第一章: 霧の底に這い寄る影
[Sensual]
暗いクローゼットの底で、瀬尾梓は己の呼吸音を殺していた。
埃と、防虫剤のツンとした匂いが鼻腔を突く。
膝を抱え、漆黒の長い髪を乱したまま、首筋に指先を這わせた。
そこには、織原蓮からかつて与えられた、消えかけの痣が残っている。
[A:瀬尾梓:恐怖][Whisper]「……蓮、さま……っ」[/Whisper][/A]
[Pulse]熱い指先[/Pulse]でそこを強く押し込むと、疼くような痛みが全身を駆け巡った。
熱が。あの人の冷徹な温度が、皮膚の奥から蘇る。
[/Sensual]
霧が深く立ち込める、朽木村の朝。
外界との連絡を断つには十分すぎるほど、この集落は静まり返っている。
薄手の白いリネンワンピースが、湿った外気を含んで肌に張り付く。
梓は重い玄関の扉を開け、静かに郵便ポストへ近づいた。
錆びついた受け口から、一通の白い封筒が覗いている。
朝露に濡れた紙は、異質な白さを放っていた。
差出人の名はない。
だが、表書きに並ぶ文字を見た瞬間、梓の呼吸が止まった。
[Impact]瀬尾 梓 様[/Impact]
旧姓での宛名。
そして、ナイフのように尖った、あまりにも美しい万年筆の筆跡。
[Tremble]指先が凍りつく。[/Tremble]
心臓が、肋骨の裏側を激しく叩き始めた。
なぜ彼が、この見捨てられた集落を知っているのか。
婚約破棄を告げ、自分を奈落に突き落とした冷徹な男。
[Think]逃げられない。[/Think]
彼の支配から、あの漆黒の瞳から逃れる術など、最初からなかった。
胃の底からせり上がる冷たい吐き気が、喉を固く締め付けた。
[Pulse]激痛に近い鼓動[/Pulse]が胸の内で暴れ、視界がちかちかと明滅する。
梓は封筒を握りつぶし、這うようにして家の中へ戻った。
夕刻、這いずるような霧が、古民家を完全に包み込んだ。
世界から切り離されたような沈黙。
そのとき、乾いた木を叩くようなノックの音が、静寂を打ち破る。
梓は肩を震わせ、玄関の引き戸をわずかに開けた。
[A:坂上惣一:喜び]「梓さん、これ、畑で穫れた大根だよ。食べておくれ」[/A]
薄汚れた茶色の作業着を着た、隣人の坂上惣一が立っていた。
無精髭に覆われた口元に、親切そうな笑みを浮かべている。
だが、その目は全く笑っておらず、死んだ魚のように暗く濁っていた。
じっと、梓の鎖骨のあたりを見つめている。
[A:瀬尾梓:恐怖]「あ……、ありがとう、ございます、坂上さん……」[/A]
梓の細い指先が、泥のついた野菜の袋を受け取る。
坂上の生気のない瞳が、梓の怯えた首元を執拗になぞった。
ねっとりとした視線が肌を舐め回し、梓の背筋に冷たい汗が伝う。
[A:坂上惣一:冷静]「……顔色が良くないねぇ。都会の娘さんは脆くて可愛いが、心配だよ」[/A]
[A:瀬尾梓:恐怖]「少し、風邪を……引いただけ、ですので……」[/A]
梓は顔色を窺い、無理に笑みを作ろうとする。
引きつった唇が、細かく震えた。
しかし、坂上は値踏みするような視線を外さない。
その沈黙が、喉を締め付ける。
[A:坂上惣一:冷静]「そうかい。ならいいんだが……。実はね、さっき村の入り口で、見慣れない妙な男を見たんだ」[/A]
全身の血が、一瞬で引いていく。
氷水を背中に流し込まれたような感覚。
[A:瀬尾梓:恐怖]「え……? 男、ですか……?」[/A]
[A:坂上惣一:冷静]「ああ。仕立ての良い黒のロングコートを着た、えらく端正な男さ」[/A]
[Flash]最悪の予感[/Flash]が脳裏をよぎる。
坂上は梓の反応を愉しむように、じっくりと、滑らかな声で言葉を紡いだ。
その声は、蛇が這いずるように梓の耳を這う。
[A:坂上惣一:冷静]「君の写真を持ってね、どこに住んでいるかと訊かれたよ」[/A]
[Shout]「あっ――」[/Shout]
声にならない悲鳴が、梓の喉に張り付く。
その瞬間。
古民家の裏手の暗闇から、[Tremble]不快な音[/Tremble]が響いた。
キィ……、ギギギ。
濡れた爪で、古い窓枠を執拗に引っ掻くような、乾いた音が静寂を切り裂いた。
第二章: 逃げ場なき繭の檻

坂上惣一が、怯える梓の肩を薄汚れた茶色の作業着の袖で引き寄せた。
土の匂いと、獣のような汗の臭いが鼻を突く。
