第一章: 咀嚼する聖女
水滴。
ピチャリ、と粘着質な音が鼓膜を叩く。地下深く、光の届かぬ奈落の底。ここにあるのは、吐き気を催すほどの腐敗臭と、どこまでも続く絶望の闇だけ。
石畳に崩れ落ちた少年が、浅い呼吸を繰り返していた。
白磁のように透き通る肌は、至る所が裂け、継ぎ接ぎのような傷跡が走る。かつては純白だったであろう司祭服。今は泥と脂でドス黒く汚れ、擦り切れた裾からは痩せ細った肢体が覗く。前髪の隙間からぎらつく左目は、血溜まりのように深い紅。対照的な右目は、虚空を見つめて濁りきっていた。
アルト・ヴィセラルは、自身の左肩へと視線を滑らせる。
無い。
そこにあるべき腕が、肘から先で消失している。
断面からは鮮血ではなく、薄いピンク色の体液が滲み出し、ジュワジュワと泡を立てていた。痛みはない。神経が麻痺しているのか、それとも痛みを感じる機能すら「彼ら」に奪われたのか。
お腹が、空いたなぁ。
胃袋が収縮し、背骨に張り付くような感覚。
空腹。それは生物としての根源的な欲求であり、今のアルトにとっては死へのカウントダウン。
視線を巡らせる。瓦礫の山。ネズミの死骸。そして、数メートル先に転がる「それ」。
泥にまみれ、まだ温かさを残している肉の塊。
自分の、左腕。
アルト・ヴィセラル「……あぁ、そこにあったんだ」
這いつくばるアルト。泥濘の中、切断された己の腕を拾い上げる。
重い。自分の体の一部だったものが、これほど重い物質だったとは。
指先はまだ微かに痙攣している。断面からは、甘ったるい鉄の匂いが立ち昇り、鼻腔をくすぐる。溢れ出す唾液。奥歯が浮くような、強烈な食欲。
アルト・ヴィセラル「もったいないな。まだ、動くのに」
彼は躊躇わず、自身の指に噛み付いた。
クリッ、という硬質な音と共に、小指の第一関節が砕ける。
口の中に広がるのは、濃厚な旨味と、鼻に抜ける鉄錆の香り。
咀嚼。クチャ、クチャ、と湿った音が静寂に響く。
――美味い。
今まで口にしたどんな高級食材よりも甘美。魂を震わせる、極上の味。これはただの食事ではない。自己愛の極致。喪失した自分を、自分自身で埋め合わせる行為。
ドクンッ!!
跳ねる心臓。
飲み込んだ肉片が胃の中で熱を持ち、血管を通じて全身へ駆け巡る。切断された左腕の断面が蠢き、肉芽が爆発的に増殖を始めた。
アルト・ヴィセラル「痛いの痛いの、僕においで。全部、食べてあげるからね」
アルトは笑った。
血に濡れた口元を歪め、恍惚とした表情で、残りの腕にかぶりつく。骨を砕き、筋を千切り、髄を啜る。
彼の中で何かが壊れ、そして何かが生まれた音がした。
◇◇◇
第二章: 脳髄のワルツ
ダンジョンの生態系、その激変。
かつて捕食者だった魔物たちが、今や獲物として狩られている。
その中心にいるのは、異形の姿へと変貌したアルトだった。
右腕は漆黒の甲殻に覆われ、巨大な鉤爪となっている。背中からは蜘蛛のような脚が数本伸び、空気を裂いて蠢く。彼は魔物を「治療」と称して捕食し、その優れた器官を自身の肉体に移植し続ける日々。
最下層の一角。
巨大な肉塊の中に埋もれるようにして、一つの「脳」が浮いていた。
上級魔族、ミラ。
かつてダンジョンの主と呼ばれた彼女も、勇者パーティとの激戦で肉体を失い、今はわずかな魔力で生命を維持するだけの存在になり果てている。
アルト・ヴィセラル「見つけた。綺麗な脳だね」
覗き込むアルト。その瞳孔は興奮で開ききっている。
ミラ「……貴様、何者じゃ。人間か? いや、その混ざり合った魂の匂い……」
脳だけになったミラが、テレパシーで直接語りかけてくる。老成した、しかしどこか幼さを残す声。
アルト・ヴィセラル「僕はアルト。君、死にそうだね。可哀想に」
ミラ「同情など不要。早くとどめを刺せ」
アルト・ヴィセラル「そんな野蛮なことしないよ。君の知識、君の魔法、君の痛み……全部、僕の中で生きればいい」
アルトは自身の頭部に手をかけた。
長い爪が、こめかみの皮膚を切り裂く。頭蓋を開く音。パカッ、という乾いた音が、あまりにも軽く響いた。
ミラ「な、何を……!?」
アルト・ヴィセラル「引越しだよ、ミラちゃん。僕の脳の隣、空いてるから」
アルトはミラの脳を優しく掬い上げると、自身の頭蓋の中へ、まるでパズルのピースを嵌めるように押し込む。
繋がる神経。
スパークする電流。
視界が弾け、二つの意識が溶け合う。
あぁぁぁぁぁぁぁッ!!
