■ 第1章:無意識の怪物と忘却の繭 ■
夕闇が、図書室の古い本棚を黒く塗りつぶしていく。
微かな埃と、古紙の甘い匂いが漂う静寂。それを無残に引き裂いたのは、肉が軋み、気管が押し潰される生々しい音。
咲村 莉子「どうして、どうしてあなたが全部奪うのよ!」
首筋に食い込む、鋭利な爪。
視界を覆い尽くすのは、昨日まで甘いクレープを分け合っていたはずの親友の、赤く血走った眼球だった。
ゆるふわに巻かれた茶髪の隙間から、可愛らしいピンクのヘアピンが、からん、と虚しい音を立てて床に滑り落ちる。流行りに合わせて短くしたスカートも、羽織っている指定外のピンク色のカーディガンも、今はただの狂気を包み込む包装紙に過ぎない。
莉子の背後で、真っ黒な靄が、ヘドロのように蠢いている。
嫉妬と憎悪が物理的な質量を持った異能、《パラサイト・エゴ》。
酸素を断たれた柊祈の喉から、ヒュー、と情けない風の音が漏れる。
虚ろなオッドアイ——右の琥珀色と左の灰色——が、必死に焦点を結ぼうと宙を彷徨う。サイズの大きいダボダボの指定カーディガンの中で、彼女の細い肩が小刻みに震えていた。
柊 祈「やめ、て……莉子、ちゃん……」
指の力が、さらに深く肉を抉る。
気道が完全に塞がれる。祈の視界が、急速に明滅し始めた。
脳髄が沸騰し、鼓膜の奥で自身の心音が耳障りに鳴り響く。
ドクン、ドクン、ドクン。
息ができない。指先から急速に温度が失われていく。
痙攣する肺。酸素を求める本能。
生存の限界値を超えた、その刹那。
祈の頭蓋の奥深くで、ぷつりと、太いケーブルが切断されるような音が響いた。
……ああ、うるさい。
次の瞬間。
周囲の空間がぐにゃりと歪み、万華鏡のように無数の破片となって砕け散った。
強烈な閃光。そして、鼓膜を破るほどの無音が、図書室を呑み込む。
柊 祈「ゲホッ、ゴホッ……!」
激しく咳き込みながら、祈は冷たい床に這いつくばる。
指定のローファーの踵を踏み潰した足元が、力なくリノリウムを擦った。
酸素を貪り食うように大きく息を吸い込み、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、誰もいなかった。
莉子の姿も。彼女が放り投げたはずの革のスクールバッグも。
親友が存在したという痕跡のすべてが、この世界から跡形もなく「削除」されている。
祈の異能、《忘却の繭》。
防衛本能という名の怪物が無意識下で暴れ狂い、一人の人間を世界のシステムから完全に消し去ったのだ。
窓から差し込む、血のように赤い夕陽。
それだけが、床に這いつくばる祈の震える細い指先を、冷酷に照らし出している。
■ 第2章:冷たいカリスマと逃れられぬ箱庭 ■
翌朝。学園は吐き気がするほど、完璧な平和に包まれていた。
誰一人として、咲村莉子という生徒が存在したことを口にしない。
名簿の並びも、クラス写真の余白も。
まるで最初から彼女などいなかったかのように、世界のつじつまは完璧に修正されている。
私のせいだ。私が、消してしまった。
胃の腑を冷たい手で掻き回されるような吐き気に耐えながら、祈は廊下の壁に寄りかかる。
己の内に潜む、正体不明の怪物。
指先を擦り合わせても、残っているのは首を絞められた幻の感触だけだった。
その時、周囲の温度が急激に数度下がった。
ざわめいていた生徒たちが、モーゼの海割りのように波が引いて道を空ける。
磨き上げられた革靴の足音が、規則正しく響いてくる。
カツン。カツン。
御堂 累「……お前も、ついに『こちら側』に堕ちたか」
氷のように冷たく美しい青い瞳が、祈の琥珀と灰色のオッドアイを真っ直ぐに射抜く。
漆黒の髪を後ろで綺麗にまとめ、シワ一つない制服を完璧に着こなした長身の青年。生徒会長、御堂累。
歩く姿は貴族のように優雅で、一切の隙がない。
彼の手には、常に純白の手袋がはめられていた。極度の潔癖症の証。
柊 祈「会長……私は、何も……」
累は歩みを止めず、すれ違いざまに祈の耳元へ顔を寄せる。
御堂 累「隠さなくていい。お前の放つ血と絶望の匂いは、どんな香水よりも甘い」
祈に対してのみ熱を帯びた、粘着質な囁き声。
ぶわりと背筋に悪寒が走り、祈は逃げるようにその場から走り去った。
放課後。
祈は旧校舎の裏手へと追い詰められていた。
湿った苔とカビの匂いが立ち込める、高いコンクリート壁の行き止まり。
目の前には、累に精神を操作され、虚ろな目をした数人の生徒たち。
彼らの手には、鈍く光るカッターナイフや、錆びた彫刻刀が握りしめられている。
じり、じり、と狭まる包囲網。
逃げ場のない密室。
「あ……いや……」
後退する祈の背中が、冷たい壁にぶつかる。
先頭の男子生徒が、無表情のまま刃を振り上げた。
冷たい刃先が、祈の首筋の白い肌に触れようとした、絶体絶命の瞬間。
パリンッ!!
