降りしきる雨が、トタン屋根を無情に叩き続ける。
錆びた鉄と泥水の臭気が立ち込める地下の闇診療所。剥き出しのコンクリート壁に囲まれた空間で、マッチを擦る鋭い音が響く。
チリ、と赤熱する火種。
鳴海伊織は、肺の底まで安い煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
くたびれた黒シャツの上に羽織った白衣は、幾重にも重なった血返りの跡でどす黒く変色し、ボロボロに擦り切れている。無精髭に覆われた顎を撫でる彼の手は酷く冷たく、その三白眼は一切の光を宿していない。
今日も、腐った泥水みたいな一日だ。
不意に、立て付けの悪い鉄扉が甲高い摩擦音を立てて開いた。
生温かい血の匂いが、一気に冷気を塗り潰す。
玲「……たす、け……て……」
どさりと、床に肉塊が崩れ落ちる。
黒いタクティカルウェアは鋭利な刃物でズタズタに引き裂かれ、腹部からは赤黒い内臓が泥まみれの床に溢れ出しかけていた。
ショートカットの黒髪が、脂汗と血で額に張り付いている。
虚ろに揺れるオッドアイ――右目は深淵のような黒、左目は濁った琥珀色――が、すがるように伊織の足元を見上げた。
鳴海 伊織「……ここをどこだと思ってる。ゴミ捨て場じゃねぇぞ」
気怠げに言い放ちながらも、伊織は吸いかけの煙草を床に落とし、靴底で踏み躙る。
ドクン、ドクン。
瀕死の命が発する微弱な脈動。他者にすがりつかれ、必要とされる瞬間。その麻薬のような重みが、伊織の干からびた脳髄を満たしていく。
鳴海 伊織「おい、内臓引きずって俺の床を汚すな。……チッ、運ぶぞ」
錆びたストレッチャーに少女を放り投げ、無影灯の強烈な光を浴びせた。
眩しすぎる光に伊織は目を細める。
麻酔もろくに効かない劣悪な環境。だが、メスを握る伊織の指先は、狂気的なまでの精度で動き始めた。切開、縫合、止血。肉を裂き、命を繋ぎ止める神業。
返り血が彼の頬に飛び散り、三白眼の奥に歪な熱が灯る。
鳴海 伊織「俺の許可なく勝手に死ぬな。……お前がいなくなったら、俺は困る」

地下の湿気が絡みつく深夜。診療所の片隅で、刃を研ぐ微かな金属音がリズミカルに響いている。
玲は膝を抱え、コンクリートの床に座り込んでいた。タクティカルウェアの下に巻かれた無数の血滲む包帯など、気にする素振りさえない。
黒髪から覗く琥珀色の瞳が、手元のナイフにこびりついた血糊を丁寧に拭き取る。
玲「先生の煙草の匂い……好き。ずっと、嗅いでいたい」
作業台に腰掛ける伊織の背中に、玲がすり寄る。
彼女の小さな手が、伊織のくたびれた黒シャツの裾をぎゅっと握りしめた。
伊織は深くため息をつくと、薬品の染み付いた冷たい手で玲の黒髪を乱雑に撫でる。
鳴海 伊織「……勝手にしろ。だが、傷が開いたら次こそ腹を割いて内臓を捨てるぞ」
玲「うん……先生が、そうしたいなら、して」
熱を帯びた甘い声。伊織の手のひらに頬をすり寄せる玲の体温は、彼にとって存在意義そのものに成り果てていた。
他者に依存されなければ呼吸すらできない男。
男を満たす道具であることに至上の価値を見出す少女。
暗く狭い泥濘の中で、二人の根は複雑に絡み合い、腐臭を放つ徒花を咲かせている。
だが、そのぬるま湯は唐突に沸騰する。
鉄扉の向こうから、重厚な革靴の足音が響いた。
同時に、泥水のような空間に場違いなほど優雅な旋律――ワーグナーの鼻歌――が流れ込んでくる。
九条 朔夜「素晴らしい。実に感動的な共依存ですね」
爆音。
鉄扉が吹き飛び、数人の武装した黒服がなだれ込む。
その中央を歩いてきたのは、仕立ての良いスリーピーススーツを着こなした男だった。
知的な銀縁眼鏡の奥で、冷酷でサディスティックな微笑が貼り付いている。
九条朔夜。
鳴海 伊織「……九条。どのツラ下げて来やがった」
伊織の奥歯が軋む。こめかみに青筋が這う。
過去の亡霊。自分の人生を破滅させた元親友。
九条 朔夜「おや、ご挨拶ですね。私の愛犬が粗相をしたと聞いて、引き取りに来てあげたのですよ」
