第一章: 白銀の断罪台と記憶の灰
冷ややかな大理石の感触が、背中の皮膚を通して骨の芯まで冷気となって伝わる。
息を吸い込むたび、肺の奥が凍りつくような痛みに苛まれた。
視界に飛び込んできたのは、高く聳え立つ天井から垂れ下がる無数の光の鎖と、床一面を血のように赤く染めるバラの花びらだった。
胸元へ垂れる透き通るような銀髪を大きく揺らし、激しい眩暈に耐えながら上体を起こす。
黒真珠と純白のシルクで豪奢に飾られた重厚なドレスが擦れ、背中の片方だけに生えた白く擦り切れた羽が重く沈んだ。
骨が軋む。肉が引きちぎれるような痛みが背を苛む。
その瞬間、首筋に突如として、真っ赤に熱した鉄板を直に押し当てられたような激痛が走った。
「あ、くっ……!」
指先で喉元をさすると、皮膚の奥で熱を放つ複雑な紋様が朱色に発光していた。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「……わたくしの、首筋……? 一体、なにが……」
自身の唇から漏れ出た声でありながら、そこに宿る凛とした高貴な響きすら見知らぬ他人のものに思えた。
脳裏にあるのは完全な空白。己の名すら出てこない。思い出そうとすれば頭蓋の奥で刃が蠢く。
だが、首の皮膚を焼き切るような苛烈な痛みが、本能の深層にひとつの恐ろしい事実を強烈に刻み込んでいた。
己は世界に害をなす、呪われた悪女であるという確信を。
静寂を破り、重厚な靴音が大理石を叩く。
白銀の天界騎士甲冑を纏った男が、漆黒の髪を激しく揺らして立ちはだかっていた。
手に握られた大剣の刃先が、鋭い冷気を放ちながらルシエルの喉元へと突きつけられる。
息すら詰まる絶対的な死の気配。深海のように深い瑠璃色の瞳が、見下ろすように射抜いてくる。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「あら……わたくしを斬り捨てに来たのかしら? 害悪であるわたくしの命を絶ち、英雄にでもなるおつもり?」
悪女としての言葉が、思考を介さず唇から滑り落ちた。
恐怖に震えるどころか、広がる口内の血の味覚に昂揚を覚えさえする。
しかし、大剣を構える男の呼吸は荒く、その瞳に宿っていたのは憎悪などではなかった。
男は突如として大剣を床へ投げ捨てた。
甲冑が硬質でけたたましい音を立てて大理石に響き渡る。
セラフ・アルディス「ああ……その血の如き赤い瞳……冷ややかな眼光……間違いありません、私の神……」
男はルシエルの足元へと崩れ落ちるように膝をつき、甲冑で覆われた頭を低く垂れた。
分厚い胸板が狂おしく上下し、首元にはめられた無骨な鉄の首輪が擦れて鈍い音を立てる。
男は己の首から伸びる重厚で冷たい銀の鎖を両手で捧げ持ち、ルシエルの白く細い指先へと強引に押し付けた。
セラフ・アルディス「私が求めていたお方は、あなただ。私はあなたに踏みつけられ、その足元で息絶えるために生まれてきた……!」
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「……な、なにを戯言を……わたくしは悪ですのよ? あなたを滅ぼす存在かもしれませんのよ?」
セラフ・アルディス「御意、我が主。あなたが悪であるなら、私はその悪を称える罪人となりましょう。私を支配してください、我が主ルシエル様」
セラフと名乗る男の濡れた唇が、ルシエルの黒革の靴先に恭しく、あまりにも深く落とされる。
首筋の烙印が、ドクドクと脈打つように熱を帯びる。
恐怖と背徳感が背脊を灼熱の電撃となって駆け抜け、胸の奥底で歪んだ快楽の芽が芽吹く。
鎖を握りしめる手に自然と力がこもり、鉄の冷たさが指の腹に食い込んだ。
「くっ……ふふ……狂っていますわ……」
ミカエラ・ルノワール「そこまでですわ、不潔な悪徳の女!」
甲高い叫びが宮殿の天蓋に激しく響き渡る。
