君が星でなくなる日
第一章 銀色の祭壇と埃っぽいワンルーム
湿気た煎餅の袋と、飲みかけのカフェオレ。六畳一間のアパートには、生活の残骸とカビ臭さが淀んでいる。だが、壁の一面だけは異質だった。
そこは、死んだ神様を祀る祭壇だ。
蒼白く発光する四十三インチのモニター。映し出されているのは、三年前、二十三歳でこの世を去った伝説のアイドル・天宮刹那。
霧野燈子は、リモコンを握る指が白くなるほど力を込めていた。画面の中の刹那は、東京ドームの五万人に向かって「愛してる」と囁いている。
「……また、右手を隠した」
燈子は画面に顔を押し付けるようにして睨む。マイクを握る左手とは対照的に、右手は不自然に背中へ回されている。誰も気づかない些細な挙動。だが、燈子の部屋を埋め尽くす膨大なスクラップブックと、網膜に焼き付いた数千時間の映像データが告発している。彼が右手を隠すのは、嘔吐するほどの自己嫌悪を耐えている時のサインだ。
手元のスマートフォンが震える。オークションで競り落とした「天宮刹那の練習生時代のマイクチャーム」。塗装の剥げたプラスチックの塊が、不規則に明滅していた。
これはただのグッズではない。昨日、誤ってこれを床に落とした時、画面の中の――過去のライブ映像の中の――刹那が、ビクリと反応して上を見上げたのだ。
時を超えて、音が届いた。
燈子は震える手でチャームを握りしめた。念じるのではない。物理的に、彼の時間を叩くのだ。
チャームを机の角に強く打ち付ける。
『ガンッ』
硬質な音が響くと同時に、部屋の空気がねじれた。埃っぽい匂いが消え、鼻をつくヘアスプレーの香りと、喉が焼けるような熱気が押し寄せてきた。
第二章 修正液で消された歌詞
視界が歪み、極彩色の光が網膜を焼く。
感覚が戻ると、燈子の意識は天井付近の梁に張り付いていた。眼下には、デビュー直前の楽屋がある。
鏡の前に、十九歳の天宮刹那がいた。
彼はペンを走らせている。作詞ノートだ。その横顔は、燈子が知る「天使」のものではない。血走った目で、親指の爪を噛みちぎりながら、何かを必死に書き殴っている。
『本当の自分なんて、誰にも見せなくていい。完璧な嘘で、世界を騙し通せ』
それが、彼の本心だった。だが、彼はその上に二重線を引き、震える手で『君のための僕でいるよ』と書き換えようとしている。
ここだ。彼が人間であることを辞め、偶像という棺桶に入ろうとした瞬間。
燈子は梁の上にあった照明機材のボルトに意識を集中させた。念動力などない。ただ、老朽化したネジを、ほんの少し緩めるイメージで干渉する。
キリ、と金属が軋む音。
次の瞬間、小さなナットが落下し、刹那の手元にあるコーヒーカップを直撃した。
「うわっ!」
褐色の液体がノートに飛び散り、書きかけの『君のための僕でいるよ』という文字を汚く滲ませる。
刹那は舌打ちをし、汚れたページを破り捨てた。そして、コーヒーのシミが残る下のページに、乱暴な筆致でこう書き殴った。
『泥だらけの嘘でも、君が笑うなら』
世界が激しく揺れる。
吐き気を催す浮遊感の後、燈子は自分の部屋に戻っていた。
激しい動悸を抑えながら、壁を見る。
「……顔が、違う」
ポスターの刹那が、神々しい「天使の微笑み」を浮かべていない。少し皮肉っぽい、挑戦的な眼差しでこちらを見ている。CDの帯のキャッチコピーは『世紀の絶対神』から『反逆のカリスマ』へと変わっていた。
背筋が凍るような違和感。歴史が変わった。
彼が「完璧」でなくなったことで、燈子の胸の中にあった「信仰」に近い熱狂も、冷水を浴びせられたように変質していく。
それでも、燈子はチャームを握り直した。私の「好き」が汚れてもいい。彼が死なずに済むなら、この程度の改変など。
第三章 永遠の檻とタイムカプセル
介入を繰り返すたび、燈子の部屋から「天宮刹那」のグッズが減っていく。
彼の死因となった事故の前夜。
燈子の意識は、彼のマンションに潜り込んだ。
そこには、驚くべき光景があった。
刹那は、翌日のニュース番組を「予言」するように呟きながら、手帳にチェックを入れている。さらに、テーブルの上には、彼が死んだ後に発売されるはずだった、未来の流行歌の譜面が無造作に置かれていた。
「……まさか」
燈子は戦慄した。彼は知っている。明日、自分が死ぬことを。いや、違う。彼は「未来を知った上で、過去をやり直している」のだ。
日記帳が開かれている。そこには、狂気的な筆致でこう記されていた。
『五回目の人生。今度こそ、完璧なタイミングで幕を下ろす。僕が悲劇の若死にを遂げることで、僕の歌は神話になり、永遠のエネルギーになる。それが、未来で絶望する“彼女たち”を照らす唯一の光だ』
燈子の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
彼は、自殺志願者ではなかった。
未来の燈子のような、何かに縋らなければ生きられない弱き者たちのために、自らを「永遠の希望」という燃料にして燃やし尽くそうとする、狂った殉教者だったのだ。