だが、今の梓には、その不快な温もりさえも縋るべき蜘蛛の糸だった。
[A:坂上惣一:喜び]「大丈夫だよ、梓さん。私がここにいる。何も心配いらないからね」[/A]
古民家の裏手から聞こえる、乾いた爪が木を引っ掻くような不快な音。
梓は漆黒の長い髪を乱し、首元の詰まった薄手の白いリネンワンピースをきつく握りしめた。
[Pulse]激しく脈打つ鼓動[/Pulse]が喉の奥を塞ぎ、声が出ない。
怯えたように細かく揺れる黒い瞳は、ただ暗闇の窓だけを凝視している。
夜が明け、どんよりとした灰色の光が差し込む中、梓は震える手で錆びた針金を引き戸の金具に幾重にも巻き付けた。爪が割れ、指先から赤黒い血が滲んでも、狂ったように針金を締め上げ続ける。
窓の外は、乳白色の濃い霧が世界の境界を曖昧に溶かしていた。
圏外の表示が点滅する携帯電話を、冷たくなった指先で何度も握り直した。
どこからか、じっと衣服を剥ぎ取られるような粘着質な視線が肌を刺す。
きしり、と。
背後の廊下で、床板が重く沈む音が聞こえた。
家の中に、誰かがいる。
[A:瀬尾梓:恐怖][Whisper]「いや……っ、誰、ですか……」[/Whisper][/A]
[FadeIn]
霧の向こうから現れたのは、額に無造作な黒髪をかからせた、端正で冷徹な男。
仕立ての良い黒のロングコートが、湿った空気の中で異質な存在感を放っている。
射抜くような鋭い双眸が、梓の姿を捉えた。
暗闇の中でも、彼の瞳だけは酷く鮮明に、獲物を狙う猛禽のように光っている。
[/FadeIn]
[Sensual]
[A:織原蓮:愛情][Whisper]「やっと見つけたよ、梓。ずいぶんと遠くまで逃げたね」[/Whisper][/A]
織原蓮が、音もなく距離を詰め、冷たい指先で梓の白い手首を包み込む。
その力は、骨がきしむほどに強く、かつ慈しむように優しい。
捕らえられた皮膚が、彼の体温を吸い上げて熱を帯びていく。
[A:織原蓮:愛情]「君が僕を試すために、こんな田舎へ隠れたのは知っていた。さあ、一緒に東京へ帰ろう。君の借金も、お父さんの居場所も、すべて僕が片付けたからね」[/A]
耳の後ろに這わされる彼の熱い吐息に、全身の毛穴が収縮した。
逃げられないという絶望が、脳髄を甘く痺れさせた。
[/Sensual]
[A:瀬尾梓:恐怖][Shout]「来ないで……! 嫌、嫌ですっ……!」[/Shout][/A]
梓は狂ったように蓮の手を振り払い、裸足のまま雨の濡れ縁へと飛び出した。
泥水がリネンワンピースの裾を汚し、冷たい雨が肌を打ち据える。
目指すのは、唯一の味方である坂上の家だけだった。
泥濘に足を取られ、何度も転びかけながら、必死で走り続ける。
引き戸を激しく叩き、鍵の開いた玄関へと倒れ込む。
[A:瀬尾梓:恐怖]「坂上さん、助けて、あの人が――」[/A]
喉から絞り出した悲鳴が、リビングの光景を目にした瞬間に凍りついた。
[Impact]机の上に散乱する、膨大な「瀬尾梓」の記録。[/Impact]
庭を歩く姿、クローゼットで震える背中、押し花を作る指先。
すべてが、盗撮された鮮明な写真となって並べられている。
傍らでは、電子音を低く発する盗聴器のレシーバーが、不気味に明滅していた。
坂上の部屋全体が、自分を監視するための巣窟と化していた。
[A:坂上惣一:狂気]「都会の娘さんは脆くて可愛いねぇ。本当に、壊しちまいたくなるよ」[/A]
薄汚れた作業着を着た坂上が、濁った目を細めて下卑た笑みを浮かべる。
その隣には、いつの間にか追いついていた織原蓮が立っていた。
息一つ乱さず、冷徹な微笑を浮かべている。
蓮は、坂上へ分厚い茶封筒を手渡し、冷酷な手つきで握手を交わす。
[Think]初めから、私は籠の中の虫だった。[/Think]
逃避行さえも、二人の捕食者によって仕組まれた完璧な演劇。
全ては、彼女を完全に絶望させ、飼い慣らすための筋書き。
全身の力が抜け、湿った畳の上に膝から崩れ落ちた。
視界が[Blur]涙と雨空[/Blur]で激しく歪んでいく。
[A:織原蓮:狂気]「これでもう、お前の役目は終わりだ。よく彼女を追い詰めてくれたね」[/A]
蓮はポケットから、静かに銀色に光る冷たい注射器を取り出した。
冷徹な笑みを浮かべ、梓の首筋にそっと触れた。
