第一章: 死化粧の森と紅い甘香
紫黒の濃霧が森の輪郭を削り取っていた。腐葉土が放つ湿った泥の臭気に混じり、咽せるほど濃厚な砂糖漬けの薔薇の香りが鼻腔の奥深くにへばりつく。
擦り切れた黒のロングトレンチコートの裾を重い泥で汚しながら、アレン・グレイは無造作に伸びた濃茶の髪を指先で払い、濃い隈の刻まれた琥珀色の瞳を極限まで細めた。
踏みしめた足元。そこには、太く硬質な荊棘に無残にも四肢を貫通され、胸の肉を裂いて真紅の花弁を満開に咲かせた聖騎士の骸が転がっている。乾きかけた赤黒い血だまりが、ぬらぬらと鈍い光を放っていた。
クラリス・ヴァイス「な、何という惨状……。神の御名において、到底許される冒涜ではない……ッ」
金髪のショートボブを激しく揺らし、純白のサーコートを纏った白銀の甲冑を軋ませながら、クラリスが蒼穹の瞳を恐怖に歪ませる。小刻みに震える白手袋の手が、背の祓魔大剣の柄へと伸びた。
アレンは火傷痕が残る右手の黒革手袋で、肉塊と化した死体の襟元を無造作に探る。その瞳には憐憫の色など欠片もない。喉を掠れさせ、冷え切った低音を吐き出す。
アレン・グレイ「どれほど美しい死体だろうと、暴いた後に残る答えは常に無機質な骨と灰だけだ。……だが、この傷口から立ち上る匂いは、最悪な悪夢そのものだな」
クラリス・ヴァイス「悪夢……? 探偵殿、何か分かったのか」
アレン・グレイ「十年前の調香だ。エルム村の火刑台で灰になり、地獄へ堕ちたはずの魔女が、好んで調合していた毒草と薔薇の蜜の匂いだよ」
あり得ない。エレオノーラはあの紅蓮の炎の中で灰になった。俺が救えなかったあの日、あの瞬間、すべては燃え尽きて終わったはずだ。
アレンの乾いた心臓が、肋骨の裏側で嫌な音を立てて跳ねた。胃の腑の底から苦い胆汁が逆流してくる。
突如、立ち込める霧の深淵から、ガラス細工の鈴を転がすような甘美なハミングが響き渡った。空気が一瞬で凍りつき、二人の足元で無数の血濡れた茨が、肉を求めてのたうつ蛇のように蠢き出す。
クラリス・ヴァイス「伏せろ、アレン殿! 不浄なる魔女め、姿を現せ!」
閃光が闇を切り裂く。クラリスの白銀の大剣が唸りを上げて茨を両断した。しかし、切断面から勢いよく噴き出した紅い樹液は、まるで二人を森の最深部へと誘い込むかのように、滴りながら一本の血の道を描き出していく。
第二章: 解かれた封印と鏡の告発

茨の回廊に導かれ、二人が辿り着いたのは豪奢を極めた洋館の謁見の間だった。崩れかけた高い天井、埃を被ったシャンデリア。そして壁一面には、十年前のエルム村の惨劇――炎に焼かれる家々と逃げ惑う人々を描いたおびただしい数の油彩画が敷き詰められている。
広間の最奥、朽ちた玉座の上にその少女は座していた。腰まで届く月光のようなプラチナブロンドをふわりと揺らし、暗がりの中で深紅に発光する瞳。陶器のように滑らかで血の気のない肌。
黒曜石のビーズと真紅の薔薇で幾重にも飾られた豪奢なゴシックドレスの裾から、白く華奢な生足が覗いている。
エレオノーラ・シルフィード「ふふ……やっと来てくれたのね、アレン。冷たい土の底で、十年間、ずっとあなたの足音を待っていたわ」
アレン・グレイ「……エレ、オノーラ……? なぜお前が……生きて……」
息が止まる。視界が激しく歪む。十年前、腕の中で黒焦げになって崩れ落ちたはずの少女が、当時の面影を完璧に残したまま目の前で微笑んでいた。
クラリス・ヴァイス「《聖別・断罪の刃》「惑わされるなアレン殿! 神の敵たる魔女よ、主の御名において断罪する!」
クラリスの全身から眩い聖気が爆発した。大理石の床を蹴り、白銀の刃を頭上高く振り上げて突進する。
だが、玉座のエレオノーラは微動だにせず、ただ細い指先を優雅に一閃させた。
ドォン!
