凍てつく雨粒が、着古した黒のダッフルコートを容赦なく打ち据える。冷たい重量。鼻腔を遠慮なく犯すのは、アスファルトが吐き出す埃っぽさと、ひどく生臭い鉄の匂い。
足元の水たまりでは、黒ずんだ赤い液体がどくどくと脈を打ち、雨の波紋を次々と飲み込んでいく。
怜「……ごめん、ね……祈……」
ハイネックのセーターの首元が、刃物によって無惨に引き裂かれている。
色白で儚げな顔立ちから急速に血の気が引き、大理石のような無機質な白さへと変わっていく。
通り魔の凶刃。それが彼の腹部を深々とえぐり、命の熱を外へと引きずり出していた。
祈は黒い瞳を限界まで見開いた。喉の奥で、空気がひしゃげたような異音が鳴る。声帯が、破滅的な悲鳴の形に歪む。
祈「あ……ああ、あああああああッ!!」
膝の関節からスッと力が抜け、冷たい泥水の中にどさりと崩れ落ちた。
白くやつれた手が泥まみれになるのも構わず、急速に冷えゆく怜の頬にすがる。
生ぬるい血が、指の隙間を伝ってポタポタと落ちていく。
そのとき。
背後の暗闇から、コツ、コツと、硬い革靴が水たまりを踏む音が響いた。
廻「ひどい有様ですね。予定調和とはいえ、実に泥臭く、美しい破滅だ」
振り返る。街灯の逆光を背に立つ、長身のシルエット。
銀色の長髪が無造作に束ねられ、細い雨糸の中で揺れている。
片眼鏡の奥の瞳が、無価値な虫の死骸でも観察するように祈の顔をねっとりと這い回る。
仕立ての良い黒の三つ揃いスーツには、激しい雨の雫一つ、不自然なほど当たっていない。
祈「だれ……? なん、でもいい……彼を、助けて……っ!」
ダッフルコートの裾を握りしめ、祈は早口で言葉を吐き出した。
男は慇懃無礼な一礼をして、薄い唇を歪める。
廻「私は廻。時の狭間より参りました。あなたの『残りの寿命』を対価に、針を戻して差し上げましょうか?」
悪魔の契約。そんなことはどうでもよかった。
祈の脳髄には、ただ一つの目的しか刻まれていない。
祈「戻して! 何度やり直してでも、私があなたを死なせない。絶対に!」
《クロノス・リヴァーサル》
視界が、鼓膜を破るような轟音とともに、強烈な白い光に飲み込まれた。

錆びた時計の針が、狂ったように逆回転を繰り返す。
交差点でトラックに撥ね飛ばされる怜。
路地裏で落下物に頭を潰される、見慣れた細い背中。
駅のホームから突き落とされ、鉄の塊に肉を挽かれる凄惨な最期。
何度過去へ遡ったか。血反吐を吐き、狂奔し、あらゆる不確定要素を排除した。
だが、無駄。彼は必ず不自然で凄惨な最期を迎える。
ドクン、ドクンと、耳の奥でひどく冷たい音が鳴り続けている。
東京の寂れた団地の一室。
薄暗い四畳半の部屋で、祈はノートパソコンの液晶画面を血走った目で見つめていた。
画面に映っているのは、路地裏の粗い防犯カメラの映像。
ノイズまじりのモノクロ映像の中で、怜はゆっくりと歩みを進め、わざとカメラの死角へ入り込んでいる。
そして、背後から近づく刃物を持った狂人に、無防備な背中を完全に晒した。
脳裏に、あの雨の日の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
怜「雨の日は、赤い傘がいいね」
窓辺で外を眺めながら、温和な微笑みを浮かべた怜の横顔。
彼が視線を向けていた先には、赤い傘を差した見知らぬ男が立っていた。
その男こそが、数分後に彼を刺し殺す狂人。
ただの偶然ではない。
会話の細部、声のトーン、視線の動き、歩幅のわずかなズレ。
吐き気。目眩。異常なまでに研ぎ澄まされた祈の直観力が、バラバラのパズルピースを無理やり噛み合わせる。
一枚の悍ましい絵画。
マーカーだ。
彼が自ら狂人を扇動し、殺されるための合図。
日常の何気ない会話のすべてが、祈をこの終わらないループへ縛り付けるための、緻密に計算された罠。
救うべき悲劇の被害者であるはずの怜が、死の運命のタクトを自ら振り、祈の行動を監視し、誘導していた。
祈「嘘、だよね……怜、あなたが、自分で……?」
視界がぐにゃりと歪む。
胃の奥から這い上がってくる強烈な吐き気を、祈は手で口を覆って必死に飲み込んだ。