2階の窓ガラスがけたたましい音を立てて砕け散り、空から凶暴な影が降臨した。
■ 第3章:狂犬の降臨と血塗れの忠誠 ■
枷場 廻「俺の神様に、汚え手で触るんじゃねえよ!!」
ズガンッ!
鈍い衝撃音と共に、先頭の狂信者が壁まで吹き飛んだ。
土煙の中から立ち上がったのは、無造作に跳ねた銀髪と、三白眼の赤い瞳をギラつかせた野獣。
学園の指定シャツは胸元まで大きくはだけ、緩みきったネクタイが風に揺れている。
首元や腕には無数の古傷と、真新しいリストカットの痕。耳を埋め尽くす無数のピアスが、血塗れの夕陽を反射して鈍く光る。
学園のつまはじき者、枷場廻。
彼は履き潰した安全靴で地面を力強く蹴り、手にした鉄パイプで次々と生徒たちを殴り飛ばしていく。
骨が砕ける音。呻き声。
だが、多勢に無勢。
背後から忍び寄った一人が、廻の無防備な脇腹に、深く刃物を突き立てた。
柊 祈「廻……くん!」
鮮血が宙を舞う。
しかし、廻の顔に浮かんだのは苦痛ではない。口角を限界まで吊り上げた、恍惚とした狂喜の笑みだった。
枷場 廻「あっははは! いいぜ、もっと寄越せよ……ッ!!」
《痛覚共有》
廻が腹部の傷から血を流して笑った瞬間。
彼を切りつけた生徒たちが、突然自身の腹を押さえて絶叫を上げ、大量の血を吐きながら次々とその場に倒れ伏した。
自らが受けた物理的な苦痛を、対象に強制的に転嫁する理不尽な異能。
返り血を浴び、制服をどす黒く染め上げながら、廻はゆっくりと祈に歩み寄る。
荒い息を吐きながら、彼は祈の足元に崩れ落ちるように跪いた。
むせ返るような血と汗の匂いが、祈の鼻腔を突く。
廻は震える両手で、祈の靴に触れた。
枷場 廻「ああっ、ずっと……ずっとあんたが目覚めるのを待ってたんすよ……」
粗暴な口調は完全に鳴りを潜め、大型犬が主人に甘えるような粘着質な声。
彼は、泥と先ほどの血で汚れた祈のローファーの先に、狂おしく口づけを落とした。
三白眼の赤い瞳が見上げる先には、純粋すぎる信仰と、吐き気を催すほどの病的な依存が渦巻いている。
祈の足首に絡みつく彼の指先は、まるで火傷しそうなほど熱かった。
日常へ帰りたい。ただ平穏に生きたい。





祈のそんな細やかな願いは、この狂犬の血塗られた忠誠によって、無残にも粉々に打ち砕かれた。
■ 第4章:虚飾の崩落と狂愛のイデア ■
ガガッ……ピーーー……
耳をつんざく不快な電子音と共に、祈は目を覚ました。
鼻を突くのは、強烈な腐臭と、ツンとした薬品の匂い。
冷たい鉄の椅子に縛り付けられていることに気づき、祈は身をよじる。手首に食い込む拘束具。
隣の柱には、満身創痍の廻が太い鎖で繋がれ、ぐったりと頭を垂れていた。
ここは学園の地下深く。