私の救いは、彼の死体の上に成り立っていた。
このまま彼を死なせれば、燈子は今まで通り、彼の幻想に守られて生きていける。
だが、彼を生かせば――。
「天宮刹那」という神話は崩壊する。燈子の中から、彼を愛した記憶ごと、生きる意味が消滅するかもしれない。
刹那がふと、部屋の隅にある観葉植物の方を見た。燈子の意識がそこに宿っていることに気づいたかのように。
「……また、邪魔をするのかい? 名も知らぬ未来の観客よ」
彼は寂しげに笑った。
「僕が生き残ってしまったら、君は何をよすがに生きるんだ? 凡庸な大人になった僕に、君を救う力なんてないんだぞ」
第四章 スポットライトの消灯
運命のラストライブ。東京ドーム。
五万人のサイリウムが銀河のように揺れている。
ステージ中央、ピンスポットを浴びた刹那が、最後の曲を歌い出そうとしていた。この曲を歌い終えた直後、せり上がりの舞台装置が「事故」を起こし、彼は伝説になる手はずだ。
(させない)
燈子はチャームを握りしめた。熱で掌が爛れ、肉が焼ける匂いがする。それでも離さない。
彼女が介入したのは、刹那のマイクでも、照明機材でもない。
彼の耳に装着されたイヤーモニターだ。
燈子は全霊を込め、その回路をショートさせた。爆音のハウリングと共に、燈子の魂の叫びが、ノイズとなって彼の脳髄に直接突き刺さる。
『降りてきなさいよ!』
それは、ファンとしての応援ではない。彼を神の座から引きずり下ろす、愛という名の呪いだ。
『死んで完成する物語なんて、三流の脚本よ! シワだらけになって、腹が出て、声が出なくなっても……無様に生きて、私と一緒に年老いてよ!』
刹那が、よろめいた。
「ぐっ……!」
彼は頭を抱え、膝をつく。完璧だった歌声が途切れた。
ドーム中がざわめく。神様が、転んだ。
刹那はイヤーモニターを毟り取り、荒い息で虚空を睨んだ。その瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
「……はは、ひどいファンもいたもんだ」
マイクがその声を拾う。
「僕に、ただの人間に戻れって言うのか」
彼はふらつきながら立ち上がり、客席を見渡した。そして、憑き物が落ちたような顔で、観客に向かって深く、深く頭を下げた。
「ごめん。……僕は、みんなが思っているような綺麗な人間じゃない」
悲鳴が上がる。偶像が崩れ落ち、人間・天宮刹那が剥き出しになる。
その瞬間、強烈な光が弾けた。
歴史が確定する。
「神話」が消滅する。
それに伴い、燈子の脳内から「天宮刹那」という概念が物理的に削ぎ落とされていく。
まるで脳ミソをスプーンで抉られるような激痛。
(嫌だ、忘れたくない、あなたの名前、あなたの声、私が誰よりも愛した――)
必死に指を伸ばすが、記憶は砂のように崩れ去る。
最後に見たのは、泣き笑いのような表情で、客席のどこか一点を見つめる彼の顔だった。
第五章 名もなき歌
春の風が、カツカツというヒールの音をさらっていく。
オフィス街のランチタイム。霧野燈子は、同僚たちと談笑しながら歩いていた。
「霧野さん、最近なんか雰囲気変わったよね? 明るくなったっていうか」
「え、そうですか? 自分ではよく分からないんですけど」
燈子は屈託なく笑う。
毎日が充実している。仕事も順調だ。けれど、ふとした瞬間に、胸の真ん中を風が吹き抜けるような空虚さを感じる。
自分はかつて、何かとても熱烈な恋をしていたような気がする。あるいは、命がけで何かを守り抜いたような。
だが、その対象が何だったのか、思い出そうとすると頭の奥がズキリと痛むのだ。部屋の壁には何もなく、休日を埋める趣味も見つからない。
駅前の広場を通りかかった時、雑踏の向こうから歌声が聞こえた。
足を止める。
安物のギターを抱えた、ジーンズ姿の男が歌っている。
整った顔立ちだが、目尻には笑い皺があり、どこか生活感のある疲れた表情をしていた。
決して上手くはない。けれど、そのしゃがれた声は、燈子の鼓膜ではなく、もっと奥の、魂の柔らかい部分を直接震わせた。
『星になんてなれなくていい 泥だらけの靴で歩いていく
君が呪ってくれた この素晴らしい世界で』
不意に、燈子の目から涙が溢れ出した。
どうして泣いているのか分からない。初めて聴く曲なのに、懐かしくて、愛おしくて、心臓が千切れそうだ。
男が、ふと顔を上げた。
歌うのを止め、驚いたように燈子を見つめる。
数秒の静寂。
彼の瞳が、微かに潤んだように見えた。
彼はマイクから口を離し、口パクで何かを呟いた。
――みつけた。
その唇の動きを見た瞬間、燈子の胸の空白が、温かい熱で満たされていく。
名前も知らない。過去も知らない。
彼は伝説のスターではないし、私は彼のファンではない。
ただの通行人と、売れないストリートミュージシャン。
けれど、この涙だけが真実を知っている。
燈子は涙を拭い、人混みをかき分けて一歩前へ進んだ。
今度こそ、生身の彼と出会うために。
「素敵な歌ですね」
その言葉に、彼は泥臭く、人間臭く、最高に魅力的な笑顔で応えた。