第一章: 悪徳たちの血まみれの上陸
吐き出された海水が喉の粘膜を焼き、激しい咳き込みとともに肺腑から塩辛い汚汁が噴き出す。
びしょ濡れで額に張り付いたプラチナブロンドの隙間から見えた景色は、鉛色の波に洗われる無慈悲な黒砂の浜辺。
引き裂かれたサヴィル・ロウ仕立てのビスポークスーツ、その胸元へ冷たい銀の針先が無音で食い込んでいた。
マリア・クロエ「動かないで、青い目の泥棒猫ちゃん。呼吸を一つ乱すだけで、神経毒が延髄を溶かすわよ」
泥と潮水にまみれた黒のレザードレス。深く裂けたスリットから覗く滑らかな太ももには、肌に直接ストラップで固定された細身の暗殺針が鈍く並ぶ。
切れ長の琥珀色の瞳は獲物の急所を瞬時に測る猛禽そのもの、細められた瞳孔に宿る光はどこまでも冷徹だ。
喉元に押しつけられた針の冷たさに対し、レオ・ヴァレンタインの口元はだらしなく緩み、青天を切り取ったようなサファイア色の瞳孔が異常な輝きを帯びる。
レオ・ヴァレンタイン「ご挨拶だね、マリア嬢。僕の喉を刺すなら、もっと深く押し込んでくれないか?……爪先まで痺れるこの感覚、悪くない」
マリア・クロエ「狂ってるの?……ゾクゾクするほど気持ち悪い男ね」
乾いた侮蔑の言葉とともに、マリア・クロエの指先がわずかに針を沈める。ちくりとした痛痒感、皮膚を破った一滴の血が白い鎖骨を滑り落ちる。
その瞬間、足元の黒砂が微かに沈み、湿った地中からカチリと耳障りな金属音が靴底を激しく震わせた。
泥を上品に払い落とした三つ揃えのツイードスーツを纏う初老の男が、右目の金縁モノクルを指先で静かに直す。
ハインツ・グローバー「おやおや、若い方々は実に情熱的だ。だが動けば足元から一瞬で挽き肉になりますよ」
ハインツ・グローバーの手中にある銀の懐中時計。長針と短針の代わりに、細密な起爆シーケンスを刻む赤いインジケーターが明滅していた。
彼の仕掛けた対人指向性地雷は、わずか零点五ミリの加重変化すら逃さず感知する。
レオ・ヴァレンタイン「ハインツの爺さん、時計の針を止めてみろよ。爆風で僕の身体がちぎれる前に、そのモノクルごと右目を抉り抜いてやる」
マリア・クロエ「同盟ごっこなんて反吐が出るけれど……白亜の神殿の金庫を開けるには、レオのピッキングと爺さんの爆破、私の生体認証が必要なのは事実ね」
マリア・クロエは嘲笑交じりに針を引くと、濡れた唇を舌先で湿らせ、威嚇するようにハインツ・グローバーを見据える。
ハインツ・グローバー「獲物は無二の秘宝『天上の心臓』。島を出るまでの休戦としましょう」
ハインツ・グローバーの枯れた指先が起爆装置の安全ピンを戻す。砂に食い込む足首の緊張が微かに解けた。
だが、密林の入り口へ視線を滑らせた瞬間、レオ・ヴァレンタインの背筋を氷の刃が撫で上げる。
待て……砂浜に残されたこの靴跡は四人分ある。この島にいるのは、僕たち三人だけじゃないのか?
