーん! ご注目ください!」
日向の声は、マイクの性能以上に、騒音を切り裂いてよく通った。
巨人が、その声に反応して日向を睨みつける。泥の腕が振り上げられた。
僕は目を覆おうとした。だが、日向は巨人を、いや、その核となっている二人の商店主を見据えて、輝くような笑顔で叫んだ。
「魚屋のご主人、ブティックの奥様! お二人の情熱、確かに受け取りました! 三十年越しの感情! そこまで激しくぶつかり合えるのは、お互いを誰よりも意識し、認めている証拠ですね!」
は?
泥の腕がピタリと止まる。
僕も、魚屋も、奥さんも、口をあんぐりと開けた。
何を言っているんだこの人は。二人はただ、醜い過去の清算と罵倒をしていただけだ。未練? コンプレックス? そんなネガティブなものを、どう解釈したらそうなる。
僕は日向の心を読もうと、必死に意識を集中させた。
嘘だ。これは方便だ。この極限状態で、彼もまた『こんな面倒な老害ども、消えてしまえ』と思っているはずだ。そうでなければ人間じゃない。
僕はバッジを握りしめ、日向の心へダイブした。
その瞬間。
『――――』
音が、消えた。
僕の脳内を埋め尽くしたのは、罵詈雑言でも、計算高い策略でもない。
ただひたすらに、目の前の人々への『全肯定』。
(なんてエネルギッシュな商店街だ。三十年も感情をぶつけ合えるなんて、青春そのものじゃないか。魚屋さんの不器用なプライドは職人の誇りだ。奥様の辛辣さは美意識の高さだ。ああ、この二人が手を取り合えば、最高の祭りになるぞ!)
一点の曇りもない、純度100%のポジティブ感情。
それが、あまりにも眩しすぎて、僕の『ネガティブな心の声』を拾う聴覚は、完全にオーバーフローを起こした。
キーン。
僕の耳の奥で、高い音が鳴った。それは浄化の音だった。
日向はマイクを握り直し、さらに畳み掛ける。
「ご主人の『振られた記憶』は、それだけ本気で恋をしていたという勲章です! 奥様の『今の姿への嘆き』は、ご主人にもっと素敵でいてほしいという、愛ある叱咤激励に他なりません!」
「えっ……そ、そうなのか?」
魚屋の親父が、呆気にとられた顔で呟く。
「やだ……私、そんなつもりじゃ……でも、まあ、確かにあのシャツは酷いけど、似合えば格好いいとは思うけど……」
ブティックの女主人が、頬を染めて口ごもる。
その瞬間、巨人の体がボロボロと崩れ始めた。
怪獣を形作っていた『ドロドロの嫉妬』や『刺々しい敵意』が、日向の強引すぎるポジティブ変換によって、『情熱』や『期待』という無害な成分へと書き換えられていく。
「さあ、その情熱を祭りにぶつけましょう! 最強のタッグで、この夏一番の思い出を作るんです!」
日向が拳を突き上げると、巨人は完全に崩壊し、中から色とりどりの紙吹雪のような光の粒子となって霧散した。
後には、憑き物が落ちたようにスッキリとした顔の老人二人が残されただけだった。
「なんだか……やる気出てきたな!」
「そうね、あんた、まずはそのシャツ着替えなさい。私がコーディネートしてあげるから」
拍手が巻き起こる。
僕はへたり込んだまま、その光景を眺めていた。
僕が暴いた醜い傷跡を、この男は「それは美しい模様だ」と言ってのけたのだ。論理は破綻している。だが、その圧倒的な「光」の前では、理屈など無意味だった。
第五章 最強のバディ
夕暮れの商店街。祭りの準備が再開され、あちこちから笑い声が聞こえる。
僕は自販機で買った冷たい缶コーヒーを日向に渡した。
「社長……あなたは、本当に頭のネジが飛んでますね」
日向はコーヒーを受け取り、けろりと言った。
「そうかな? 僕はただ、翻訳をしただけだよ。君が拾い上げてくれた『生の感情』を、彼らが受け取れる形にね」
「僕が拾ったのは、ただの悪口です」
「悪口は、関心の裏返しだ。君は、誰もが隠そうとする『本音の種』を見つける天才だ。ただ、その種をどう育てるかを知らなかっただけさ」
日向は僕の胸元の、ひしゃげた缶バッジを指先でつついた。
「君が爆弾を見つけて、信管を叩く。爆発する前に、僕がそのエネルギーを花火に変える。……うん、悪くないコンビだと思わないかい?」
僕は苦笑した。
僕が人の心の闇を暴き、日向がそれを光に変える。
トラブルメーカーと、ポジティブモンスター。
確かに、それは退屈しそうにない組み合わせだ。
「社長、ひとつだけ言っておきますけど」
僕は自分の口元を指差した。
「僕のこの口は、そう簡単に治りませんよ。さっきも商店会長の頭を見て、『カツラがずれてる』って反射的に言いかけましたから」
日向は腹を抱えて笑った。
「それは言わなくて正解! でも、もし言っちゃったら、僕がすかさず『斬新なアシンメトリー・スタイルですね!』って叫ぶから安心して!」
街には、まだあちこちで小さな感情のさざ波がある。
でも、もう怖くはない。
僕の胸には、ポンコツだけど嘘をつかないバッジと、隣には沈黙する太陽がいるのだから。
「さあ、行こうか太郎くん。次は隣町の盆踊り大会で、太鼓の叩き手が揉めてるらしいよ!」
「はいはい、行きますよ。……まったく、ブラック企業だなあ」
僕の口から出た文句は、珍しく、誰の心も傷つけず、心地よい夜風に溶けていった。