アルト・ヴィセラル「すごい……! 君の魔力回路、最高だよ。世界が、こんなに鮮明に見えるなんて」
アルトの左目が、深紅に輝き出した。影の中から、黒いドレスを纏ったゴシックロリータ風の少女の幻影が浮かび上がる。
ミラ「……狂っておる。貴様、本当に狂っておるわ」
アルト・ヴィセラル「褒め言葉として受け取っておくね」
二人は一つになった。
孤独な怪物と、瀕死の魔王。
それは世界で最も歪んだ、結婚の儀式。
◇◇◇
第三章: 聖女の解剖学
王都の広場は、凱旋パレードの熱気に包まれていた。
勇者レオン・ブライト。黄金の髪をなびかせ、ミスリルの鎧を輝かせるその姿は、まさに太陽の化身。
その隣には、新たな聖女が寄り添っている。虚ろな瞳で、ただ微笑むだけの人形のような少女。
群衆の影から、フードを目深に被ったアルトが見つめていた。
鼻をつく甘い香り。香油の匂いではない。
あれは、腐臭を隠すための薬品の、鼻をつく香り。
ミラ「おいアルト。あの聖女、中身が空っぽじゃぞ」
脳内で響くミラの声。
アルト・ヴィセラル「うん、知ってる。……レオンたちの体も、なんだかおかしいね」
アルトの「魔眼」は、真実を映し出していた。
レオンの筋肉は異常に肥大化し、血管には青白い薬液が流れている。彼らは強化されているのではない。酷使され、限界を超えて稼働させられているただの「部品」。
その夜。祝賀会の会場。
アルトは姿を現した。かつての仲間たちの前に。
レオン・ブライト「アルト……? 生きていたのか、その汚らしいなりで!」
レオンの手からワイングラスが落ちる。赤い液体が絨毯に染みを作る。
アルト・ヴィセラル「久しぶりだね、レオン。元気そうで何よりだよ」
レオン・ブライト「貴様、追放された分際で! 衛兵! この廃棄物を摘み出せ!」
アルト・ヴィセラル「廃棄物、か。……ねぇレオン。君たちが僕を追放した理由、知ってる?」
「不潔だから」じゃないよ。「不味そうだから」だよ。
凍りつく会場の空気。
レオン・ブライト「な、何を言って……」
アルト・ヴィセラル「君たちの目的は世界平和じゃない。神様への『生贄』を集めること。それも、最高品質のパーツをね。僕は混ぜ物が多すぎて、神様の口に合わなかったんだって」
アルトが一歩踏み出すたび、床がミシミシと悲鳴を上げる。
外れるフード。
露わになったのは、半分が人間、半分が甲殻と粘液に覆われた異形の顔。
アルト・ヴィセラル「でも安心して。神様が食べないなら、僕が食べてあげる。君たちの才能、無駄にはしないから」
ミラ「くくく、晩餐の時間じゃな」
レオンの背後で、聖女が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
裂ける彼女の背中。中から無数の触手が溢れ出す。
それが、この世界の「神」の末端だった。
◇◇◇
第四章: 執刀開始
宴会場は、瞬く間に鮮血の手術室へと変わった。
悲鳴と怒号。逃げ惑う貴族たち。
しかし、勇者パーティだけは動けない。見えない糸に縛られたように、その場に縫い付けられている。
レオン・ブライト「動け! なぜ体が動かん! 俺は勇者だぞ!」
ミラ「神経毒じゃよ。アルトの体液は、気化しただけで麻酔になる」
アルトがゆっくりと、レオンに近づく。
その右手――巨大な鉤爪が、メスのように鋭く光った。
アルト・ヴィセラル「レオン、君のその目。遠くまで見渡せる蒼穹の瞳。素敵だなって、ずっと思ってたんだ」
レオン・ブライト「や、やめろ……来るな! アルト……!」
アルトの指先が、レオンの頬を優しく撫でる。
ひやりとした甲殻の感触に、レオンの肌が粟立った。
まるで恋人に触れるような手つきで、アルトはレオンの瞼を押し広げる。
震える眼球。涙で潤んだその瞳に、異形の怪物が映っていた。
「動かないで。傷がつくと、鮮度が落ちるから」
熱い吐息がかかる距離。
ブチリ。
湿った音がして、視界が闇に染まる。
ギャァァァァァァァッ!!