無数の巨大な培養液カプセルが林立し、その中には管を繋がれた生徒たちが、羊水に浮かぶ胎児のように眠っている。
彼らの生命力が、淡い緑色の光となって、天井の巨大な装置へと絶え間なく吸い上げられていた。
不気味な水音。機械の駆動音。
御堂 累「目覚めたか、俺の愛しい神よ」
靴音を響かせて現れたのは、御堂累。
彼の異能《完全なる支配》の前に、廻の暴力も空しく、二人とも拉致されたのだ。
累は、常に着けている純白の手袋を、あろうことか他人の血で真っ赤に汚していた。
累は美しい顔に歪んだ笑みを浮かべ、一冊の古いノートを祈の足元に投げ捨てる。
バサッと開いたページには、見覚えのある丸みを帯びた文字がびっしりと書き込まれていた。
柊 祈「それ、は……私の、日記……?」
御堂 累「いいや。お前が世界を弄んでいた『狂気の観察日記』だ。その薄っぺらい自己欺瞞を、今ここで剥ぎ取ってやる」
累の冷酷な言葉が、祈の脳髄を直接ハンマーで殴りつける。
祈が信じ込んでいた「平凡で臆病な被害者」という自己認識。
親友の莉子に怯え、目立たないように息を潜めて生きてきた記憶。
それらすべてが、完全な『嘘』。
真実は真逆。
柊祈こそが、他者の精神を玩具にして弄び、崩壊させることを至上の娯楽とする、冷酷なサディスト。
この学園の異常な異能システムを作り上げた張本人——かつて君臨していた『王』。
親友・莉子の喪失すらも、自らが壊した罪悪感から逃れ、悲劇のヒロインを演じるために自らの記憶を封印した、身勝手な自作自演に過ぎなかった。
累は祈に絶対的な服従を誓わされた、元・狂信的従者。
そして廻は、祈の非道な人体実験の被検体第1号。
パキンッ!
脳内に強固に施されていた封印が砕け散る。
記憶の濁流が、決壊したダムのように一気に流れ込んでくる。
莉子を嘲笑いながら、その精神を徹底的に破壊した日の、自分の歪んだ笑顔。
他者が絶望に染まる瞬間に味わった、あの甘美な蜜の味。
思い出した。
全部、私がやった。私が、壊したのだ。
柊 祈「ああっ、あああああああっ!!」
信じていた世界が反転し、オッドアイの瞳孔が限界まで見開かれる。
祈の悲鳴が、緑色の光に照らされた地下施設に、虚しく、そしてどこか歓喜を帯びて響き渡った。
■ 第5章:地獄の底で結ばれる奇妙な共闘 ■
真実の重みに耐えきれず、椅子に縛られたまま狂ったように頭を振る祈。
その無惨な姿を見た瞬間、累の内側で何かが完全に崩壊した。
御堂 累「俺だけを置いて、記憶を捨てて逃げたお前を絶対に許さない……! だから、この忌まわしい箱庭ごと全てを破壊して、お前を俺だけのものにする!」
血に染まった純白の手袋を乱暴に引き裂き、累が両手を天に掲げる。
ドクンッ、ドクンッ!