打ち捨てられた廃工場の、冷たいコンクリート床。
錆びた鉄骨の隙間から漏れる月光が、怜の透き通るような白い肌を青白く照らし出している。
祈は荒い息を吐きながら、ダッフルコートのポケットから抜き出したサバイバルナイフを突きつけた。
切羽詰まった声が、空気を鋭く叩く。
祈「なんで! なんで自分で死のうとするの! 私がどれだけ、あなたの足跡を辿って血を吐いてきたか……っ!」
柄を握る指が痙攣のように震えている。
対する怜は、首元のハイネックにそっと触れた。その顔には、いつもの温和な微笑み。
薄く、本当に薄く、唇の両端が吊り上がっている。
怜「君がそこまで僕を愛してくれるなら、僕は君の思い通りになるよ」
靴音を鳴らし、ゆっくりと祈へ歩み寄る。
そして、ためらいもなく自らの胸を、ナイフの切っ先へと押し当てた。
チクりと皮膚が破れ、赤い線がハイネックのセーターに滲む。
怜「だって、僕が悲惨に死に続けなければ、祈は僕だけを見てくれないだろう?」
背筋に太い氷柱をねじ込まれたような寒気が走る。
底なしの支配欲。
死という現象すらおもちゃにし、祈の精神を永遠に独占しようとする、真っ黒に煮詰まった執着。
彼にとって、祈が自分のために泣き叫ぶ顔こそが、極上の蜜だった。
廻「いやはや、最高に滑稽で美しい。極上のエンターテインメントだ」
虚空が揺らぎ、銀髪の男が姿を現す。
片眼鏡を指で上品に押し上げ、芝居がかった手つきでパチパチと拍手をした。
廻「素晴らしい! 愚かな共依存の極み。ですが、少々飽きましたね。高みの見物も、陳腐なハッピーエンドも私の好みではない」
廻がパチンと指を鳴らす。
チク、タク。チク、タク。
永遠に止まっていたはずの秒針の音が、鼓膜を突き破るような音量で鳴り響いた。
廻「時間の契約は強制終了です。さあ、本当の死を迎えなさい」
止まっていた時間が、滝のように流れ出す。
怜の胸に押し当てられたナイフが、重力と時間の法則に従って、彼の肉を深く切り裂き始めた。
鮮血が勢いよく噴き出し、祈の白い頬をまだらに染め上げる。

祈「……ふふ」
低い、地の底から這い出るような声が、祈の唇から漏れた。
怜の体が傾き、コンクリートの床へ崩れ落ちていく。
彼を完全に失う。その極限の恐怖が、祈の脳内のヒューズを完全に焼き切った。
祈「あははははははははッ!!」
祈は狂ったように笑いながら、ナイフを持たない左手を、自らの胸の中央に突き立てる。
廻と結んだ契約。その裏に隠された、一つの致命的なバグ。
祈の直観力はすべてを完璧に把握していた。契約の隙間、魂の質量交換の法則を。
【警告】対象の執着係数が限界値を突破。契約の逆流を開始します。
廻「な……っ!? あなた、自分の存在そのものをベットして……狂っているッ!」
片眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれる。
絶対の特等席で下等生物の足掻きを観賞していた超越者。その端正な顔面に、初めて亀裂が走る。
明確な焦燥。そして、無自覚な戦慄。
祈「うるさいな。私と怜の邪魔をするなら、お前が消えろよ!」
《オーバードライブ・リライト》
千億の秒針が、一斉に砕け散る。
ガラスが粉砕される轟音とともに、廻の体が激しいノイズに包まれた。
三つ揃いスーツが引き裂かれ、彼は悲鳴を上げる間もなく、次元の彼方へと吹き飛ばされていく。
管理者権限、強制剥奪。空間の再構築を実行……
世界の時間が完全に停止し、周囲の風景が溶け落ちていく。
残されたのは、外部から完全に切り離された、二人きりの閉鎖空間。
コンクリートの床に広がる、血の海だけがリアルな色を保っている。
事切れる寸前、薄れゆく意識の中で、怜が祈の顔を見上げて薄く微笑んだ。
怜「……祈、君がそこまで僕を愛してくれるなら……ずっと、一緒だね……」
祈は血だまりの中に両膝をつき、怜のひどく冷たい指先を両手で包み込んだ。
自分の体温を分け与えるように、その指をそっと自らの頬に擦り寄せる。
焦燥と疲労でやつれきったその貌に、初めて、泥のように甘く、爛れた色が滲む。
赤い池に這いつくばるように身を屈め、怜の血まみれの顔に自らの顔を寄せる。
生ぬるい鉄の味と、微かな雨の匂い。
祈は、怜の真っ青な唇を塞ぐように、深く、重く口付けた。
舌先が絡み合い、互いの狂気と痛みが、唾液とともに喉の奥へと流れ込んでいく。
息が詰まるほどの長い接触。心臓の鼓動だけが、互いの皮膚越しに鳴り響く。
ゆっくりと唇を離すと、祈は暗い光を宿した黒い瞳で彼を見つめ、愛おしげに囁いた。
祈「また明日、あなたを殺してあげる」
無限に続く死と再生のループ。
外界から隔絶された血塗られた箱庭で、狂気に満ちた二人の永遠が、静かに幕を開けた。