深緑の闇の奥、枝葉の揺らぎすら存在しない不気味な空白が、三人の悪徳を品定めするように見つめ返していた。
第二章: 欲望の夜と喉元の毒牙

鍾乳洞の最奥、燻る焚き火の赤い舌が湿りきった岩壁を不気味に舐め回す。
滴る水滴の反響音が鼓膜を叩く中、ハインツ・グローバーが見張りと罠の設置のために暗がりへと消えていった。
残された暗がり、じっとりと肌を包む湿気の中で、ぬめるような衣擦れの音が背後から忍び寄る。
濡れた黒髪から甘い芳香と海水が混ざり合った雫を滴らせ、マリア・クロエが無防備に横たわるレオ・ヴァレンタインの腰へしなやかに跨がる。
薄い布地越しに伝わる大腿の引き締まった熱。熱い呼気がレオ・ヴァレンタインの首筋を撫で、尖った爪先が傷だらけの胸板をゆっくりと引っ掻いた。
マリア・クロエ「ねえレオ……爺さんには内緒で、二人だけで山分けにしない?あんな化石、神殿の罠で吹き飛ばせばいいわ」
耳朶へ吹き込まれる蜜のような囁き。同時に、下腹部を押しつける彼女の右手には、銀色の薄刃が鈍く握られていた。
レオ・ヴァレンタイン「魅力的な提案だが、ガーターから抜いたナイフを僕の脇腹からどけてくれないか?」
マリア・クロエ「ふふ、バレてた?……本当に美味しそうな喉ね。この毒の爪で気道を塞いであげたら、どんな声で啼くのかしら」
豹変したマリア・クロエの指がレオ・ヴァレンタインの喉笛へと容赦なく食い込む。
ぎしり、と軟骨がきしむ音。
気道が鋼の万力のように締め上げられ、酸素を絶たれた肺が激痛に跳ねる。
ドクン、ドクンと暴走する頸動脈の拍動。
視界の端が赤紫の靄に覆われ、網膜の奥で毛細血管が弾け飛ぶような圧迫感。にもかかわらず、男の口元は狂喜に歪んでいた。
レオ・ヴァレンタイン「ぐ……ッ、あ……!いいぞマリア……もっと強く奪え……だが、天井を見てごらん……」
マリア・クロエ「何ですって……!?」
マリア・クロエが眉を跳ね上げ、視線を鋭く頭上へと跳ね上げる。
鍾乳石の薄暗い隙間、蜘蛛の巣状に張り巡らされた極細のピアノ線。その結節点のすべてに、触れれば骨まで灰にする白リン化合物の信管が鈍く笑っていた。
暗がりから現れた老人の瞳は、獲物を追い詰めた毒蛇のそれだ。
ハインツ・グローバー「実に美しいベッドシーンでしたよ。だが抜け駆けをする輩には、一足早い火葬をプレゼントせねば」
ハインツ・グローバーが細いスイッチに指を沈めようとした、まさにその刹那。
ダッ、ダッ、ダッ!
鼓膜を破らんばかりの破裂音が洞窟内を乱反射し、天井の鍾乳石を容赦なく叩き折った。
放たれた重厚な弾丸の嵐が、ハインツ・グローバーの仕掛けた爆薬の起爆信管をミリ単位の精度で粉砕する。
爆発は起きず、ただ火薬の煤煙と乾いた金属片が降り注ぐ。
『デスゲーム・オークションへようこそ。第三関門クリアを確認。間もなく最終オークションを開始します』
岩肌の隙間に埋め込まれた軍用スピーカーから、一切の感情を排した無機質な合成音声が響き渡った。
第三章: 暴かれた檻と白亜の処刑台

濃密な硝煙の帳を突き抜けた先、視界を奪うほどの強烈な無菌の白が三人を出迎えた。
外観の神殿とは似ても似つかぬ、強化防弾ガラスで完全に密閉された巨大な純白のドーム状ホール。
中央にそびえ立つ冷徹な手術台座、その上に鎮座する黒漆塗りの豪奢な宝石箱へ、ハインツ・グローバーの節くれだった手が貪欲に伸びる。
ハインツ・グローバー「ついに手に入れたぞ!闇市場を支配する伝説の『天上の心臓』!」
マリア・クロエ「待ちなさい!先に触れたらその腕を切り落とすわ!」
マリア・クロエの牽制の叫びをよそに、レオ・ヴァレンタインの視線は足元の床板へ吸い寄せられていた。
冷たいステンレスの床に刻まれた幾重もの金属溝、傾斜の先にある大型の排水口。微かに残る塩素系の消毒液と、拭いきれぬ鉄錆の臭気。
喉の奥が引き攣るような悪寒が走る。
レオ・ヴァレンタイン「待て二人とも……宝物庫じゃない。ここは解体手術室だ!」
言葉を合図にしたかのように、ドームの全周を覆う三階層分の巨大スクリーンが一斉に眩光を放って点灯した。
幾重にも分割されたモニターには、奇怪な能面やデジタルモザイクで顔を隠した何千もの富豪アバターが蠢き、スピーカーから耳をつんざく歪んだ歓声が津波となって降り注ぐ。