地下施設全体が不気味に脈打ち、コンクリートの床が爆発的にひび割れる。
深い裂け目から、醜悪に膨れ上がった巨大な肉の塔が産声を上げ、学園全体を飲み込むように急成長していく。
培養カプセルが次々と割れ、中の生徒たちが肉の海へと飲み込まれていく。
強大すぎる異能の負荷により、累自身の皮膚から血が噴き出し、彫刻のように美しい顔の半分が崩死し始める。
天井が崩落し、巨大な瓦礫が雨のように降り注ぐ。
このままでは、全員が肉の海に押し潰される。
その極限状況の中。
鎖を引きちぎる鈍い金属音と共に、血まみれの野獣が立ち上がった。
枷場 廻「ハッ……いいぜ、テメェの痛み、俺が全部引き受けてやるよ! 道を開けろ、クソ生徒会長!」
廻が自身の胸ぐらを掴み、爪を深く食い込ませる。肉が裂け、鮮血が飛ぶ。
《痛覚共有・逆流》
累の身体を蝕む崩壊の激痛が、すべて廻の肉体へと転嫁される。
廻は両目から血の涙を流し、全身の骨が軋む音を立てながらも、狂ったように笑い声を上げた。
御堂 累「……黙れ、狂犬。祈に傷一つでもつけたら殺すぞ」
崩死の痛みを免れた累が、残された力のすべてを振り絞り、落下する瓦礫を弾き飛ばす。祈を守るための、絶対的な防壁を構築していく。
これまで殺し合うほど憎み合っていた二人の男。
極度の潔癖症の生徒会長と、不潔なスラムの野獣。
だが、「柊祈を永遠に生かし、独占する」という同じ狂った目的のためだけに、ベクトルが完全に一致した。
血と絶望が渦巻く奈落の底。
降伏も妥協もない、相反する二つの狂愛が、奇跡のような共闘の絆を生み出した瞬間だった。
■ 第6章:純白のカタルシスと完璧な終幕 ■
崩壊する学園。
無数の生徒たちが発狂し、うごめく肉の塔の養分となっていく地獄絵図の中心。
累の強固な防壁の中で、祈はゆっくりと立ち上がった。
手首の拘束具は、いつの間にか外れ落ちている。
サイズの大きいダボダボのカーディガンが肩から滑り落ち、華奢な肩が露わになる。
うつむいていた顔が上げられた時。
そこにはもう、何かに怯える哀れな少女の面影は、微塵も残っていなかった。
琥珀と灰色のオッドアイが、冷酷で圧倒的な、捕食者の光を放っている。
トラウマすらも自身の娯楽として消化した、真の『王』の覚醒。
祈は、眼下に広がる地獄を見下ろした。
自分のために血の海に沈み、全身の骨を砕きながら、それでも狂ったようにこちらへ微笑みかけてくる累と廻。
道徳も、倫理も、人間の尊厳すらもない。
ただひたすらに、己のすべてを捧げて自分を求める、純度百パーセントの狂愛。
柊 祈「……あなたたちって、本当に救いようのない馬鹿ね」
冷たく、しかし慈愛に満ちた涙が一筋、祈の頬を伝い落ちる。
柊 祈「全部、忘れさせてあげる。理不尽も、痛みも、このつまらない世界も。そして——永遠に私の中だけで生きて」
祈が両手を広げる。
《忘却の繭・エントロピー逆流》
圧倒的な純白の光が、網膜を焼き尽くす。
学園の狂気も、蠢く肉の塔も、怨嗟の絶叫も。
すべてが光に飲まれ、白紙へと還元されていく。
完全に音の消えた世界。
やがて光が収束した先には、瓦礫の山となった世界の裏側だけが広がっていた。
誰の記憶からも消え去った、完全なる静寂の廃墟。
風の音すらない、絶対的な無。
冷たいコンクリートの上。
累と廻は、一切の記憶と自意識を失い、ただ「祈を愛する」という原初的な感情だけを残された、従順で美しい人形のように、祈の膝元で安らかに目を閉じている。
二人の穏やかな寝息だけが、微かに祈の耳に届く。
祈は、自らの指先に滲む彼らの血を、ペロリと舐めとった。
鉄の味が、舌の上で極上のスイーツのように甘く溶ける。
彼女はゆっくりと両手を伸ばし、累の漆黒の髪と、廻の銀色の髪を同時に、愛おしそうに撫でた。
柊 祈「いい子だわ。もう誰にも、邪魔させない」
祈の細い指先が、二人の首筋をそっと這う。
体温を感じ、脈打つ命を独占する絶対的な快楽。
これこそが、彼女が求めていた究極の箱庭。
永遠に完成された、狂愛の密室。
血に濡れた王は、誰にも届かない静寂の廃墟の中で、二つの命を抱きしめながら、狂おしく甘い微笑みを浮かべ続けていた。