九条の視線が、伊織の背後に隠れる玲を舐め回すように捉えた。
九条 朔夜「ゴミはゴミらしく、泥の中で這いつくばって死になさい。そう教えたはずですが?」
玲「……私を、捨てた、くせに……」
玲がナイフを逆手に構える。
その殺気を鼻で笑い、九条は高級なワインでも転がすように舌なめずりをした。
九条 朔夜「そうそう、鳴海。あなたに一つ、素敵な真実をプレゼントしましょう」
九条は眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
九条 朔夜「あなたが裏社会に墜ちる原因となった、あの忌まわしい医療事故。……実は、私が細工したんですよ。あなたのその眩しすぎる才能が、どうにも吐き気を催すほど目障りでしてね」
空気が、凍りつく。
パキン、と。
伊織の中で、何かが決定的に砕け散った。
「人を救えば、自分の罪は消える」
その自己欺瞞の土台が、根底から粉砕される。
伊織の三白眼が見開かれ、喉の奥から凄惨な嗚咽が漏れた。
鳴海 伊織「お、げぇッ……!!」
胃袋が裏返る。
コンクリートの床に四つん這いになり、伊織は黄色い胃液をぶちまけた。
酸っぱい悪臭が広がる。視界が明滅し、指先が痙攣する。
崩れ落ちる伊織を見下ろし、九条は腹の底から楽しそうに笑う。
九条 朔夜「ああ、最高ですね! その絶望に歪んだ顔! たまりません!」
黒服たちが一斉に銃口を向ける。
だが、彼らの指が引き金を引くより早く、黒い影が床を蹴っていた。
玲だ。
玲「先生の邪魔をする奴は、全部私が壊してあげるッ!!」
痛覚の遮断。未だ癒えきらぬ傷口から鮮血を撒き散らしながら、玲は完全に気配を消して黒服の懐へ潜り込んだ。
銀閃が走る。
動脈から噴き出した血が、天井を朱に染め上げる。
玲「《頸動脈切断》」
熱い血飛沫を浴びながら玲は振り返り、嘔吐して動けない伊織の首根っこを掴んで裏口へと引きずり込む。
九条 朔夜「……逃げなさい。どちらかが息絶えるまで、このゲームは終わりませんよ」
冷たい宣告が、逃げゆく二人の背中に突き刺さった。

冷たい雨が、容赦なく二人の血と泥を洗い流していく。
屋根すらない雑居ビルの屋上。
伊織は苔生したコンクリート壁に背を預け、虚ろな目で泥水のように苦いブラックコーヒーを喉に流し込んでいた。
鳴海 伊織「……お前、俺の足手まといになる気か」
玲「……ううん。先生の、重荷にはならない」
玲は琥珀色の瞳を伏せ、自らの指先にこびりついた血糊をじっと見つめる。
その直後。
伊織の意識が、唐突に深い霧に包まれ始めた。
視界が歪む。手からブリキのマグカップが滑り落ち、鈍い音を立てて転がった。
鳴海 伊織「お前……コーヒーに、何を……」
玲「ごめんね、先生。私が全部、終わらせてくるから」
崩れ落ちる伊織の身体を、玲がそっと抱きとめる。
冷たいコンクリートの上に彼を寝かせ、玲はその頬に額を押し当てた。
玲「玲の震える唇が、伊織の冷たい唇に触れる。
血と泥と、薄い珈琲の味がした。
「……ずっと、一緒にいたかったな」
眠りに落ちていく伊織の鼓動を全身で感じ取りながら、玲は甘く、狂おしい執着を噛み締める。
彼を生かすためなら、この命がここで尽きようと構わない。
自己犠牲という名の、最も美しく歪んだ愛情の証明。
伊織の完全に閉じた瞼を見届けた後、玲は立ち上がる。
手にしたナイフの柄を強く握り直すと、冷たい雨の降る闇の中へと姿を消した。

激しい雨音が、九条の拠点である廃工場の静寂を打ち消す。
工場の中心に置かれた革張りのソファで、九条は優雅に足を組み、グラスの赤ワインを揺らしていた。
足元には、彼を守るための完全武装した傭兵たちが十数人、周囲を警戒している。
[A:九条 朔夜:冷静]「……遅いですね。狂犬は飼い主の下へ真っ先に戻るものですが」
その言葉を嘲笑うかのように。
工場の天窓から、黒い影が雨と共に降り注いだ。
ガシャンッ!!