その金属の冷たさが、絶望となって皮膚に染み渡っていく。
[A:織原蓮:狂気][Whisper]「もう、僕以外のことは何も考えなくていいんだよ、梓」[/Whisper][/A]
第三章: 閉じた世界の完成

[FadeIn]
ゆっくりと、まぶたの裏に暗闇が戻ってくる。
[/FadeIn]
[Blur]視界の端が酷く濁り、熱を帯びている。[/Blur]
立ち込めるのは、湿った古い畳の匂いと、甘ったるい白檀の香り。
瀬尾梓は、陶器のように白いが血色の悪い肌を震わせ、かろうじて目を覚ました。
額に張り付いた漆黒の長い黒髪を払うことすら、今の彼女には叶わない。
身体が鉛のように重く、指先一つ動かすことすら拒絶される。
[Pulse]ぎちり、と硬い感触が手首を締め付ける。[/Pulse]
[A:瀬尾梓:絶望][Whisper]「あ……、あ、う……」[/Whisper][/A]
細く震える声を漏らし、梓は己の四肢を見下ろした。
首元が詰まった薄手の白いリネンワンピースは乱れ、はだけた鎖骨が剥き出しになっている。
両手首は、幅広の柔らかい黒革のバンドによって、古びた寝台の柱に深く固定されていた。
擦れた皮膚には、すでに何度も誰かに優しく愛撫されたような、桃色の痕跡がびっしりと残っている。
それは、彼によって刻まれた、逃れられない奴隷の烙印だった。
枕元には、絹の擦れる音がしそうな高級な仕立ての洋服と、梓が愛した古い押し花の本が、病的なまでに整然と並べられていた。
まるであらかじめ用意された、彼女のための極彩色の檻。
障子戸が、音もなく滑る。
仕立ての良い黒のロングコートを脱ぎ捨て、白いシャツを緩めた織原蓮が、暗がりに佇んでいた。
その射抜くような鋭い双眸が、寝台の上の獲物を舐めるように捉える。
獲物を完全に手に入れた悦びに、彼の薄い唇が歪んだ。
[Sensual]
蓮は音もなく距離を詰め、きしむ寝台に片膝を乗せた。
冷たい指先が、梓の怯えたように細かく揺れる黒い瞳の端を、優しく、慈しむように撫でる。
溢れ出た涙の雫を、彼は長い舌で、救い上げるようにしてゆっくりと舐め取った。
濡れた感読が頬を伝い、心臓が爆発しそうなほどの恐怖と興奮で脈打つ。
[A:織原蓮:愛情][Whisper]「とても綺麗な涙だ、梓。これでようやく、邪魔者は誰もいなくなったね」[/Whisper][/A]
[A:瀬尾梓:絶望][Tremble]「れん、さま……。さか、がみさんは……」[/Tremble][/A]
[A:織原蓮:狂気]「あの男なら、君を静かに『保護』し続けるための十分な謝礼を受け取って消えたよ。僕たちの新しい生活を、絶対に邪魔しない良き理解者だ」[/A]
耳の後ろの最も敏感な場所に、蓮の熱い唇が押し当てられる。
[Pulse]全身を駆け抜ける、強烈な悪寒と快楽。[/Pulse]
彼の甘い声が、耳から脳へ直接染み渡り、思考を麻痺させていく。
[/Sensual]
逃げ道など、最初からこの世界のどこにも存在しなかった。
崩壊した家、執拗に追い詰める世間の目、親の残した巨額の負債。
それら全ての地獄から、自分を匿い、覆い隠し、生かしてくれるのは。
[Impact]私を壊した、この怪物だけ。[/Impact]
[Think]ああ、私は、もう。[/Think]
彼の胸の中で生きるしか、私には楽園。
梓の胸の奥で、何かが決定的に、美しく破砕した。
抗うことを諦めた身体から、すとんと力が抜けていく。
首筋に回された蓮の強い腕。その息の詰まるような圧迫感が、今は酷く甘美な救済に思えた。
彼の腕の中で、彼女の呼吸は穏やかに同調していく。
[A:瀬尾梓:愛情][Whisper]「……はい。もう、誰も……私を見つけられませんね」[/Whisper][/A]
梓は細い腕を、彼を拒むためではなく、その広い背中を抱きしめるために伸ばした。
拘束具 of ...
拘束具の革が擦れて手首から血が滲むが、その痛みすら甘美な陶酔に変わる。
彼の温かい胸に顔を埋めた。
その口元には、絶望の極限で咲いた、歪で、陶酔に満ちた笑みが浮かんでいた。
窓の外では、這いずるような濃い霧が、古民家を、そして二人の狂った新婚生活を永久に包み込んでいく。
カチリ。
寝室の頑丈なドアに、外側から冷たい鍵がかけられる音が、静寂に響いた。
それは、彼女が世界から完全に、永遠に消滅した合図だった。