第一章: 断頭台の雨と最後の巻き戻り
冷たい泥水が飛び散り、引き裂かれた純白のドレスの裾を黒く汚していく。
「売国奴の魔女を殺せ!」
広場を埋め尽くす群衆の、耳を劈く怒号が、激しい豪雨の音をかき消していた。
処刑台の中央、泥と血にまみれた白銀の長い髪が、冷たい雨に濡れて頬に張り付いている。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイトは、ただ静かに、灰色の天を仰いでいた。
アメジストの瞳からは生への執着が完全に失われ、抜け殻のように虚ろな光を湛えている。
その背後で、赤と金の豪奢な司祭服をまとった男が、下卑た笑みで唇の端を歪めた。
ルドルフ・バルト「神の厳格なる裁きをここに下せ! 穢れた偽りの聖女に、血の安息を与えるのだ!」
ルドルフ・バルトが細められた狡猾な瞳をぎらつかせ、冷酷に右手を振り下ろす。
重い鉄のレバーに処刑人が手をかけ、金属が擦れ合う嫌な音が雨音に混じった。
群衆の影、ユーリ・ハルバートは氷藍色の三白眼を見開いていた。
漆黒の髪から絶え間なく雨滴が滴り、機能性を重視した黒い調香師コートが重く肌に吸い付く。
首元の奥に隠された、古びた銀のペンダントを、指先が白くなるほどの力で握りしめた。
だめだ、まだ距離が遠すぎる。僕の足では、あの刃が落ちるまでに届かない。
その瞬間、エリーゼの濡れた長い睫毛が細かく震え、真っ直ぐにユーリの姿を捉えた。
アメジストの瞳が、命の灯火を燃やし尽くすかのように、最期の美しい輝きを放つ。
その薄い唇が、激しい雨の防壁を越えて、声にならずに、確かに動いた。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「生きて、ユーリ。私を忘れて、どうか……」
ドスン、と世界を揺るがすような重い金属音が響き渡る。
断頭台の巨大な鉄の刃が、容赦のない速度で重力に従い、落下した。
閃光が走り、視界のすべてが真っ白に染まり、頭蓋の奥が激しく鳴動する。
ユーリの喉から、人間のものではない、獣のような咆哮が飛び出した。
ユーリ・ハルバート「あああああああああああ!」
懐から、漆黒の怪しい液体が波打つ、小さな黒い硝子瓶を乱暴に掴み出す。
自らの残された寿命のすべてを薪として燃やす、禁忌の「因果逆転の香」。
ユーリはそれを、躊躇うことなく冷たい石畳へと叩きつけた。
パリン、と硬質な音が響き、四散した硝子の破片が雨水に沈んでいく。
割れた隙間から、立ち上る妖艶な紫煙と、鼻腔を刺す生々しい血の匂い。
視界の端から、毒々しい赤色に染まっていく。
心臓が内側から、無数の細い針で引き裂かれるような激痛が身体を駆け巡る。
肉体の組織が内側から崩壊を始め、左腕の皮膚に、煤のような死の紋様が深く刻まれていく。
ユーリ・ハルバート「神がお前を殺すというのなら、僕は因果の鎖をすべて引きちぎり、神を殺してでもお前を救い出す!」
ドクン、と心臓の鼓動が不自然に引き伸ばされ、世界の音が止まる。
ガガ、と視界がノイズのように歪み、すべての雨粒が天へと逆流を始めた。
底知れぬ暗闇へと墜落する意識の中、ユーリはただ、あのアメジストの光だけを追いかけていた。
耳に届いたのは、地獄のような豪雨ではなく、穏やかで静かな小鳥のさえずりだった。
窓から差し込む柔らかな朝の光と、棚に干された乾燥ハーブの、鋭く乾いた香気。
ユーリは弾かれたように上体を起こし、浅く荒い呼吸を何度も繰り返した。
見覚えのある木製の天井、無数の硝子瓶、ここは3年前の、自身の調香工房だ。
ユーリ・ハルバート「ハァ、ハァ……、戻った、のか。また、あの場所から……」
乾いた喉を震わせ、自身の左腕の袖を、焦燥に駆られて乱暴に捲り上げる。
そこには、肉体が終わりの時を迎えることを告げる、煤のような黒い紋様が確実に広がっていた。
5度目のループ、自らの寿命が耐えられる、これが最後の人生的限界だった。