金色のふわふわとした髪を乱し、純白の聖女装束を身に纏った少女が駆け込んでくる。
可憐な翡翠色の瞳を充血させ、ミカエラはセラフの背中に向けて必死に手を伸ばした。
ミカエラ・ルノワール「セラフ様、正気にお戻りなさい! あんな世界を滅ぼす悪魔の首輪など投げ捨てて、私の救済を受け入れなさいな!」
セラフ・アルディス「失せろ、聖女。我が主の足元を汚すな」
セラフは振り返りもせず、ルシエルの靴先を見つめたまま冷徹に吐き捨てた。
その視線には一欠片の情熱もなく、ただ無機質な拒絶だけが宿っている。
ミカエラ・ルノワール「許さない……許さないわ! あなたたちの記憶が消えてもなお、私から奪おうというのなら……ここで断罪してあげますわ!」
ミカエラが握りしめた宝珠の杖を激しく掲げると同時に、天界の奥底から不気味な重低音が轟いた。
白銀の断罪宮殿全体を揺らし、奥に聳え立つ巨大な封印の扉が軋みを上げて開き始める。
第二章: 偽りの聖痕と暴かれた真実

地鳴りが止み、三人が辿り着いたのは巨大な「神聖祈祷の間」であった。
中央に鎮座する巨大なクリスタルが怪しい群青色の光を放ち、壁面に刻まれた古代文字を鮮やかに浮き立たせる。
光の波紋が空間全体に波及し、過去の光景が空中へ立体的に映し出された。
頭蓋を貫く強烈な衝撃波とともに、失われた映像が焦点を結ぶ。
そこに映っていたのは、天界の腐敗した神々が撒き散らした泥のような汚濁を、一人でその身に引き受けるルシエルの姿だった。
彼女の背にある純白の翼が、人々の醜悪な罪を吸い上げてどす黒く染まっていく。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「……これは……何ですの……? わたくしが……犠牲、になって……?」
記憶の片隅が鋭く疼く。
映し出されたルシエルは凶悪な悪女などではなく、世界を崩壊から救うために自ら悪の烙印を受け入れた哀れな生贄だった。
そして光景は歪みながら変わり、激動の光の中でミカエラが狂ったように笑う姿を映し出す。
セラフの関心がルシエルにしか向かないことに狂乱したミカエラが、天界全体の記憶を消去する禁止術式を発動させた瞬間だった。
ミカエラ・ルノワール「ち、違う……! 違いますわ! これは悪魔が見せる幻影です!」
ミカエラの手から杖が力無く滑り落ち、石畳に甲高い音を立てて転がる。
翡翠色の瞳が激しく泳ぎ、爪が手のひらに深く食い込んで赤い血が滲む。
真実が白日のもとに暴かれた。
世界を滅ぼそうとした悪はルシエルではなく、目の前でガタガタと身を震わせる聖女だったのだ。
しかし、ルシエルは喜び安堵するどころか、己の胸を強く掻きむしり、首筋の烙印を爪で深く傷つけた。
鮮血が白銀の肌を伝い落ちる。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「嫌……! 嫌ですわ! わたくしは綺麗事の聖女などではない! わたくしが悪なのですわ!」
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「悪でなければ……誰かを踏みにじる惨烈な存在でなければ、わたくしは愛されない……! 永遠に救われてなどあげませんわ!」
過去の尊い犠牲という事実が、ルシエルの歪んだ自尊心と存在理由を無残に打ち砕く。
美しき被害者などという言葉は、今の彼女にとって惨死に等しい屈辱だった。
膝から崩れ落ちようとするルシエルの細い腰を、分厚い鉄甲冑の腕が強固に抱き留めた。
セラフの腕がルシエルの背中を強く引き寄せ、重厚な体温と鉄の匂いが密着する。
セラフ・アルディス「あなたが天使であろうと悪魔であろうと、関係ありません。私を繋ぎ止める鎖を握る手は、あなた以外にあり得ないのだから」