ガラスの破片が降り注ぐ中、着地と同時に玲が動く。
一切の無駄がない、純粋な殺戮のステップ。
玲「死ねェッ!!」
傭兵A「なっ、上から……ぎゃあッ!」
鮮血の軌跡。
傭兵たちの反撃の隙すら与えず、玲のナイフが喉を、眼球を、心臓を的確に穿つ。
銃弾が彼女の肩や太ももを掠めるが、痛覚などとうに麻痺していた。
「先生のため」という呪いだけが、彼女を最強の殺戮兵器として駆動させている。
だが。
最後の一人を切り伏せ、息も絶え絶えに九条の眼前に迫った玲の腹部に、唐突に鈍い衝撃が走った。
玲「がっ……は……っ」
九条 朔夜「……残念。もう少し楽しませてくれると期待していたのですが」
九条の手には、煙を上げる細身の拳銃。
腹部を撃ち抜かれた玲は、崩れ落ちるように膝をつき、大量の血を吐き出す。
九条は立ち上がり、冷酷な眼差しで彼女を見下ろした。
九条 朔夜「鳴海はどうしました? 逃げたのですか? あの男は結局、自分一人では何もできない出来損ないだ」
玲「……先生を、愚弄……するな……っ」
玲が最後の力を振り絞り、這いつくばるようにしてナイフを振り上げる。
だが、その手首を九条が革靴の底で無慈悲に踏み砕いた。
ボキィッ!
「あアアアアッ!!」
九条 朔夜「うるさいですね。あなたはここで、這いつくばって死――」
言葉は、突如背後から放たれた銃声によって遮られた。
ダァンッ!!
九条の肩が弾け、彼の手から拳銃が滑り落ちる。
「……なに?」
驚愕に目を見開く九条の視線の先。
工場の入り口に、全身ズブ濡れの男が立っていた。
右手に、黒光りする大型のリボルバーを構えて。
鳴海 伊織「……言ったはずだ、九条。俺のモノに勝手に触るなと」
玲「せん……せい……? なんで……薬、飲ませたのに……」
伊織は荒い息を吐きながら、血だまりの中に倒れる玲を一瞥する。
俺が、こいつの浅はかな手口に気づかないわけがねぇだろうが。
伊織の目は完全に据わり、三白眼の奥底にどす黒い狂気の炎が燃え盛っていた。
九条 朔夜「鳴海ィッ!! 貴様、自ら死にに来たか!!」
九条が落ちた拳銃を拾おうと手を伸ばす。
だが、伊織の方が早かった。
鳴海 伊織「地獄へ落ちろ、元親友」
ダァンッ!! ダァンッ!!
銃弾が九条の胸部と頭部を正確に撃ち抜く。
銀縁眼鏡が砕け散り、九条の身体は糸の切れた操り人形のように後方へ吹き飛んだ。
静寂が戻った廃工場。
伊織は銃を投げ捨て、血の海に沈む玲の元へ歩み寄る。
鳴海 伊織「……馬鹿野郎が。勝手に死に急ぐなと言っただろうが」
伊織は玲の体を抱き起こし、手早く止血処置を始める。
その手は震え、ボロボロの白衣はさらに赤く染まっていく。
玲「……先生……怒ってる……?」
玲は微弱な息を吐きながら、血塗れの手で伊織の顔に触れる。
鳴海 伊織「当たり前だ。お前がいなくなったら……誰が俺を満たしてくれるんだ」
玲「……ふふっ……私、先生の役に……立てた?」
「ああ、最高だ。お前は俺の最高の道具だ」
伊織は玲の額に自らの額を押し当て、泥と血にまみれた彼女の唇を深く、執拗に塞いだ。
理性の欠片もない、互いの傷と痛みを舐め合うような濃厚な口付け。
「……ずっと、そばにいてやる。だから……勝手に死ぬな」
雨が上がり、工場の隙間から薄明かりが差し込む。
死体の山の中、血だまりで抱き合う二人の姿。
それは決して美しいものではなかったが、この暗く冷たい世界で、二人だけが理解できる狂気的な幸福の完成図であった。
――泥濘に咲く徒花は、毒をすすりながら、なおも妖しく狂い咲く。