第二章: 無毒の猛毒と狂い始める歯車

すり鉢の中で、じっくりと乾燥させた白檀の繊維が、極細の粉末へと擦り潰されていく。
ユーリ・ハルバートは、狂気的なまでの精密さで、乳棒を機械的に動かしていた。
漆黒の髪が額に張り付き、氷藍色の三白眼が、調香台の上の微量な目盛りを凝視し続ける。
過去4回のループで学んだのは、ルドルフを直接毒殺しようとすれば、必ず失敗するということだ。
教会の異常なまでの警戒網に阻まれ、結果としてエリーゼの早期処刑を招く最悪の因果を辿る。
直接殺せば、新たな因果がエリーゼを絡め取る。なら、無害な線を張り巡らせて自滅させる。
調香瓶を満たしていく琥珀色の液体は、毒物反応を示すことのない、ただの美しい香水だ。
それ単体では、精神を深く安らげる、至高の白檀の香気。
しかし、ルドルフが好む安息香の煙と、彼が毎日愛飲する年代物の高級赤ワイン。
その2つが体内で混ざり合った時、脳の神経細胞を特異的に破壊する致命的なトリガーとなる。
これこそが、因果を狂わせる無毒の猛毒。
工房の重い木製の扉が、品性のない乱暴な力で押し開けられた。
赤と金の刺繍が施された豪奢な司祭服をまとった、恰幅のいい男が、傲慢に靴音を響かせる。
指に嵌められた、信徒から搾取した宝石の指輪が、窓からの陽光を反射して不快に光った。
ルドルフ・バルト「ふむ、相変わらず地下の墓所のような陰気な臭いが立ち込めているな、ユーリ」
教皇代理ルドルフ・バルトは、整えられた髭を尊大に撫でながら、ユーリを見下した。
ユーリは一瞬で顔から一切の感情を消し去り、黒いコートの裾を整え、深く首を垂れる。
ユーリ・ハルバート「これは教皇代理閣下。高貴な御身直々のご訪問、心より光栄に存じます」
今すぐその肥え太った喉笛を切り裂き、その不快な瞳を抉り出してやりたい。
ユーリは調香台から、光を透して美しく輝く、琥珀色の特製硝子瓶を恭しく両手で捧げ持った。
ユーリ・ハルバート「閣下のために、特別な調合を施しました。精神を高め、高潔さを際立たせる白檀でございます」
ルドルフは細められた狡猾な瞳で瓶を凝視し、奪い取るようにしてユーリの手から引き剥がした。
乱暴に栓を抜き、鼻腔を近づけて、これ以上ないほど深くその香気を吸い込む。
ルドルフ・バルト「……おお。脳髄の奥が痺れるような、なんと甘美で、高貴な芳香だ」
恍惚
ルドルフの平坦な顔に、下俗な欲望と支配欲を隠しきれない醜悪な笑みが浮かび上がった。
彼は重い革袋を調香台に放り投げ、中から鈍い金貨の擦れ合う、品のない音が響く。
ルドルフ・バルト「合格だ。神の代行者たる私にこそ相応しい。今後もこの香りを絶やすなよ」
赤と金の背中が、我が物顔で工房を去っていく。
扉が完全に閉まった瞬間、ユーリの口元に、氷のように冷たく、歪みきった笑みが刻まれた。
ユーリ・ハルバート「吸い込め、ルドルフ。お前が神の代行者を気取るたびに、お前の肺は、己の傲慢で満たされていく」
数年後、彼がエリーゼを裏切り、断頭台へ送ろうと企てたその瞬間。
蓄積された因果の香りが、彼の脳内で最悪の狂気と被害妄想を完成させる。
お前は自らの恐怖に食い破られ、自ら破滅の道を選択するのだ。
「ゴホッ、ゥ、……ガハッ!」
突如、燃えるような熱い塊が喉をせり上がり、ユーリは石畳に激しく膝をついた。
灰色の床に点々と飛び散る、鮮血の赤。
黒いコートの袖を捲り上げると、左腕を侵食する黒い煤の紋様が、すでに肘を越えようとしていた。
因果を無理やりねじ曲げた代償は、彼の肉体の寿命を、砂時計の砂のように削り落としていく。
視界が、血の混じった涙で急速にかすんでいく。
その時、閉まったはずの工房の扉が、壊れんばかりの勢いで再び跳ね上がった。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「ユーリ!」
まだ「聖女」としての過酷な運命に囚われる前の、幼さを残したエリーゼがそこに立っていた。