『世界最高峰の悪党三名による殺し合いショー、ついに最終盤です。『天上の心臓』とは宝石の名ではありません。最後に生き残った一名の肉体から摘出される、生きたままの心臓のことです!』
マリア・クロエ「私たちが……競売の商品だと!?」
ハインツ・グローバー「笑わせるな!私は爆破の芸術家だ、モルモットではない!」
誇り高き怪盗としての矜持を踏みにじられ、ハインツ・グローバーが自爆覚悟で懐中時計の最終起爆スイッチへ爪を立てた。
その指が沈むよりも疾く、空気を裂く鋭利な閃光が走る。マリア・クロエの手首から放たれた極小の投げナイフが、老人の甲を深々と貫通して骨を砕いた。
ハインツ・グローバー「ぐあああッ!」
マリア・クロエ「死ぬなら一人で逝きなさい!私は生き残って、買い手を全員毒殺してやるわ!」
床に転がるハインツ・グローバーの胸へ容赦なく毒針が突き立てられ、老人の四肢が激しい痙攣の果てに硬直する。
その惨劇を前にして、レオ・ヴァレンタインは手首の拘束具を隠しピンで弾き飛ばし、全身の血潮が沸騰するような笑みを漏らした。
レオ・ヴァレンタイン「あはははは!傑作だ!僕たちの命も悪意も、全部値踏みされていたなんて……最高にゾクゾクするじゃないか!」
マリア・クロエが跳躍し、濡れた瞳で致死の針を振り下ろす。
交差する刹那、レオ・ヴァレンタインは落ちていたダイバーズダガーを逆手に拾い、彼女の吸い付くような胸元へ肉薄した。
ためらいのない一閃。肉と骨を同時に断ち切る生々しい抵抗感。
鮮血の飛沫が純白の壁一面を鮮烈な真紅に染め上げ、マリア・クロエの身体がドームの床へと崩れ落ちた。
第四章: 盗まれたのは誰の心臓か
爆砕されたドームの亀裂から白煙が噴き出し、朝焼けの断崖を叩く冷え切った潮風が煤煙を吹き散らす。
血溜まりの中に転がる二つの物言わぬ肉塊。頭上のモニター群では、天文学的な落札価格のオークションカウンターが熱狂的な勢いでカンストを表示していた。
レオ・ヴァレンタイン「見たかい、悪趣味な観客諸君。生き残ったのは僕だ。君たちが競り落とす『世界一の心臓』はここにある!」
返り血で濡れた己の胸元に指を当て、肋骨の奥で暴れる激しい拍動を確かめる。
その時、煙の漂う通路の奥から、乾いた靴音とともに白衣を纏った老研究員が静かに拍手を打ち鳴らしながら現れた。
「お見事でした、被験体コード:レオ。シミュレーション深度、百パーセントを達成」
レオ・ヴァレンタイン「……何を言っている?シミュレーションだと?」
「気付いていなかったのですか?彼らも、あなた自身も、十年前の処刑時にスキャンされた悪徳人格のデータ断片に過ぎません」
老研究員が手元のホログラム端末に冷たい指を滑らせた。
その瞬間、視界が激しく破綻し、青白いノイズが世界を侵食する。レオ・ヴァレンタインの指先が、網目状のデジタル走査線となってサラサラと崩落し始めた。
「加虐性のマリア、破壊衝動のハインツ、被虐の自己愛を持つレオ。極限下で殺し合わせ、最強の悪意を軍事AIとして結晶化する実験。これこそが『天上の心臓』の真実です」
胸元に走る違和感。震える指先を、血に塗れた自身の裂傷へと深く突き入れる。
肉をかき分けた先、そこにあるべき温かい肋骨や脈打つ内臓は存在しなかった。
肉の裂け目の奥で妖しく明滅する、冷酷な銀色の発光コア。
彼が誇り、信じ込み、痛みに震わせていた命の源泉は、精巧に設計された機械仕掛けの擬似ユニットに過ぎなかった。
レオ・ヴァレンタイン「ああ……そうか。僕が求めていた究極の痛みは、これだったのか……。僕自身が、最初から盗まれた贋作だったなんて!」
絶望が、男の破綻した精神の器から溢れ出す。だが次の瞬間、唇の両端がかつてないほど獰猛に吊り上がった。
他人のシナリオで売られるくらいなら、この手で自分という最高傑作を台無しにしてやる。
レオ・ヴァレンタインは迷わず機械の胸腔へ指をねじ込み、埋め込まれた銀色のコアを力任せに掴むと、火花散る導線ごと一気に引きちぎった。
バチィッ!という電子の破裂音とともに、青白い閃光が弾け飛ぶ。
『致命的エラー。全人格データの消滅を確認。対象は自らを盗み出し、完全消滅しました』
歓声に沸いていた巨大スクリーンが一斉にブラックアウトし、虚無の沈黙が下りる。
風が吹き抜ける断崖には、もはや誰の影も残されていない。朝の陽光だけが、空っぽになった白い舞台をどこまでも無機質に照らし出していた。