レオンの絶叫がシャンデリアを揺らす。
アルトの手には、青く輝く眼球が二つ、宝石のように握られていた。彼はそれを自身の眼窩へと押し込む。
繋がる視神経。脳裏に溢れる光。
アルト・ヴィセラル「あぁ、見える……! これが君の見ていた世界か。なんて美しいんだ」
次は魔法使いの心臓。
戦士の脚。
盗賊の神経。
アルトは次々と仲間たちを「解体」し、その優秀なパーツを自身の劣った部位と交換していく。
床には、かつての仲間だった肉塊が転がっていた。まだ息はある。呼吸だけはさせているのだ。
アルト・ヴィセラル「君たちはここで死ぬんじゃない。僕の一部になって、永遠に生きるんだ。……ほら、寂しくないでしょう?」
血の海の中、完成されていくアルト。
最強の勇者。最強の魔術師。最強の怪物。
彼は天井を見上げた。そこには、崩れ落ちた聖女の体から這い出した、巨大な「何か」が渦巻いている。
警告:神性反応を検知。捕食対象として推奨されません。
アルト・ヴィセラル「いただきます」
◇◇◇
第五章: 聖食の儀
王都の上空に、新たな太陽が昇った。
それは黄金ではなく、脈動する肉と光の混合物。
神と呼ばれた集合生命体は、アルトによって内側から食い破られ、その権能ごと乗っ取られた結果。
地上では、人々がひれ伏していた。
恐怖ではない。圧倒的な「救済」への感謝だ。
アルトが放つ光を浴びた者は、病が癒え、欠損した手足が再生し、苦痛から解放された。
ただし、その代償として自我は希薄になり、恍惚とした表情で空を見上げるだけの存在となる。
玉座に座るアルト。
その姿は神々しく、同時に冒涜的だった。
背中には十二の翼。肌はダイヤモンドのように硬質で透明。
そして、その腹部には。
レオン・ブライト「……して……ころ……」
埋め込まれたレオンの顔。苦悶、そして呻き。
その隣には魔法使いの顔、戦士の顔。かつての仲間たちが、アルトの肉体の一部として、永遠に生き続けていた。意識はある。感覚も残っていた。だが、主導権は全てアルトにある。
ミラ「良い眺めじゃな、アルト。これが貴様の望んだ世界か?」
ミラの意識が、アルトの脳内でくすくすと笑う。
アルト・ヴィセラル「うん。みんな一緒だ。もう誰も傷つかないし、誰も捨てられない。……完璧なハッピーエンドだね」
アルトは腹部のレオンの顔を、愛おしそうに撫でた。
レオンの口から、悲鳴とも喘ぎともつかない声が漏れる。
アルト・ヴィセラル「ねぇレオン。世界は僕のために回ってる。……そうだろう?」
かつてレオンが口癖にしていた言葉を、アルトは聖歌のように歌い上げる。
その歌声は王都中に響き渡り、人々は涙を流して新たな神を讃えた。
誰もが幸せで、誰もが狂っている。
アルトは満ち足りた表情で、瞳を閉じた。
その口元には、永遠に消えない慈愛と狂気の笑みが張り付いている。
食事が終わることはない。
この世界がある限り、彼は愛し、食べ続けるのだから。
ごちそうさまでした。