彼女の美しいアメジストの瞳が、血を吐いて倒れるユーリの姿を見て、激しく見開かれる。
第三章: 狂気の聖女と裏返る救済の真実

格子窓から差し込む静かな月光が、冷たい石の床の上に、二人の影を長く落としていた。
「どうして、またそんな無茶をするのですか、ユーリ!」
エリーゼは泣きながら床に膝をつき、自身の白いドレスが汚れるのも厭わず、ユーリの手を握りしめた。
純白に金の刺繍が施された神聖な衣の袖口からは、祈りの日々に刻まれた、痛々しい擦り傷が覗いている。
彼女の華奢な手のひらから、淡い翡翠色の治癒魔法の温かい光が溢れ出した。
しかし、ユーリの腕を侵食する黒い煤の紋様は、その光を嘲笑うように、さらに皮膚の奥へと根を広げていく。
ユーリは激しい喘鳴の合間に、優しさを覆い隠した冷徹な仕草で、その手を強く振り払った。
ユーリ・ハルバート「触るな。お前がその奇跡の力を、僕のような男のために無駄にする必要はない」
ユーリ・ハルバート「お前はただ、僕が敷いた完璧な図面の上だけを歩き、生き残ればいいんだ」
そのために、僕は自分の魂を、何度も擦り潰して時間を巻き戻してきたのだから。
だが、エリーゼのアメジストの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、ユーリの冷え切った手の甲を濡らしていく。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「嘘つき。あなたが私のために、何度も何度も血を流して倒れる夢を、私は何度も見るのよ」
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「私が聖女としてあの冷たい断頭台で死ねば、あなたはもう、こんなに苦しまなくて済むのでしょう?」
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「なら、私は喜んで死にます! あなたを救うためなら、私は喜んで魔女として果ててみせる!」
世界から、すべての音が完全に消失した。
ユーリの脳髄を、氷の楔が貫く。
彼女は救われることを望んでなどいなかった。
ただ、自分を救うために何度も死を選ぶユーリを終わらせるために、自ら「死を望む聖女」を演じていたのだ。
何という、残酷で歪みきった因果のすれ違い。
ユーリはエリーゼの華奢な両肩を、爪が食い込むほどの強さで掴み、力任せに引き寄せた。
氷藍色の三白眼が、青白い月光を浴びて、底知れぬ狂気と妄執の光をぎらつかせる。
ユーリ・ハルバート「馬鹿を言うな! お前のいない世界で、僕がただの1秒でも呼吸をしているとでも思うのか!」
ユーリ・ハルバート「お前が死を望むというなら、僕は何度でも時間を引き裂き、その運命を圧し折ってやる!」
ユーリ・ハルバート「僕の魂はお前を救うこと以外では息ができない! お前が生きる未来を、僕は無理やりこじ開ける!」
それは純愛という名の、奈落の底から響く呪詛のようだった。
エリーゼはユーリの異常なまでの執着に、呼吸が止まるほどの衝撃を受けながらも、その温もりを求めていた。
二人の荒い呼気が重なり、冷え切った工房の空気を熱く染め上げていく。
エリーゼはユーリの冷たい首筋に、自身の震える指先を這わせ、その胸に顔を埋めた。
♥激しく脈打つ鼓動[/Heart]が、冷たい石の部屋に、生々しい熱を伝播させていく。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「……ああ、あなたとなら、地獄の業火に焼かれてもいい。私を、あなたの図面で満たして……」
エリーゼは涙を拭い、壊れ物を抱きしめるように、ユーリの崩れかけの身体を強く抱きしめた。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「わかったわ、ユーリ。私はもう死なない。あなたと一緒に、この歪んだ世界を生き延びてみせる」