セラフの大きな手がルシエルの指に重ねられ、首輪の鎖を力任せに固く締め直させる。
金属の擦れる音が興奮を煽る。
セラフ・アルディス「さあ、我が主。私を苛み、命じてください。真実などという灰に、何の意味もありません」
ルシエルの赤瞳に、黒い炎のような濃密な歓喜が蘇る。
そう、世界がどうあれ、この男は自分だけのものだ。
ミカエラ・ルノワール「ああああっ! 邪魔なのよ、あなたさえいなければ! 全部壊してあげますわ!」
発狂したミカエラの周囲で神聖魔術が制御を失って暴走を始める。
暴風のような光が渦を巻き、神聖祈祷の間が天井から大音響を立てて崩落を開始した。
巨大な光の槍が空間を埋め尽くすように幾重にも生み出され、ルシエルの胸元へと一斉に狙いを定める。
第三章: 堕天の接吻と狂宴の開幕

紫黒色に割れた空から、無数の星の塵が降り注ぐ。
崩れ去る「虚無の天蓋」の上で、無数の光の槍が爆音を立てて空間を穿つ。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「セラフ……!」
ルシエルの視界を遮るように立ちふさがったのは、あの白銀の甲冑だった。
肉を裂き、骨を砕く鈍く生々しい音が響き渡る。
巨大な光の槍がセラフの胸甲を容易く貫通し、その背中へと鋭く抜け出ていた。
大量の赤い鮮血がルシエルの頬と純白のドレスへと吹き飛ぶ。
しかし、致命傷を負ったはずのセラフの唇に浮かんでいたのは、血に染まった恍惚とした笑みであった。
セラフ・アルディス「ああ……痛みが……あなたの前で傷つく快感が……体を満たしていく……」
セラフ・アルディス「あなたを守り、あなたの代わりに身を焦がす……これ以上の至福が、この世にあるでしょうか……」
セラフは胸から溢れ出る大量の血を気に留めることもなく、ルシエルの足元へ再び膝をつき、濡れた靴先へと額を深く押し付けた。
その無惨で背徳的な服従を目にした瞬間、ルシエルの中で繋ぎ止められていた理性の鎖が完全に弾け飛ぶ。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「ああ……ふふ、あはははは! そうですわ、セラフ! あなたはわたくしのもの! わたくしの痛みを奪う、永遠の奴隷ですわ!」
ルシエルは背に残っていた唯一の白い羽を、自らの内から湧き出る黒炎で焼き切り、惨烈に引きちぎった。
舞い散る黒い灰。首筋の断罪の烙印が、漆黒の光を放って悍ましく変形していく。
完全に堕天したルシエルの周囲に、空間を歪める暗黒の炎が嵐となって巻き起こる。
ミカエラ・ルノワール「な、何なのその力は……! 私は聖女なのよ! 正義なのよ!」
《堕天の黒炎》
ルシエルが細い指先をかざすと、黒炎の波浪が津波となってミカエラを呑み込んだ。
悲鳴を上げる間もなく、聖女の装束は焼き尽くされ、絶望の叫びとともに虚無の深淵へと蹴り落とされていく。
世界は完全に崩壊の速度を増していた。
大理石の床が脆く崩落し、足場が次々と暗闇へと消失していく。
だが、二人は逃げようとはしなかった。
崩れかけの玉座へと深々と腰を下ろしたルシエルは、セラフの首輪に繋がれた鎖を、強く強く手繰り寄せた。
セラフの大きな体がルシエルの膝の間へと滑り込むように倒れ込む。
血と鉄の匂いが混ざり合う濃厚で濃密な空気の中、ルシエルはセラフの首筋を抱き寄せた。
ルシエル・フォン・ヴァルハラ「記憶など、永遠に戻らなくて良くてよ。わたくしを縛る鎖と、わたくしを狂愛するあなたさえいれば」
セラフ・アルディス「御意、我が絶対の主。この命、地獄の底まであなたに捧げましょう」
唇と唇が重なる。
濃密な血の味が口内に広がり、熱い吐息が狂おしく交差する。
崩れ落ちる天界の瓦礫の中、二人は世界を道連れにするように、永遠の支配と服従の接吻を交わし続けた。
漆黒の深淵の中、果てることのない二人の狂宴が幕を開ける。