空間が軋み、真紅の結界が展開する。床から猛然と突き出した硬質な荊棘が、瞬く間にクラリスの両手両足を絡め取り、白銀の甲冑ごと宙へと吊るし上げた。
クラリス・ヴァイス「くっ……あぁっ……!? 体が、引き裂かれる……動かない……!」
肉に食い込む棘から鮮血が滴り落ちる。エレオノーラは身悶えするクラリスなど視界にすら入れず、音もなく玉座を降りた。
裸足のまま冷たい床を踏み締め、幻影のようにアレンの足元へと歩み寄ると、真紅の瞳から一筋の血の涙を流しながら、愛しげに膝を突く。
エレオノーラ・シルフィード「森で無様に散った羽虫たちはね、あなたをここまで無事に連れてくるための道標よ。ねえ、もっと近くで私を見て? あなたのエレオノーラよ」
氷のように冷たく、甘い香りを放つ指先がアレンの手首を絡め取る。彼女はアレンの右手を強引に持ち上げ、彼が握るリボルバーの冷たい銃口を、己の薄い胸布――鼓動の刻まれる左胸の真上へと押し当てた。
エレオノーラ・シルフィード「私を撃って教会に魂を売り、名誉ある英雄になる? それとも……私と一緒に、ここで世界を全部滅ぼしてくださる?」
第三章: 荊棘の抱擁、泥濘の快楽

クラリス・ヴァイス「撃て、アレン殿! それに惑わされるな! 撃つんだ、早く!」
宙に拘束されたクラリスの悲痛な絶叫が、高い天井へと木霊する。
しかし、アレンの指先は撃鉄を起こした引き金の上で、狂ったように震えていた。
琥珀色の瞳の奥に焼き付くのは、十年前、炎の檻の向こうで助けを求めていた無垢な少女の笑顔。そして、己の無力さと臆病さゆえに彼女を見殺しにした、消し去ることのできない罪の刻印。
アレン・グレイ「……救えなかった。あの日、お前を見捨てた瞬間から、俺の命はとっくに死んでいたんだ」
乾いた金属音が虚ろに響き渡った。アレンは握り締めていた銃を手放し、冷たい大理石の床へと投げ捨てた。重い鉄の塊が無力に転がっていく。
エレオノーラ・シルフィード「あはっ……! あははっ! やっぱり、やっぱり私の探偵様……!」
歓喜の悲鳴とともに、エレオノーラはアレンの首筋にしなやかな両腕を絡めつかせた。
狂おしいほどの力で引き寄せられ、奪われる唇。重なり合った瞬間、舌先から雪崩れ込んでくるのは濃厚な薔薇の甘蜜と、神経を痺れさせる毒草の強烈な苦味だ。
エレオノーラ・シルフィード「んむ……っ、ちゅ、ふ……全部、全部あげるわ……私の毒も、命も、身体も……っ」
ドクン、ドクンと狂ったように脈打つ心音。アレンの思考の輪郭が甘美な麻痺によって急速に融解していく。
エレオノーラの鋭い白い歯がアレンの首筋の皮膚を深く食い破った。生暖かい鮮血が溢れ出し、それを少女の柔らかな舌が貪欲に啜り上げる。激痛と同時に走る、背筋を焼き焦がすような甘い痺れ。
アレン・グレイ「エレオノーラ……お前が世界を呪い、拒むというのなら……俺もすべてを捨てる。神も、正義も、人間であることさえも……」
エレオノーラ・シルフィード「あなたの絶望も、十年の孤独も、全部私の胸の中で融かしてあげるわ……♥」
乱暴に引き裂かれる布擦れの音。剥き出しの肌と肌が激しく密着し、濃密な汗と血の匂いが立ち込める。
咽び泣くような喘ぎ声と水音が静寂な謁見の間を汚していく。
宙で茨に縛られたクラリスの目の前で、二人は互いの唾液と体温を貪り尽くし、戻ることのできない背徳の泥濘へと堕ちていった。
やがて訪れた静寂の中、アレンは乱れた黒衣の胸元もそのままに、床へ降り立った。蒼白になり、絶望の涙を溢れさせる若き審問官の足元へと、静かに歩み寄る。
アレン・グレイ「クラリス、お前には生き証人として外界へ戻ってもらわねば困る。……これを飲み干せ」
アレンの手から差し出されたのは、記憶の糸を都合よく塗り替える紫色の魔薬で満たされた銀杯だった。震える彼女の唇に、アレンは冷酷にそれを押し当てた。
第四章: 世界の果ての毒蜜
聖都の公的な記録において、事実は都合よく改ざんされた。『探偵アレン・グレイは深淵の魔女と刺し違え、名誉ある戦死を遂げた』と。
記憶を都合よく書き換えられ、心に深い空白を抱えたクラリス・ヴァイスの証言に基づき、悪夢の荊棘の森は教会最高評議会によって永久封鎖区域に指定された。境界には何重もの結界が張られ、もはや何者も立ち入ることはない。
外界の光も風も一切届かない、漆黒の茨で強固に編み上げられた巨大なドームの底。豪奢な天蓋付きベッドの上で、アレンは心地よい微睡みの中にいた。
エレオノーラ・シルフィード「起きたの、アレン? いい子ね。今日もあなたが大好きな毒草のタルトを焼いたわ」
プラチナブロンドの滑らかな髪を指で梳かれながら、アレンは差し出された漆黒の果実のパイを一口齧る。
舌の上にじわりと広がるのは、痺れるような劇毒の甘みと、全身の力を奪い去る心地よい倦怠感。
アレンは革手袋を完全に脱ぎ捨てた右腕を伸ばし、己の首筋一面にびっしりと刻まれた無数の紫の噛み痕を愛おしそうに撫でた。そして、歪んだ笑みをその唇に浮かべる。
アレン・グレイ「……美味いな。外界の冷めきった泥水のようなコーヒーより、ずっと生きている実感が湧く」
エレオノーラ・シルフィード「ずっと、永遠に一緒よ、私のアレン。死が私たちを分かつことすら、この私が絶対に許さないのだから……♥」
冷たい腕がアレンの首に巻き付き、真紅の唇が再び重なる。外界を完全に切り捨てた楽園の檻の中で、世界を裏切った探偵は、初恋の魔女の甘い毒に溺れながら、終わることのない幸福な悪夢を貪り続けていた。