彼女の背後で、大聖堂の巨大な時計塔が、夜の帳を切り裂いて重々しく、不吉な鐘の音を響かせた。
ユーリの仕掛けた因果の歯車が、大聖堂の奥深くで、確実に、そして急速にその回転を速めていく。
第四章: 因果の夜明けと約束の香り

大聖堂の最奥、黄金の祭壇前。差し込む夜明けの澄んだ光の中に、かつての断頭台は存在しなかった。
そこに転がっていたのは、一人の男の、この世のものとは思えない醜悪な狂態だった。
赤と金の豪奢な司祭服を、男は自らの獣のような爪で引き裂き、血肉を撒き散らしている。
ルドルフ・バルト「神の炎が私を焼く! 悪魔どもめ、私の肉を貪るのをやめろ! 近寄るな!」
教皇代理ルドルフ・バルトは自らの顔を掻きむしり、眼球を剥き出しにしながら絶叫した。
ユーリが3年間かけて彼の肺に蓄積させた「調和香」の真実。
エリーゼを悪魔と契約した魔女として告発しようとした瞬間、その香りは脳内で最悪の幻覚毒へと変貌した。
「ぎゃああああああああ!」
ルドルフは存在しない炎から逃れるように暴れ狂い、黄金の祭壇から、冷たい大理石の床へと転落した。
グシャリと、骨の砕ける不快な音が響き渡り、男の四肢が不自然に折れ曲がって動かなくなる。
その瞳から光が完全に消失した瞬間、大聖堂の重い扉が開かれ、朝光が差し込んだ。
群衆の前に立っていたのは、泥に汚れることのない、純白と金のドレスをまとったエリーゼだった。
人々は教会の狂気と邪悪さを目の当たりにし、彼女こそが真の聖女であると、その場に跪き、称え始める。
因果の書き換えは完了し、彼女は死の運命を完全に回避したのだ。
だが、その歓声の嵐の影、冷たい大理石の柱の陰で、力なく壁を滑り落ちる影があった。
ユーリの肉体はすでに限界を迎え、指先からサラサラと、光を帯びた砂のように崩れ始めている。
民衆の狂信的な歓呼を完全に無視して、銀髪を激しくなびかせ、エリーゼが彼のもとへと駆け寄った。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「ユーリ! 嫌よ、置いていかないで! 私が、今すぐあなたを治すから!」
エリーゼのアメジストの瞳から涙が堰を切ったように溢れ、必死に両手をユーリの胸にかざす。
《ハイ・ヒール》
これまでにないほど眩い、翡翠色の奇跡の光が溢れ出すが、因果の崩壊を止めることはできない。
ユーリはかすれていく視界の中で、彼女の涙に濡れた頬を、感覚の消えゆく指先でやさしく撫でた。
ユーリ・ハルバート「泣くな、エリーゼ……。これで、完璧な図面が完成したんだ……」
ユーリ・ハルバート「お前が生きている。それだけで、僕の5回の人生、すべての血と灰に価値があった……」
ユーリの崩れゆく身体から、彼がかつてエリーゼのためだけに調合した、優しく甘い白檀の香りが漂い出す。
その香気は、彼女の引き裂かれそうな悲しみを包み込むように、大聖堂全体へと広がっていった。
エリーゼ・フォン・ヴァルハイト「ユーリ……! ああ、嫌、目を開けて、ユーリ……!」
エリーゼの絶叫が、大理石の天井に虚しく響き渡る。
ユーリの肉体は、まばゆい光の粒子となり、差し込む朝の光の中へと、美しく、完全に溶けて消え去った。
彼の手に残されていた、古びた銀のペンダントだけが、冷たい石床に、静かな音を立てて落ちる。
エリーゼはそれを拾い上げ、狂おしいほどの力で、自身の胸元へと強く抱きしめた。
大聖堂に差し込む朝日は、かつてないほどに澄み渡り、世界を黄金色に染め上げていく。
聖女として生き残ったエリーゼの胸元で、銀のペンダントが、まるで失われた恋人の心臓のように、静かに、しかし力強く輝き続けていた。
エリーゼは、彼の残した優しい白檀の香りを深く肺に満たし、この美しくも残酷な世界を生き抜くことを、強く、強く誓った。